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長編連載小説 Huggers (10)

混乱した沢渡は思いがけない人物に助けられる。


沢渡 2(つづき)


 あれはどういう意味だったのだろう。自分はなんと答えたのだったか。あの頃もし、詩帆ともっときちんと向き合っていたら、彼女は今も彼のそばにいたのだろうか。長谷川の息子を受け止めたときのように、こわれかけていた妻の心をしっかりと受けとめてやれていたら、詩帆は世界ではなく自分を選んでくれたのだろうか。 

 どこへ向かっているのかわからないまま、沢渡はただやみくもに歩いた。
どこか遠くから、民族楽器の太鼓のような低い規則的な音がする。ふいにそれが自分の耳の奥から聞こえている幻覚ではないかという恐怖にかられ、沢渡は立ち止まった。そして耳をすませ、その音が時々途切れたりリズムが乱れたりすることにほっとしながら、改めてまわりを見回した。

 やけに人が多い。芝生の広場のあちこちに、輪になって声を出したり、芝居の稽古をしている集団が点在している。ダンスの練習をしているグループもある。バドミントンに興じるカップル、キャッチボールをする親子、昼寝をしている中年の男。一度に5匹も犬を引き連れて散歩している夫婦。名前のわからない金管楽器を演奏している男。とんぼ返りで前を横切っていく青年。
 
 視界のなかで繰り広げられる光景に、人間というものがとる姿形の驚くほどの多様さに打たれ、圧倒された。足元の地面が沈み込んでいく。気が狂ってしまうのではないかという激しい不安で立っていられなくなり、地面にひざをつき、頭を抱えた。

 すぐそばを何人かの人が通り過ぎていく気配がして、おだやかな話し声が聞こえたが、沢渡に声をかけるものはいなかった。あまりにも多くの人がいて色々なことをしているので、誰が何をしていても気に留めるものはいないのだろう。 

 しばらくそうしてじっとしていると、頭上から「大丈夫ですか?」という声がして、誰かが肩に手をふれた。顔を上げると、どこかで見た顔の若い男がわきにしゃがんで、心配そうにのぞきこんでいる。
「さっき、清水さんと話していた方ですよね?」
 フリーハグに参加していた男子3人組の1人だと気づいた。撮影をしていた記録係だ。
「具合悪いんですか?」
沢渡は首を横に振ったが、男は「失礼します」と慣れた手つきで沢渡の手を取って、脈にふれた。
「どこか痛いとか苦しいとかあります?」
「いや、大丈夫です」
「立てます?」
 うなずいて立ち上がろうとしたが、足にうまく力が入らず、よろけてまたすわりこんでしまった。男は着ていたフリースのジップパーカを脱いで、芝生に広げた。
「少し横になったら、楽になるかも」
 でも、と言いかけた沢渡を男は半ば強制的に横たわらせ、ポケットからスマートフォンを取り出した。
 横になって空を見上げると、天気は悪くはないはずなのに、青い部分はほんの少しで、あとはほこりっぽい、グレーともベージュともつかない色の薄い雲の層におおわれている。
 記録係男子がスマートフォンをしまい、また「失礼しますね」と言って、沢渡のシャツのボタンをふたつほど外した。
「すぐ、友達が来ますから。近くの入り口までいけば、タクシーが拾えますよ」
「すみません」
「俺たち、こう見えて実は3人とも看護学生なんですよ」
 男子は沢渡のわきに足を投げ出してすわった。
「まだ学生だから、何の役にもたちませんけど」
「看護師さんになるの?」
沢渡が言うと、彼は微笑んで「願わくば」と答えた。
「どうして……」
「え?」
「どうして人には体があるんでしょう? 何のために」
 男子は少しの間、質問の真意を探ろうとするように、黙って沢渡の顔を見おろしていた。それから視線を遠くに投げ、考え込むような顔になった。
「うーん。どうして体があるのか、か。考えたことなかったな」
「すみません、変なこと聞いて」
 男子は笑って首を振った。
「いいえ、だけどなんか、素朴な疑問ですよね。いや、逆に深遠なのか」
「妻にきかれたんです」
「奥さんに?」
「はい。答えを見つける前に、出て行かれちゃったんですけど」
 男子は何か言うべきことを探して口を開いたが、結局何も言わなかった。
 フリーハグ男子2人に助けられて、原宿駅方面よりも近いという別の入り口まで歩き、残りの一人がタクシーを拾ってきた。
 沢渡がタクシーに乗り込むと、記録係がそばによってきた。
「ありがとう。助かりました。迷惑かけて、すみません」と言うと、相手はいいです、というように手を振ってから、声を落として言った。
「さっきの答えですけど。あの、人に体がある理由」
「考えててくれたんですか」
「はい」記録係はうなずいた。
「理由はいっぱいあると思うんですけど、一個だけ思いついたんです。体がないと、苦しいとか痛いとか、そういうのを経験できないからじゃないかなって。病気や怪我で体がしんどいと、人っていろいろ、考えるじゃないですか。人生についてとか、ふだん考えないようなことを。それって大切ですよね、けっこう。それから、自分がしんどい思いをしないと、人の痛みや苦しみもわからないですよね。だからかなって。……すいません、なんかありきたりで」
 彼はそう言って少し照れたように笑い、お大事に、と言ってドアから離れた。君らはきっといい看護師さんになれるよ、と言おうとしたが、その前にタクシーの運転手がドアを閉め、「どちらまで」と無愛想に聞いた。
 走り出した車の窓から見ると、3人はもう何か楽しそうに談笑しながら歩き出していた。
 一人がフリーハグのボードを持って、おどけるように頭の上にかざすと、記録係でないほうのもう一人がふざけて抱きつく。

 目的なんかどうでもいいんだよ。素敵じゃない? 知らない人とハグするなんて。

 じゃれあいながらまた公園の入り口を入っていく彼らの背中を見ていると、詩帆に一度も会ったことのない清水美香やあの青年たちのほうが、自分よりもずっと彼女に近い場所にいるのだという気がしてならなかった。
(つづく)

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