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朝、目覚める ジーーーーーーーっという蝉のノイズが窓の外から聞こえる 室内はエアコンのドライで27℃設定 自動車が右から左へ走り去るノイズ ジーーーーーーンーーーーームーーーーー蝉ノイズに変化がで始めた 揺らぎ歪み擦れ消えた 遮光カーテンの隙間から見える外の世界は連日の猛暑で歪んでいる アスファルトから匂い立つ湯気の香りに照り返す殺人太陽光線 止めどなく吹き出る汗と涙 シャツの色を塗り変えた水分を殺人光線が蒸発させる ムワっとした自分の汗の蒸気に包まれて一瞬クラっと足元がふら
まあ、なんだ 結局のところ本当の理解者なんているわけなくて みな自分の都合を押し付けてくるだけ 酷いのになると取り返しようのない過去を持ち出し 断罪を迫る なにが正しくてなにが間違いかなんて自分で決めるしかない 誰かに何かを言われて決める事じゃない それは同時に自分が相手にすることでもないんだと気づいて随分たつけど 相変わらず世の中には自分のやり方を人に押し付ける人が散見する それもSNSや画面の向こう側だけじゃなく 今いる自分の隣で友達面、家族面する連中も同じように否定して
ステージ 1 (話が長くなってしまったので数話にわけています。) 「んざけんじゃねぇぞ!コノヤロー!」 1987年 夏 その年は近年稀にみる猛暑が日本列島を襲い各地で熱中症が猛威を奮っていた。水不足による影響でプールが閉鎖されるほどではなかったがとにかく暑かったのは今でも記憶に残っている。当時11歳だった私はまだまだワンパクで幼さの残る小学生。朝からけたたましいアブラゼミの合唱にうんざりしながら、たまった夏休みの宿題を消化するのに身も心も疲弊していた。何故こんなにも苦痛を
私の住んでいた団地から徒歩3分の場所に「タカハシ」という名のおもちゃ屋があった。いつも元気ハツラツなおばちゃんが、ワンオペで回せるくらいの小さなお店で、ファミコンカセットやゲームウォッチ、LSIゲームからガンダム、ミリタリー物、お城や妖怪などのプラモデル、人生ゲームやちくたくバンバンなどのボードゲーム、リカちゃんやシルバニアファミリー等、それなりの品揃えの店だった。しかし、毎日のように子供たちが押し寄せワイワイと賑わせていたのは店の3分の1を占める駄菓子と屋内と屋外に設置され
小学生の頃、ファミコンは大ブームで各家庭にほぼある状態だった。 それは、男女関係なく持っているほどだったので、本当に凄かった。 家庭環境により各家庭さまざまなルールのもとファミコンをやることを許されていたが、私の家は厳しく「雨の日以外はダメ!」という正に神頼みのようなルールに縛られていた。 私が、毎日逆さてるてる坊主を作っていたのは、友人の間でも有名な話だ。 ただ、そのルールはあくまでも自宅内のローカルルールであり、他人の家に影響はない。 そのため私は、外に遊びに行くと家を出
「ドゥッ、トゥ、ドゥッ、トゥ、ピッキューン」 1979年 1月 あの時の事は今でも鮮明に思い出せる。 生まれてはじめて感じた興奮、いや、あれは快感だったかもしれない。 当時、3歳だった私は家族親族と共にとある温泉旅館に来ていた。 とても古臭い匂い、ギシギシときしみ音を立てる廊下、窓から見える庭園の木々にはうっすらと雪が積っていた。 両親と祖父母らが新年の挨拶で集まるその集会はそれから数年後には開催されなくなる。 祖父の事業が暗礁に乗り上げ地元に撤退を余儀なくされたからだ。