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Huggers(62)

永野は裕子を歓迎する。


裕子  10(つづき)

  新大阪駅から地下道を通って、ハガー協会のあるビルに行く道を探したが、研修や面接などで何度か通った道であるにも関わらず、裕子はまた迷ってしまった。何度か阪急百貨店と阪神百貨店、幾つかの似たような駅ビルのあいだでぐるぐるしたあと、あきらめていったん地上に出、人に尋ねてやっと目当ての雑居ビルを見つけた。

 目的の英会話学校のあるフロアは四階だった。
 だがエレベーターが開いたとき、裕子は一瞬、階を間違えたのだと思った。以前来たときにはエレベーター前や、ガラスの自動ドアのむこうに見えるラウンジには生徒がたむろして談笑していた。しかし今日は人の気配がまったくない。受付には誰もいなかったし、自動ドアはあかず、手で引っ張って開けるしかなかった。
 空調が切られているのか空気がよどんでいて、妙な匂いがした。人気のないラウンジを横切り、廊下を歩いていって、ハガー協会の事務所に使われていた部屋のドアをノックする。廊下から見える教室はがらんとして、机やいすが雑然とおいてあった。
「どうぞ」と中から返事があり、ドアをあけると、永野が長机を前にひとりぽつんとパイプ椅子にすわっていた。何日かひげをそっていないようだった。最後にモニター画面で見たときよりだいぶやせ、面変わりしている。服も着替えていないのか、ワイシャツもズボンもなんとなくしわくちゃで、目がとろんとしていた。
 永野とは去年の春、沢渡をハグしたときに自宅に来てくれたとき以来、Zoomでは何度も話していたが、直接は会っていなかった。だがいつも、身だしなみには気をつかっていたし、やっかいごとを相談しても常に冷静な判断を下し、ときにドライな嫌いはあるにしても、頼りがいのある男性だった。
「ずっと、ここにいらしたんですか、永野さん」
「ああ、西野さん」永野は裕子を見て、自嘲的に笑った。
「わざわざ東京からいらしたんですか。ご苦労さまです」
「携帯にも出られないし、パソコンのメールにも返信がないので」
「すみません」
「学校も、閉められたんですね。知りませんでした」
「ああ」永野は少し投げやりな口調で言った。
「もうずっと前から赤字だったんです。あの、お話ししてたウェブレッスン、ありましたでしょ。現地の講師とうまくいかなくて、過当競争に負けて、手を引いたんですが、あの投資がかなり痛かったです。ハガー協会の資金のほうは、実は去年から、アメリカの本部が内部分裂して、寄付金がこちらに回ってこなくなってたんです」
「それじゃ――永野さん、自分の会社のお金を、協会のために?」
「まさか、一応法人ですからね。そんな勝手なことはできません」永野は笑った。
「講師や、スタッフに払う給料や、家賃もかかりますし。協会のほうには、僕の個人的な貯金を回してました。でも今回のことで、学校の生徒がみなやめてしまって、いよいよ学校もやっていけなくなりました。借金の清算や、給料の未払い分や、前払いでもらっていた授業料の返還をしたら、貯金も全部なくなって、気持ちいいくらいすっからかんです。もう行くところもなくて。ここも今日までなんですよね。明日からどこに泊まろうかって考えてました」
「永野さん――ごめんなさい、私のせいですね」
 裕子はドアのところに立ち尽くしたまま言った。
「私があの男を信じて、余計な話をしたからです」

 根岸が「『幸福』を差し出す不気味な人々」と題して書いた記事には、裕子の話したことのひとつひとつに対する批判が書かれていた。彼は根っからのスピリチュアル嫌いだったらしく、ハグセッション以外にもスピリチュアルと呼ばれる分野のさまざまなワーク、セミナー、セッション全般の非科学性を説き、不安な世相を反映し人心を操作しようとする、宗教よりさらに危険な思想グループだと結論づけていた。

 その記事だけだったら、さほど注目されなかったかもしれない。だが同時期にミアがかつてアメリカで学生をしていた頃、薬物を常習的に使用していたという証拠写真つきの暴露記事が発表され、そちらとの相乗効果で、協会に対し批判の声が殺到した。
 セッション希望者はいなくなり、ハガーたちはセッションを中止した。永野はメディアの注目の的になり、しばらくは弁明に努めていたが、やがて日本ハガー協会の解散を発表した。

「私がアウェイクンドなんて、役不足でした。やはり代表にちゃんとハグしてもらわないとダメだったんですね」
「違います、違います、西野さん」永野は急にわれに返ったように、快活に言った。
「一見そう映るかもしれませんが、実際に起こったことは、そんなことじゃないんです。それにあのライターも、自分の仕事をしただけです」
そして向かい側の椅子を手で示した。
「どうぞおすわりになりませんか? もしお急ぎでなかったら」
 裕子は苦笑した。
「お急ぎって……。私、あなたに会いに来たんですよ――謝りたくて」
 永野はそんな必要はない、というように頭を振った。
「お茶でもお出ししたいところなんですけど、スタッフもいないし、自動販売機も撤去されてしまいました」
「そんなのいいんですよ。それより、何も召し上がってないんじゃないですか?」
「いや、大丈夫です」永野は言った。裕子はうながされるまま、椅子に座る。
「ただ、誰とも話してないので、しゃべりたい気分なんです。ご存じと思いますが、僕、おしゃべりなんでね。聞いていただけますか? ここに来たのが運の尽きと思って」
「お安い御用です」
「これ、おとぎ話だと思って、聞いてくださいね。僕もそのつもりで話しますから」
永野は以前Zoomで話すときによくしていたように、パイプ椅子の背もたれにぐっと背中を預け、胸の前で、両手を組み合わせて微笑んだ。
(つづく)


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