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長編連載小説 Huggers(6)

裕子は、ある人物に助けを求める。


 裕子の開いていたZOOM画面に映っていた、どこかのご当地ゆるキャラの写真が消えて、若い男の顔が映った。
「こんにちは~」
 と言った彼の穏やかそのものの笑顔を見て、裕子は先ほどから続いている極度の緊張感が、やっと少しほぐれ始めたのを感じた。画面の下のほうには、ひどく心細げで情けない自分の顔が、別画面で小さく映っている。
「小倉さん……」と言った自分の声が微かに震えていることに彼女は気づいた。
「西野さん、どうしました?」
 小児科医のような優しい話し方の小倉の声は、28歳だというその年齢にしては低く落ち着いている。

 小倉はハガー協会事務局の本部から、ハガーである裕子に割り当てられた5名の「ホルダー」の一人だ。ホルダーは別名「支え手」とも呼ばれ、通常単独で活動するハガーたちを精神的に支える役割を担っている。
 その5人の支え手たちの誰にも、実際に会ったことはない。
 実名を知っているのも小倉だけだ。最初に接触したのが小倉だったので、ホルダーというのはみな彼のように話しやすくオープンなのかと思っていたが決してそうではなく、小倉のような性格のホルダーはむしろ異色なのだということを、だいぶ最近になって裕子は知った。

 一人のハガーを担当するホルダーのグループには必ず、小倉のように中心となってZOOMやメッセージ、電話などででハガーと接触し、ほかのホルダーをまとめる役割も果たす、コーディネーターのような存在がいる。小倉が不在または都合の悪いときにはサブとしてキンモクセイというハンドルネームの、30歳くらいの女性が代わりを務めてくれる。それ以外のホルダーとは実際に連絡をとることはまずない。

 ホルダーの多くは、身体的に不自由だったり、心の問題を抱えていたりと事情はそれぞれだが、外に出ることや、他人とのコミュニケーションが困難な人々だ。
それでも自分にできる範囲で誰かの役に立ちたいと願う彼らは「共振」という独特の方法を使い、ハガーが精神的に落ち込んだり、問題が起こったときに助けてくれる。

「あんまり顔色がよくないね」
 気遣うように言ったモニター画面の小倉の服装がいつもと少し違うことに裕子は気づいた。主に自宅でネットを使って仕事をしているという彼はふだんはカジュアルなパーカやTシャツなどを着ているが、今日は白いワイシャツにネクタイをしている。
「もしかして出かけるところだった?」
 と聞くと、小倉は笑った。端整な顔立ちをくしゃくしゃっと崩して笑うその笑いかたが裕子は好きで、その笑顔を見るだけで気持ちが和んだ。
「西野さんの悪い癖だね。いつも言うけど、ホルダーには一切気を使わなくていい。ハガーに気を使われるんじゃ、僕らのいる意味がないよ」
 標準語でしゃべっているが、ところどころ、関西方面を思わせるイントネーションがまじる。
「それで? メールにあったまずいことって何?」

「規定違反をしたんです」
 ささやくような声で言うと、相手の表情がほんの少し曇った。
「どういうこと?」
「リストにない相手にハグを」
 口に出してみるとそれが途方もなく重大な過失に思えて、裕子は絶句した。
 画面の中の小倉が落ち着くように、というふうに両手のひらをウェブカメラに向かって動かした。
「大丈夫だよ。共振しますか?」
「お願いします」
 裕子は目を閉じて待った。
 
 共振は、目を閉じた裕子には細やかなエネルギーとして伝わってくる。あるいは日向ぼっこをしているような温もり、じんわりとして、感じ取れる限り微細なピリピリという振動。そのときに共振に加わっているホルダーの顔ぶれによって、少しずつ違う味わいを持つ。
「では、目を開けてください」
 小倉の呼びかけで、裕子は目を開ける。そしてモニター画面の小倉と目を合わせて見つめ合う。小倉の目の奥をじっとのぞきこんでいると、小倉と、自分と、そして今日、彼らに意識を向けてくれているほかのホルダーたちが、名前も性別も過去の歴史も持たない、ただの命として出会い、溶け合うのを観る。

