長編連載小説 Huggers(13)
裕子の思いを知った小倉はなぜか焦りを感じる。
小倉 2
小倉はレモンクリームタルトの最初の一口を、華奢な銀色のフォークで口に運んだ。商店街のメインストリートに面した洋菓子店の、二階にある喫茶コーナーの窓際の席からは、通りをはさんで向かい側に軒を並べている商店がよく見える。
ちょうど真向かいに三軒並んでいるのは向かって左から生花店、文具店、金物店で、どの店も小倉がまだごく小さかったころから店構えも品揃えもほとんど変わっていない。
甘酸っぱいレモンクリームのフィリングとたっぷりの生クリームが口の中で溶け合ったところへミルク砂糖なしのアッサムを流し込もうとして、ふとカップの取っ手にかけた手を止める。
文具店の前に有名な文具メーカーのロゴのついた白いバンが停まり、背広を着た若い男が降りてきた。男は車の後ろに回り、ハッチをあけてダンボール箱を取り出し、二つ重ねて手に持って、文具店の自動ドアの中へ入っていく。二度ほどそれを繰り返し、店の中に向かってお辞儀をしながら車に戻ろうとすると、あとに続いてグレーのパーカにカーキのカーゴパンツをはいた女性が出てきた。
全体的に細く小づくりな三十代後半位の女性は、両手で自分の体を抱くようにして、車の脇に立って男と話をしている。小倉は、鼻からほおにかけてほんの少しそばかすがあり笑うとくしゃくしゃになる彼女の顔に見とれる。相変わらずほとんど化粧気はないのだろう。
男が車に乗り込むと、女性は走り出した車に向かって頭を下げる。それから少し上を向き、午後の日差しに目を細める。両手を軽く体側から離してのびをし、よし、又がんばろう、というように。四月の始め、文具店が一年で一番忙しい時期だ。
彼女のまなざしがまるで自分のいるあたりに注がれているような気がして、小倉はどぎまぎとした。もちろんそんなはずはない。この道は小中と通学路だったからよく知っている。文具店の側から見ると、このガラス窓には外の景色が映っていて、中の様子など見えはしないのだ。
彼女は定休日の木曜日以外、土日も祝日も、毎日欠かさず店に立っていた。小倉が物心ついた三歳くらいのときには、小学生だった彼女は既に店を手伝っていた。ここからは店の中は見えないけれど、目をつぶればすぐに思い浮かべることができる。ドアを入ってすぐ右にあるカウンター、いつもそこに立っている彼女の笑顔、狭い通路の両側にびっしりと並べられた文房具。
小倉が初めて彼女と話したのは小学校二年生のときだった。彼女はたぶん、中学生か高校生だったはずだ。
「もう、二度とこんなことしたらあかんよ」と言った彼女の、少女にはふさわしくないほど低く沈んだ声と、小倉の手を跡がつくくらいぎゅっとつねってから、力をこめて握った手のひらの柔らかさを、忘れたことはない。そのころの記憶の多くは断片的で、整理しようとするといつも混乱する。いつも疲れていた母親の顔、妹の位牌に刻まれていた童の文字、踏み潰されて小さな塊になったハムスター、橋脚からもぎとられたように倒れた阪神高速。その中で彼女に叱られたあの瞬間だけが、砂漠で隊商を導く星のようにくっきりと輝いている。
ここがふるさとなのかもしれない、と小倉は思う。土地ではなく、この距離、この感覚。少し離れたところから彼女を見つめているこの心理的な空間。ここに戻ってこられるから、生きていけるのかもしれない。
その日の夜、先週末に西野裕子とスカイプで話したキンモクセイから電話がかかってきた。ホルダー同士はなるべく緊密に情報を共有するようにというのが本部からの要請で、小倉も沢渡という男の件はキンモクセイにくわしく話してあった。
「ねえ、裕子ちゃんが変なことを言ってた」
開口一番、キンモクセイはそう言った。裕子ちゃん、というその呼び方で、裕子とキンモクセイの関係の性質が、ですます調で話す裕子と小倉のそれとはまったく違ったものであることがうかがえる。
「私たち、時々恋バナとかするんだよね」と屈託なく話すキンモクセイの話を聞いていると、通常のハガーとホルダーの関係を逸脱しているような気もする。が、協会が発行しているホルダー心得には「原則として対面で会うことはしない」「ハガーからの要請がない限り、必要以上にプライベートに立ち入らない」というような大雑把な内容がいかにも翻訳調の文章で書かれているだけで、明確な定義はないのだ。みんなきっと手探りで自分たちに心地よい距離を見つけているのだろう。それらの規定にしても、主として異性のハガーに対して心理的に近づきすぎないための予防線なのではないだろうか。
「変なことって?」
