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Huggers(2)

 不動産会社社員の沢渡は、大家の依頼で不審な賃借人の家を訪ねることになったのだが……

 休日も出張してくれる提携先の水道修理業者、三京設備の担当者に電話をすると、13時なら行けるという話だったので、その少し前に先方に着くように家を出た。

 現地は、築30年以上経つ木造二階建てのアパートで、オーナーである辻の自宅のすぐ向かいにある。今日修理を依頼してきたのは204号室の西野裕子という入居者だった。
 沢渡は自宅マンションの駐輪場から自転車を引き出した。昨日切りすぎた髪から飛び出した両耳に、2月の風が冷たい。


 到着したのは13時5分前だった。少しくたびれたえんじ色のセーター姿の辻が、先に到着していた作業服の修理業者と話していた。沢渡の姿を認めると、辻は前歯がほとんど銀歯になっている口でうれしそうに笑った。
「やっぱりね。沢渡君ならきっと今日来てくれると思った」
「何でそう思うんですか」
 沢渡はわざと少し不満そうに言った。オーナーにも色々いて、ひたすら持ち上げられていないと気がすまない人もいるが、辻はどちらかというと軽口をたたき合うのが好きなタイプだ。
「いやぁ、松田さんが、沢渡君はとても仕事熱心だし、担当になってから入居率が急に上がったって言うから。どうやって契約に持ち込んでるの?」
 松田さんというのはやはり沢渡の会社が管理している物件のオーナーだ。オーナー同士の口コミというのも大切な営業手段だ。
「うーん。しいていえば、やっぱり顔がいいんですかねぇ」
 考えこむように右手の指であごをなでながらそう言うと、辻は沢渡の顔をちらっと見てからアッハッハと笑い飛ばし、真顔に戻って「じゃ、よろしくね」と庭をはさんだ自宅の方へ戻っていった。


 業者と二人で階段を上っていくと、錆び付いた階段はギシギシと音を立てた。  
 204号室の呼び鈴を押すと、すぐに「はい」という女性の細い声が答えた。
「長谷川不動産から来ました、沢渡と申します。トイレの修理が必要とうかがったんですが」
 ドアが開いた。チェーン越しに名刺を渡す。西野裕子という賃借人は30代と聞いていたが、目の下にクマのある化粧っ気のない顔、奥二重で少し腫れぼったいまぶたのせいか、それよりもだいぶ上に見える。髪を無造作に後ろで一つに結び、グレーのジャージの上下を着ていた。
「お休みの日にすみません。ご苦労さまです」
 西野はそう言って頭を下げ、いったんドアを閉めてチェーンを外し、改めて彼らを中に招き入れた。
「こちらです。きのうの夜から、うまく流れないんです」
 沢渡は彼女が工具箱を持った水道屋をトイレに案内しているすきに、玄関に立ったまますばやく室内を見渡した。間取りは1DK。入ってすぐ左に洗面所とトイレ、風呂場があり、右に台所と四畳ほどのキッチン。廊下には白いレースの暖簾のような布がかかっているがその奥に六畳の和室があるはずだ。玄関の靴はきれいにそろえられ、靴箱の上にはガラスの小さなビンに一輪の花が飾られている。
 キッチンにはチェックのビニールのカバーがかかった小さなテーブルがあり、その上はきれいに片付いていた。台所もすっきりしていて、洗いカゴには朝食に使ったのであろう一人分の食器が伏せてある。一人暮らしには間違いなさそうだ。
「大変でしたね。トイレが使えないと困るでしょう」
 トイレと玄関の間の壁に、両手で肩を抱くようなかっこうで所在なげに寄りかかっていた西野に話しかける。
「これまでも流れにくいようなことはあったんですか」
「え? いいえ、これが初めてです」
 西野は最初、話しかけられたことに驚いた様子だった。それから沢渡の存在に初めて気がついたとでもいうように、まじまじと彼を見た。
「このあたり、住み心地はいかがですか」
世間話の一つでも、と言った社長の言葉を思い出してそう言ったが、
「ええ、住みやすいです」
と一言で終ってしまい、また穴のあくほど見つめられる。そんな風に見られていると沢渡のほうも落ち着かなくなり、何度か咳払いをして話題を探した。


 トイレの方は単純なつまりで、工具を使用するまでもなく、黒いゴム製のつまり取りで五分も経たない内に解消した。出張料の受け取りをすませた水道屋と共に引き上げようとすると、西野は少しためらうように「あのう、ちょっとご相談があるんですが」と言った。
「私にですか?」
「はい、不動産屋さんに」
「はあ」
 思いがけない言葉に一瞬とまどっていると、そのやりとりを見ていた水道屋は、じゃあ次がありますので、とさっさと帰っていった。それを見送り、ドアを半開きにしたまま、沢渡は言った。
「何でしょう?」
「あの、よかったら上がっていただけます? お茶でも入れますので」
 西野は言ったが、その声の低め方に漠然とした不安を感じ「いえ、お話はこちらで伺います」と急いで答えた。真偽のほどは不明だが、景気が悪くなってから、家賃の払えない女性賃借人から体で払わせてくれとせまられたという話を同業者から聞いたことがあった。
 沢渡の動揺を見透かすように、西野は「ちょっと失礼」と言いながら、彼を押しのけるようにして、玄関のドアを閉めた。
「様子を見にいらしたんですよね?」
「え?」
 白を切ろうとしたが、その手の芝居は苦手だった。
「うちにしょっちゅう人が訪ねてくるから、変なことをしてないか確かめてきてくれって、頼まれたんですよね? 大家さんに。わかってるんです。最近大家さんがよく、うちの様子を伺ってるの、知っていましたから」
「なるほど」
 彼は言った。下手にごまかしたりしないほうがよさそうだ。
「疑ってるとかそういうのじゃないんです。西野様は家賃もきちんとお支払いいただいてますし。ただ一応、用途が居住限定になっているので、ご商売などに使われていないかどうかの確認と、去年同じ区内で賃貸マンションの一室が新興宗教の集会場に使われた例があったので、ご心配されているだけです」
 西野は真剣な顔で二、三度うなずいてから早口で言った。
「ボランティアなんです」
「え?」
「ボランティアで、人助けのようなことをしているんです。それも、いけないんでしょうか」
「いえ、賃貸借契約書の内容に抵触していなければ、問題はありません。差し支えなければ、どのようなボランティアをなさっているのか、簡単に聞かせていただけませんか」
「ここでは、無理です」
 西野はきっぱりと言った。
「説明するのに時間がかかります。どうぞ、中へ」
 そしてラックにかけてあったピンク色のスリッパを取って上がり口に並べた。