 抱きしめ合うよりも、一つ。

 共振をしている時、裕子はよくそう感じる。
 たとえ愛し合う男女であっても、個別の肉体を持つもの同士は本来、真に一つになることはできないと思っていた。
 だが共振中は、境界がなくなる。自分の意識とか、小倉の意識とかの区別がなくなり、すべてがただ一つだと感じる。もっと正確にいえばそう感じている「自分」すらいなくなり、何もなくなる。
 それは不思議な感覚だ。
 もちろん、すべては気のせいに過ぎず、そんなのは当人たちの思い込みだと言われてしまえば、それまでのことだが。
 一つに溶け合った命から、途轍もない安心感と、幸福感が溢れ出してきた。裕子は小倉の目を見つめたまま、微笑を浮かべる。
「西野さんはやっぱわかりやすくてええな」
 小倉の声も笑いを含んでいる。
「じゃ、気が楽になったところで、話してみる?」

 裕子はうなずき、今日のできごとをかいつまんで話した。小倉はほとんど口をはさむことなく耳を傾けていたが、沢渡をハグしたところまで聞くとさすがに驚いた様子で、ヘッドセットに手を当てて位置を直した。
「え、無理やり、ですか」
「無理やりというか」
 裕子は肩を落とした。
「半分だましたような感じです」
「でも、なぜそんなことに?」
「自分でもわかりません。まるで何かにとりつかれたみたいでした。わざと挑発して怒らせて、手を出させるようにしたんです。そして気を失ったふりをして、助け起こされたときにしがみついて」
「セッション希望者以外をハグ、か。初めて聞くケースやな」
「自分でもどうかしてたと思います。どうしよう、小倉さん。私、クビになると思います?」
「うーん、僕たち別に雇われてるわけじゃないからな。クビとかいう問題じゃないと思うけど、何らかの処分はあるかもしれないな。でもそれより問題は」
小倉の目は少しの間カメラの上方の虚空をさまよった。
「その、ハグされた人のほうです。話したんですか、これからどうなるか」
 裕子は力なく首を振った。
「もし変わったことが起こったら、連絡してくださいとだけ伝えました」
「そうか……」
「一応、連絡先はわかります。名刺に携帯の番号が書いてあったので」
 そう言ってから、裕子は早口で付け加えた。
「小倉さん、ごめんなさい。こんなことをしてしまって、私、ホルダーさんたちに合わせる顔がありません」
 小倉は右手の人差し指を立てて、手首を軽く前後に動かした。
「ほらほら、またやってる。言ったばかりでしょ。僕らのことは気にする必要はないんです」
それから表情を引き締め、思案するように続けた。
「西野さん、僕はただのホルダーで、むずかしいことはよくわからない。今は早急に事務局に連絡をとって、指示を仰いだほうがいいとしか申し上げられません。ただ、どうか忘れないでください。僕らホルダーは、セッション希望者に直接コンタクトする力はありません。上の人たちにもできない。それができるのはあなたたちハガーだけなんです。西野さんはいわば僕らの希望そのものなんですよ。僕らは全力であなたを支えます。何があっても」
「ありがとう」
 裕子は画面に向かって深く頭を下げた。
 何かあったらいつでも連絡をください、という言葉を残して小倉が画面から消えてからも、裕子はしばらくぼんやりとモニターを見つめていた。
 ――西野さんは僕らの希望そのものなんですよ。
 小倉の言葉が頭のなかで響いていた。
 自分は本当に、そんなふうに言ってもらえるほどのものなのだろうか。
細々ながらも途切れずに希望者がやってくるのを見ると、ハグにはもちろんいくらかの効果はあるのだろう。だが、人々をそっと抱きしめるときにだけ体の内側に湧いてくる不思議な力を、裕子は未だに信じきれないでいた。
本部からは、受講者のセッション後の感想が転送されてくる。
 「セッションを受けて、心が軽くなりました」「生きるのがとても楽になりました。今まで人を恨んだり、憎んだりしていたのが嘘のようです」「人にやさしく接することができるようになりました。私が変わったら、夫や子供たちが変わりました」などという文面のメールや手紙を読むと、他人事のような驚きを覚え、同時にセッションに対する過剰な期待がそのような思い込みを起こさせたのではないかという恐れも感じる。
 だが今はとにかく、セッションを続けていくしかない。助けを求めてくる人たちが確かにいて、信じて支えてくれるホルダーとの強いきずながある限り。救われているのはむしろ、恋人も夫も子供もなく、個人的に抱きしめる相手が誰もいない自分のほうなのかもしれない。(つづく)


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