長編連載小説 Huggers(15)

加乃から告げられた言葉に、沢渡は衝撃を受ける。

       沢渡 3(続き)

加乃は困ったような顔をした。
「教えてください。もし何か、知ってらっしゃるのなら」
「以前、家をお買いになるというお話があったんですよね」
 沢渡は驚いた。その話は長谷川にもしたことがない。
「詩帆が……あなたにそれを?」
「ええ。その話が出たときに詩帆さん、気がついたそうです。自分は家が欲しくないんだって」
「それは詩帆から聞きました。家が欲しくないというのは。今はまだその時期じゃないと思う、というふうに言っていました。子供ができたら、その子をどこで育てたらいいか真剣に考えようと」
 加乃は沢渡の顔から少し視線をはずすようにした。
「主人にはそう言っている、と詩帆さんは言ってました」
 沢渡は一瞬言葉を失った。
「家を買うということが具体化しそうになったとき、急に恐くなったって」
「恐くなった? 詩帆がそう言ったんですか?」
「はい」加乃は沢渡の顔をじっと見つめてうなずいた。
「恐いって、何が?」
「わかりません」加乃は再び目をそらし、小さな声で言った。
「ただ、ずっとこのままではいられないという気がするって」
「それは――僕との関係のことを言ってたんでしょうか?」
加乃は意を決したように言った。
「おそらくは」
 沢渡は黙り込んだ。本当は、心当たりが全くないわけではなかった。家の話が出たのは詩帆が不妊治療をやめると言い出す直前で、二人の間で治療をめぐって温度差が広がっていた時期だった。
 しかし今はそれよりも、上司の妻からプライベートに干渉されているという不快感、詩帆が自分への不満を他人に相談していたことへの苛立ち、家庭の内情を知られていたことへの恥ずかしさ、腹立たしさが先に立った。

「詩帆は外に何か、あなたに話したんでしょうか。僕たちの――夫婦のことを?」
 思わず語気が強くなる。
「具体的には、何も」答える加乃の声が小さくなった。
「でも、詩帆さん、ずっと……さびしそうでした」
「さびしい? 詩帆が? そう言ったんですか?」
「いいえ。でもそのくらい、見ていればわかります。あなたは気がつかなかったんですか?」
「子供ができなかったことは、――それはさびしかったと思います」
「それだけでしょうか?」
「なぜ、僕らのプライベートをあなたに話さなければならないんですか?」
「詩帆さんがかわいそうだからです。このままじゃ、詩帆さんがあんまりかわいそうだから」
「何がかわいそうなんですか? 勝手に出て行ったんですよ。何も言わずに」
ふいに怒りが抑えきれなくなり、体が震えるのを感じた。
「……ええ、考えましたよ。何がいけなかったのか。どうして出て行ったのか。気が変になるくらい、考えました。でもわからない。知っているなら、教えていただけませんか? 何が不満だったのか。どうしてさびしかったのか。僕らは休日には二人でランチや散歩にに出かけていたし、めったにケンカもしなかった。もちろん暴力をふるったことなど一度もありません。不妊治療だって、どんな検査だって協力してきた。何でも詩帆の望むとおりにしてきたんです。それを何も知らない、何も関係ないあなたに、なぜ責められなければならないんです?」
 ほとんどケンカ腰になって言い放ってから、加乃の怯えたような目つきに気づき、急に我に返った。
「申し訳ございません、加乃さん」自分の立場を思い出し、自己嫌悪に襲われる。
「言い過ぎでした。……心配してくださるのはありがたいです。でも本当に、わからないんです」
 加乃は黙っていた。気まずい空気が流れる。
「話は、それだけですか」
腕時計を見て、沢渡は言った。
「僕はそろそろ会社に戻ります」
「は?」言われたことの意味がわからない、というように加乃が言った。
「すみません、僕5時に会社から電話をしなきゃならないんです」
「電話?」加乃は眉を寄せた。「なんの?」
「根本さんです。加乃さんもご存知でしょう。あの方は時間にうるさくて、5時と言ったら5時に電話を握りしめて待ってるような方なんです」
「待たせておけばいいでしょ」
「加乃さん、お言葉ですが、先代や社長がどんなに苦労して、今の顧客との信頼関係を築いてきたかを考えれば、そんな言い方はなさらないほうが」
「そうですよね」はき捨てるように、加乃が言った。
「主人にもよく言われます。これだから女は困る、って。私達の気持ちなんて、あなたたち男性にとってはどうでもいいことですよね。男の人の仕事上の信頼関係とかプライドとかに比べたら、さびしいだの、悲しいだの、お気楽なもんですよね」
「そんなことは言ってません。仕事は仕事です。それとこれとは、全然別の話でしょう」
「沢渡さんは」沢渡の答えが聞こえなかったかのように、加乃は言った。
「さびしいって思ったことは一度もないんですか?」
「僕は男ですから。さびしいなんて感じません。甘えとしか思えませんね、僕には」
 言ってからまた、微かな心もとなさが胸をよぎるのを感じた。
 加乃はしばらくじっと、沢渡を見つめていた。それから「本当だ」とつぶやいた。
「本当。詩帆さんの言った通りだ。言葉が通じないんだ。全然、言葉が通じない」
「え?」
「もう、結構です」
 叫ぶようにそう言うと加乃は身を翻し、公園を出て保育園の正門のほうへ急ぎ足で消えた。
「夕焼け小焼け」の歌がスピーカーから流れ始める。それが5時の合図だとわかっていたが、沢渡は腕時計を見る。「沢渡くんは、最近変わったね。前はもっときちんとしていたよ」という根本の声が聞こえてくるようだ。
 そこに立ち尽くしたまま、秒針が一秒一秒正確に時を刻んでいくのを見ていた。右回りに律儀にまわり続ける秒針をじっと見ているうちに、ふとその意味するところがわからなくなって、混乱した。
「夕焼け小焼け」のメロディーの最後の音の余韻が、放送を終えたスピーカーのまわりでまだ微かに空気を震わせている。
「五時」
自分に言い聞かせるように口に出してつぶやいたが、その言葉はただ音として耳に響いてきただけで、何の意味も持っていなかった。5時? 5時って、何だろう。また、ひどいめまいがした。沢渡はスピーカーの足元にある石のベンチまで何とか歩いていき、倒れこむようにすわった。

