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長編連載小説 Huggers(24)

裕子は担当患者についての悩みを小倉に打ち明けるが……

裕子(4)

 園田幸生は目を開いている。
 脳内の出血範囲が広かったため、命が助かったこと自体が奇跡に近い状態だった。緊急手術でそれ以上の出血は食い止めたものの、その後も脳浮腫、低体温療法からの離脱時の発熱、水頭症、臓器不全、肺炎など次々と襲う合併症と闘い続けた。
 裕子は園田の顔をのぞきこみ、体をゆする。
「園田さーん、聞こえますか。園田さん」
目を開いてはいるが、何も見ていない。注視や追視の兆候はない。強い痛み刺激には反射的に体を動かすが、医師の診断でも意識の回復は絶望的だ。それでも不思議なことに、裕子には園田がすべてを理解しているような気がしてならない。
 意識障害の患者は何人も見てきたが、そんな風に感じたのは初めてだった。
点滴の交換や巡回で園田のところに来るたび、時間に余裕がある限り手をさすったり話しかけたりしている。
「園田さん、園田さん聞こえますか」
 と呼ぶと、なぜか動かない彼の目に光がさすような気がするのだった。
 今日も勤務を終える前にしばらくそうして園田に話しかけてからナースステーションに戻ると、看護師長が園田の転院先がやっと決まったと告げた。