 理性が沢渡に、ここは一度引き取って、明日桐尾を連れて出直してきた方がいい、と訴えかけていた。だが一方で、この機会を逸したらもう真実を知るチャンスはないだろうという気がした。先刻の気のいい辻の顔が頭をよぎる。迷った末、スリッパをはいた。


 廊下を行って白いレースをくぐると、和室の隅のほうに小さなガラス棚があって旅行先で買ったお土産のような人形や、輸入物のカップとソーサーなどが飾ってあった。漠然と、妙な仏壇とか神棚を想像していた沢渡はほっとした。座卓とモスグリーンのカバーのかかったソファがあり、ソファから手の届くところに本棚があった。シンプルな部屋だった。
 西野は座卓の座布団を指差して「お茶をいれますので、ちょっとお待ちください」
と言ってキッチンのほうへ行った。


 手持ち無沙汰に、本の背表紙を眺めた。主に看護関係の学術本や、カバーの色あせした歴史小説などの文庫本が並んでいた。それからふと、本棚の上の壁にかかっている、額縁入りの賞状のようなものに目が留まった。
 
             合格証書
                        西野 裕子
 上記の者は、当協会主催のハガー技能検定において合格し、ハガーとして認定されたことをここに証する
              20××年12月14日
                ハガー協会日本支部 理事長 ××××

 理事長のところにはアルファベットのサインが書かれていた。
 ハガー協会? 世の中にはまだまだ自分の知らない、色々な資格があるものだと沢渡は思った。一体どのような資格なのだろう。
 すぐに西野がお茶を運んできた。
「看護師さんなんですよね?」
 西野が座卓をはさんだ向かい側の座布団に腰をかけたので、沢渡は本棚を見ながら言った。
「はい。東栄大学付属病院に勤務しています」
 西野はお盆を畳に置いて、神妙な面持ちで答えた。
「じゃあこの、ハガーという資格は、看護に関係あるんですか?」
 何気なく言って額縁を指差すと、西野はゆっくり顔を横にふった。 
「いいえ、仕事には全然関係ありません。ハガーは、ただ単にハグをする人、という意味です。英語のH-U-Gのハグです」
そして両手で自分を抱きしめるしぐさをした。
「ハグは、わかりますけど。ハガーなんて単語あるんですか?」
「いえ。もともとはそんな単語ないと思います。たぶん造語でしょう」
「ハグをするだけ……それが資格になるんですか。どんな団体が主催しているんですか」
 西野は何の頓着もなく使っているようだが、沢渡は「ハグ」と口にした途端、腹のあたりにムズムズする感覚が走った。
「アメリカに本部があります。日本支部の事務局は大阪にあります。そこで養成講座を受けて資格を取ると、ハグするだけで人を助けることができるようになります」
「ええと、じゃあ、人助けのボランティアっていうのは、誰かをその、ハグすることだと?」
「目に見える形としては、そういうことです」
沢渡は額に手を当てた。
「ちょっと、待ってください。お話を伺っていると、この部屋で何か奇妙な儀式が行われているような印象を受けますが」
 用心深く、冗談ともとってもらえるような言い方をしたが、西野は少しも笑わなかった。
「何も奇妙なことはありません。アメリカの病院では、ボランティアで、小児病棟の赤ちゃんや小さな子を抱っこする人たちがいます。抱っこされた赤ちゃんは気持ちが安定して、それが病状にもいい影響を及ぼすことがデータにも示されています」
 沢渡はまじまじと相手の顔を見た。西野の表情は真剣そのものだ。
「そう言われましても。相手は大人ですよね? それに病人じゃないでしょう。どんな人たちが来るんですか。どうやってここを探し当ててくるんです?」
「そういうものを求めている人たちもいるんです。そういう人たちには自然と情報が入ります」
 沈黙が流れた。沢渡は心を落ち着けるためにお茶を一口飲んだ。予想していたより面倒な話になりそうだ。
「西野様。ここはあなたのおすまいですので何をなさろうと、基本的には自由です。でも私共にはそれを把握して、それがここのオーナーさんやほかの入居者の方々に影響を及ぼさないことを確かめる義務があります」
 どこかにとっかかりを探すべく、沢渡は言った。
「ただハグをするだけなら、誰でもできますよね。なぜ資格が必要なんですか」
 西野は彼をじっと見た。それからおもむろに口を開いた。
「ご自身で体験されませんか」

(つづく)

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