 公園の前の道を、次々とお迎えにきた母親たちが自転車や早足で通り過ぎていく。スーツにパンプス姿の母親もいれば、ジーンズにダウンジャケットというラフな格好の母親もいる。年齢もまだ十代ではないかというような幼い顔立ちから、四十代後半くらいまで様々だ。この一人一人が朝、子供を起こし、服を着せ、朝食を食べさせ、自分もきちんと身支度を整えて保育園まで送ってくる。通勤し、仕事をし、帰りに保育園に迎えにきて、夕飯の買い物をし、夕飯を作って食べさせ、お風呂に入れて寝かしつける。病気をすれば夜通し看病だ。子供が二人なら二倍、三人なら三倍の労力だ。加乃のように上の子が小学生ならその子の学校のこと、成績や持ち物、友達関係、PTAの仕事や行事。毎日毎日何年も果てしなく続く。何という生命力、何という持久力。

 沢渡は頭痛をこらえながら立ち上がった。いったん公園を出て、保育園の金網のフェンスに沿って外側を回り、建物の反対側の正門へ回った。中庭で、保育士が子供を母親に引き渡している。
 エプロンをして、スニーカーをはき、笑顔で子供にバイバイ、と手を振る保育士。「どんなに私になついてくれてても、お母さんが迎えに来たら、もう振り向きもしないんだよね」と笑いながら言っていた詩帆の声を思い出す。
 フェンスにしがみつくようにして体を支える沢渡の横を、お迎えのすんだ親子が手をつないで通りすぎていく。母親たちの顔つきが、入って行くときとすっかり変わっていることに驚く。仕事の疲れや、職場での嫌なことの余韻をひきずっていた表情が別人のようになって、晴れ晴れと満ち足りて見える。

 彼女たちは知っている。産卵のために生まれ故郷の川に向かう鮭や、絶妙のタイミングで海を渡る渡り鳥のように、向かうべき方向を本能的に知っている。生命の根本に係わる何か、5時という言葉や針の示す位置に惑わされて、男たちが忘れてしまった、一番大切な何かを。お気楽なのは、もしかしたら画面の中の数字や目の前の相手を満足させることだけに気をとられている自分たちのほうなのかも知れない。

――僕は男ですから。さびしいなんて感じません。

 それではこの感覚はなんだろう? 詩帆の笑顔、柔らかい小さな手、待ち合わせの場所で沢渡を見つけて、少し恥ずかしそうにそっと手をふる姿、そんなひとつひとつを思い出すたびにみぞおちに差し込むこの痛み。

 もうすぐ、お迎えをすませた加乃が将太と手をつないでまたここを通る。その加乃を呼び止めてたずねたい衝動にかられた。

 頼む、教えてくれ、どうか。詩帆はなぜさびしかったのか。言葉が通じないというのはいったいどういう意味なのか。そして――いったいどうしたら、彼女を取り戻せるのか。

 しかし沢渡は、フェンスに背を向け、フラフラする頭を片手で押さえるようにして、少しよろめきながら歩き出す。まだ夕焼けには早い五月の夕刻の空は、まぶしいほどに光に満ち溢れていた。

(つづく)


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