「あ」
 久々にzoom画面に現れた小倉が、小さく声を上げた。
「西野さん、髪、切ったんだ」
「え?」
 カットに行ってからもう二週間ほどたっていて、自分ではすっかり新しいヘアスタイルに慣れていたので、変えたことすら忘れていた。
「ああ、そう。切ったんですよ~」
 照れ隠しに笑ってみせる。
「何か心境の変化?」
「いえ、そうじゃないんですけど。ただ、気分を変えてみたくて」
「ふうーん」
 小倉は何かひっかかるように少し間をおき、それからちょっと言いにくそうに、「似合います」と言った。そしてすぐ、あわてたように「あ、女性にこういうのって言っちゃいけないんでしたっけ」と続ける。
「いいえ、大丈夫です、私は。ありがとうございます」と笑ってから、急に恥ずかしくなって話題を変える。
「ご無沙汰してしまって、ごめんなさい」
「何で謝るんですか?」小倉はおかしそうに言った。
「ああ、ええと、その」
「気にしなくていいですよ。僕、基本、便りがないのはいい知らせって、思ってますから」
「あ、はい」
「でも、連絡くれたってことは、何か気になることができたってこと?」
「はい、ちょっと。ああ、あの、セッションのほうは順調なんです。紹介者なしのいちげんさんも、この前初めてセッションさせていただいたんですけど、全然問題なくて、むしろ中途半端に予備知識がないだけ私のいうことをしっかり受け止めてくださるというか」
「それは素晴らしいね。八月号の『ライトワーカーズ』の、今注目したいライトワーカーたち、だっけ? あの特集記事が出てから受講希望者が急増してるって聞きましたよ」
「そうらしいですね。この前永野さんと話したんですけど、電話の声がすごくはずんでました。写真、イケメンに写ってましたね、って言ったら大照れで」
「ああ、デレクも背が高くて見栄えがするし、あの記事はかなり効果ありましたね」
 小倉は多少皮肉のこもった感じで笑い、それからまじめな顔に戻って言った。
「すみません西野さん、話がそれました」
「いえ。実は病院で担当の患者さんのことで。中年の男性なんですが、脳幹の出血で、あ、これ、ほんとは言っちゃいけないんですけど」
「大丈夫です」小倉が笑う。
 裕子は園田の症状をできるだけくわしく説明した。
「遷延性意識障害、昔だと植物状態といわれて、何もわからない昏睡状態と思われている患者さんの中にも、全部とか、または少しでも聞こえていて、こちらのいうことも理解している方もいらっしゃるんです」
「そういうのは、検査ではわからないの?」
「もちろん、意識障害の程度を判定する指標があります。それらの検査を慎重に行った上でのドクターの総合的判断です。それなのに、私にはどうしても、その方が全部わかっているような気がしてしょうがないんです。変ですよね、医療従事者なのに」
「そんなことないと思いますよ」
「もしそうなら、まぶたでも指の先でも、体のどこか一部を動かすことさえできれば、自分の意志を伝えることができるんですよ。たとえ本当に意識がないとしても、毎日家族や、つきそいの人が声をかけたり体をゆすったり、刺激を与えることで、絶望的と言われた患者さんでも意識を回復されることがあるんです」
裕子はテーブルに肘をついてため息をついた。
「私、今までどちらかというと患者さんにはのめりこまないタイプでした。というよりはそうせざるをえなかったのかも。この仕事ってある程度割り切らないとやっていけないところがあって」
「ええ、そうでしょうね」
「でもこの方は、いつも一人ぼっちなので、そういうことをしてくださる方がいないんです。同じ病室の方のところに奥様が、毎日面会にいらして、声をかけたり体をさすったり、それは熱心にされているのに比べると、なんだか気の毒になってしまって。もちろん、私たち看護師は声をかけますしお世話もしますけど、どうしても時間は限られます」
「それは仕方ないんじゃないかな」
そう言った小倉の声の何かが気になって、裕子はモニター画面に映った彼の顔を見つめた。常に明るく曇りのない彼の表情がどこかどんよりとして精彩を欠いているような気がした。
「小倉さんどうかしました?」と聞くと相手はあわてたようだった。
「え? いや、そんなことないよ。どうして?」
「ごめんなさい、ちょっとそんな気がしただけです」
「それで? 西野さんが悩んでいるのは、もっとその患者さんに時間を割いてあげたいってこと?」
 小倉がいつもの快活な調子に戻ってたずねてきた。
「え? ああ、それもあります。でもその先がもっと心配なんです。急性の症状が治まったので別の療養型の病院に転院するんですけど、その先でどれだけリハビリが受けられるかは、ある意味お金の問題なんです。転院先でも意識の回復が望めないと診断されれば、介護施設でただ生かされているだけ、みたいな状況になりかねません。よくわからないんです。これでいいのかなって思うんです。看護師としてというより、人間として。ああ、ごめんなさい。うまく言えません」
「急がないでいいですよ」
「ハグを、してあげるのはどうでしょうか」
「セッションを?」
小倉は少しの間黙り込んだ。
「むずかしいでしょうね。相手が望んでいるということが大前提だし。本当に意志疎通ができるようになれば話は別ですが」
「そうですよね」裕子は肩を落とした。
「ねえ、西野さん」
呼びかけられて顔を上げると、小倉が今までにしたことのないような不思議な表情で裕子を見ていた。
「西野さんは、少し責任感が強すぎるんじゃないかな。ハガーとしても、看護師さんとしても。僕たちにできることは、そんなに多くはないと思うんです」
「傲慢――ですか、私?」
 思いがけない言葉が口をついて出ていた。小倉が驚いたような表情を浮かべる。
「傲慢なんて、そんなことは思っていません」
「すみません、変な言い方して」
「いえ、僕の言い方が悪かったんです。僕が言いたかったのは」
 小倉は視線を上げて、何かを探すようにする。その顔色がやはり冴えないようだと裕子は思う。
「自分が不完全だと知っているってことは、大切なことなんじゃないかということです。ハグは万能じゃない。そうでしょう。僕自身セッションを受けて、人間関係がすごく楽になったし、そういう意味では人生が全然変わりました。だけど、悩みが消えたわけじゃない。僕、思うんです。痛みとか不幸に、理由なんかないんじゃないかって。ただ全面的に、受け入れるしかないんじゃないかと思うんです。たとえ理不尽に思えることでも」
「全体性とかいう、あれですか。私のチューターだった、アウェイクンドの女性がいつも言ってました。私にはよくわかりませんでしたけど」
「そういうことかもしれません」
ふいに小倉に対し、今まで感じたことのない苛立ちを感じた。
「小倉さんは、目の前で苦しんでいる人を見ても、そう言えるんですか? 苦痛にあえいでいる患者さんや、虐待されている子供や、身内を亡くした人に向かって、痛みをただ受け入れなさいだなんて」
 思わず画面に向かって大きな声を出してから、小倉の様子がおかしいのに気が付いた。
蒼白な顔に、ゆがんだような微笑みを浮かべていた。
「小倉さん?」
「本当は……僕にもよくわからないんです」
 小倉はゆっくりと言った。声が少し震えているように聞こえる。
 怒りは急速に消え去り、心配と申し訳なさでいっぱいになった。
「大丈夫? どうかしました?」
「僕が、偉そうに……ホルダーなんてやってるのは……間違ってるのかもしれません」
「小倉さん? どうしたの? 息が苦しいの?」
 小倉は首を振ったが、肩で息をしているように見えた。
「大丈夫です。……すみません。ちょっと疲れたので、共振は……」
「そんなことはいいんです。それよりほんとに……」
 言い終わらないうちに、通信が切断され、小倉の顔が画面から消えた。黒い画面をぼんやりと見つめながら、裕子は自分に対してひどく苦々しい気持ちになった。

 なぜ今まで考えなかったのだろう。ホルダーもハガーと同じボランティアだ。小倉にだって仕事もあれば、私生活もある。体調が悪いときだってあるだろうし、一人暮らしだとは聞いていたが家族や恋人とうまくいっていないことだってあるだろう。「気を遣わなくていいんです」という彼の言葉をうのみにして、今まで甘えすぎていたのだ。
 これからはもっと、自立しなければ。ハガーとしての活動も今まで以上に忙しくなりそうだ。永野からは、ハガー養成コースの講師になってくれないかと打診されている。今日それも小倉に相談しようと思っていたが、言い出しそびれてしまった。裕子はメールソフトを開き、キンモクセイにメールを打ちかけてから、思い直してキャンセルをする。自分で決めよう。引き受けるにしても断るにしても、これは自分自身の問題だ。(つづく)

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