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長編連載小説 Huggers(11)

不始末を糾弾される覚悟で上司と相対する裕子。

裕子(2)

 西野裕子は永野英夫と向かいあってすわっていた。座卓のお茶はすっかりぬるくなっているはずだ。
 永野はもうずいぶんと長い間、目を閉じたまま黙っている。
 大阪にある英会話スクールの経営者という肩書きだが、裕子にとってはハガー協会日本支部のナンバー2という顔のほうがなじみがある。

 沢渡哲史にハグを行った顛末を電話で報告したとき、永野はただ、近日中に東京に行きますとだけ言った。
 即座の返答と言葉数の少なさがそのまま事態の深刻さを物語っているような気がして、裕子は身の縮む思いだった。

 だが漠然と査問委員会のようなものにかけられて、複数の幹部から糾弾される自分の姿を思い描いていたので、永野が一人で、それも裕子のアパートに訪ねてくると知ったときには少なからずほっとした。

 永野がやってきたのは三月に入ってすぐのある日の午後だった。奥の和室に通すと、彼は緊張した面持ちの裕子を思いやるように、羽田空港のターミナルビルで買ったんですといってスイーツの箱を差し出し、ひとしきり世間話をした。

 永野も小倉と同じく標準語でしゃべるが、ときどきイントネーションが関西ふうになる。裕子は彼らの柔らかい話し方がとても好きだった。耳に心地よい音楽のようで、心が休まる気がした。それともそれはイントネーションのせいではなく、彼らが本質的な何かを共有しているからだろうか。

 永野は彼が経営する英会話スクールの話をしていた。ウェブレッスンを始めて一年半ほどたつが、同時期に参入した業者が多くて過当競争になり、人気講師の引き抜きなどのトラブルが多発、また講師たちの待遇改善要求の動きにも対応しなければならない。顧客からは講師の質に関するクレームも寄せられている。そうした調整のため現地コーディネーターに会いにこれから東南アジアに向かうのだという。

「どちらの国に行かれるんですか?」
「フィリピンが中心です」
彼はまるで誰かに立ち聞きでもされていないかというようにユーモラスに両目を左右に動かしてから、声を落として言った。
「実はインドネシアとタイ。マレーシアにも行きます。これはあっちの仕事で視察に」 
「ハガー協会の?」
「そうです。アメリカ本部の代表のところへは、東南アジア在住のハガーたちから、ハガーの存在を知らせるメールが頻繁に入ってるようです。今アジアで支部があるのはまだ日本と韓国、インドだけですが、潜在的にはたくさんのハガー候補がいるはずです。ただし日本と違い多民族国家ですからね。文化や習慣が壁になります。マレーシアなどイスラム教徒の多い国では、家族以外の異性間の接触は禁じられていますし、仏教国でも僧侶や未婚女性に触れることがタブーとされている場合もあり、道のりは険しいでしょうね」
 永野は他人事のようにのんびりと言った。
「逆に日本が特別なんですよね。きっと。いろいろな宗教を受け入れて共存させているし、新しいものに対してわりと寛容な国民性というか、まあいい加減っていう言い方もできるかもしれませんけど」
 何気なく言うと、永野は笑いをこらえているような、いたずらっぽい顔つきで裕子を見た。
「すみません。私、なんだか偉そうなこと言って」
「いいえ、全然。僕は西野さんのこと以前から尊敬してるんです。あなたは優秀なハガーだし、洞察力も鋭い」
「そんなことないです。私はただ、ハグが全てではないんじゃないかって気がするんです。たとえば宗教や習慣上受け容れられないような人たちに対しては、何か別な方法でその……なんというか、揺り起こす? ことができるんじゃないかって……」
 自分の言ったことに自信が持てず、いつものように語尾がふにゃふにゃと消えた。永野は目を伏せて、テープルの上に置いた自分の両手を見つめていた。
「ごめんなさい、私、会の活動を否定するようなことを」
 心配になって謝ると、永野は目を上げて笑った。
「違うんです、僕もちょうどそんなようなこと、考えていたものですから」
 そして真剣な表情に戻って言った。
「それで例の、不動産屋さんの件ですが」
 急に話が核心にふれたので動揺して、手にしかけていた湯飲みを急いで置いた拍子にお茶がいくらか茶托にこぼれた。
「そんなにあわてないでください。何も西野さんを糾弾しようっていうんじゃありません」
永野は申しわけなさそうに言った。
「ただ、僕には本部に報告する義務がありますので、なるべく詳しく状況をおきかせいただきたいんですが」

 そこで裕子は覚えている限り詳細にあの日のできごとを話してきかせた。会話もできるだけ正確に再現した。ただ、沢渡に抱き起こされたときにふいに自分の内側に湧き起こった切ない感情や、今も体に残る生々しい男性の腕の感触のことまでは話せなかった。

 時々短い質問をする他はほとんど口をはさまず聞いていた永野は、裕子が話し終わると考え込むように目を閉じた。
 それからかれこれ五分近くずっと、目を閉じたままだ。

 彼が眠っているのではないし、実際には考え込んでいるのでもないということはわかっていた。ハガー養成講座で指導係がよく言っていた、「Go deep within」とか「Be still」という状態なのだ。自分という個人を消し去る。それはハガーがセッションを行うときの状態でもある。
 ほどなく永野は目を開き、まるでたった今までしていた話の続きのように言った。「まあ、そういう時期が来たのかもしれませんね」
(つづく)

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