「それが、永野さんが、雑誌に広告を出して人を集めるって」
「なんや、それ」
「私もよくわからないんだけど、興味のある人なら誰でもセッションが受けられるようにするんだって」
「誰でも? そんなこと聞いてへんで」
「私だって初耳だよ」
花粉症だというキンモクセイは鼻声で、症状がひどいのだろうか心なしか機嫌が悪いようだった。
「雑誌って、どんな雑誌や」
「さあ。どうせ『スター・チャイルド』とか『ライト・ワーカー』とかその種のあやしいセッションがいっぱいのってるやつよ、きっと」
キンモクセイが吐き捨てるように言ったので、小倉は思わず吹き出した。
「何? そこ笑うとこじゃないよ」
「悪い、けど君が怪しい、て言うからや。それ言うなら、ハグして幸せになる言うのんが、よっぽど怪しいんと違うか?」
「まあね」キンモクセイはしぶしぶ認めた。
「でもさ、二時間で三万とか五万とかありえなくない? 代金が高いと効果があると思うのかしら」
機関銃のようにしゃべるキンモクセイは東京人だ。小倉の知っている数少ない関東の女性は裕子をのぞき、みな早口でよくしゃべる。言っている中身は同じでも、標準語だと不思議と突き放されているような気がする。
「それにしても急だよねえ。いずれそういう日が来るかもしれないとは思っていたけど、まだずっと先のような気がしてた。もっとモニターの段階で、ハグの効果が立証されてからだと。だってあれ、即効性があるっていうもんでもないじゃない?」
「せやな。自分で変化が実感できるようになるまでには結構時間がいるからな。それに、そんな重要なことやったら、本部の決定なんやろけど、大丈夫やろか? なんか俺、嫌な予感がするわ。ハガーの安全は確保されんのんかなぁ」
キンモクセイが沈黙し、小倉は相手が同じ懸念を抱いているのがわかった。
「俺、永野さんに聞いてみるわ。『決定事項や』言うて下りてくる前に、できるだけハガーに負担がかからへんような形にしてもらわんと」
「そうしてもらえると助かる。裕子ちゃんを支えるのは、私らしかいないからね」
キンモクセイの言葉をきいて、不思議な気持ちになった。ホルダーたちはみな、自分たちの担当のハガーに程度の差はあれ思い入れがある。「可愛い」というと語弊があるが、それに近い感覚だ。無条件で、無償の、おそらくは一方的な思い。裕子は自分たちの思いをどう受け止めているのだろう。もしかしたら重荷なのかもしれない。ホルダーはハガーのように特殊な能力があるわけではないから、「支える」といっても共振以外にはセッションのことでアドバイスや指導はできない。そこがもどかしいところだ。
「ねえ、その沢渡さんって人のことだけど、私ちょっと気になるんだよね」
「ん? 何」
「裕子ちゃんが、その人のことすごく気にしてて」
「そりゃあまあ、気になるやろ、前例があらへんし」
「そうなんだけど。でも、様子を見に行ったほうがいいだろうか、って言うから」
「自分で? それはまずいな」
「そう。それはやめたほうがいいって言っといたんだけど」
「そしたら?」
「永野さんからも、本部で何とかするから、気にしなくていいって言われたんだって」
「そんならええんとちゃうのん。何を気にしとんねやろ?」
「もしかしたら、裕子ちゃん、その人のこと、気になってるんじゃないかな?」
「異性としてってこと? ……西野さんがそう言うたんか?」
「自分ではまだ気がついていないと思う。裕子ちゃん、そういうのすごく疎いから。好きとか嫌いとかいう前の段階だと思うけど、何となくそんな気がして」
「そうか。……うーん、それはちょっと、面倒なことになりそうやな」
「いろんな意味でね。・・・・・・ごめん、私もう行かなくちゃ」
「わかった。俺からも少し、探り入れてみるわ。また連絡する」
了解、と言って相手が電話を切ってからも、小倉はしばらく携帯を手に持ったままぼんやりとしていた。
――その人のこと、気になってるんじゃないかな?
小倉は西野裕子の顔を思い浮かべた。裕子はよく夜勤明けの日に連絡をしてくる。ノーメイクにジャージ姿で、「疲れすぎちゃって、かえって眠れないんですよ」と笑う飾り気のみじんもないその顔は、好きとか恋とかいう言葉とは無縁に思えていた。勘違いだったのだろうか。私たち、時々恋バナするんだよね。ずっと前に聞いたキンモクセイの言葉が、今になって心に刺さる。軽いあせりのような気持ちが湧いてくる。自分は本当は、裕子のことなど何もわかっていないのかもしれない。
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