死を求めることは生きる事にも繋がる

別段死をすすめるわけでもなく、ただ死を求めることは生きることにもつながると思うってだけで書いてみてます。


なんだかんだ生きる事に貪欲ではなく、なかなか元気になれないので、色々とメンタルや体調みながら無職をしていますが、結果的に自分が居心地のよい生き方ができないと生きてけないなあとおもうし、正直な話今生きる事に飽きているという状態でもあるので、これは非常に贅沢な悩みとはいえるんでしょうが、少なくとも自分の感じてきた苦痛とか苦しみはその人だけにしかわからないし、追い詰められて色々迷惑もかけたこともありましたが、結局の所、お互いよく知りもしないで踏み込むとろくなことにならんというのがあるなあと思うのです。

全部話してないのに途中から遮ったり、会ってもいないで、ネット上で語るだけでその人の全てをわかったかのように語りやすい世界になりつつあるじゃないですが、少なくとも長年の付き合いだとしても把握しきれないとこや、そういうのもあるなかで全てがわかったというのも違うはなしで。

僕も色々話をしていいように使われた時期もあったし、追い詰められて迷惑かけたり困らせた事もありましたが、正直な話、自分の言い分を聞いても自分の方が正しいと思ったり、最初から利用しようとしてくる奴には何も対等に話せたりなんかしないので、自分がどう生きるかというのを考えれたほうがいいのかなあとおもいます。

僕は色々と自分の不具合をもっているので、発達障害やら気分障害やら糖尿病やら抱えてしまってるんで、自分を殺してまで誰かに気をつかっても結局自分をすり減らして何もならないし、死んだ所で誰も責任とってくれないので、なら自分の身の丈にあった生活と、それなりに痛まない人間関係とある程度の感謝しあえる関係があればいいんじゃなかろうかなあと思います。

人間どうせ死ぬなら最後くらいは笑って死にたいので、心豊かに終幕への生活を考えながら生きてもいいかなあとおもうのですよ。

僕は子供もいらないし、家庭もいらないので、友人はいてくれるのはありがたいし、家族もまだ健康でいるのはありがたい。

いまんとこ体壊してるの僕くらいだし。

如何に実り多く生きるかというのは結局濃さで決まるなあーとおもうので、僕はそろそろ終活に向けての生き方を模索しようかなあとおもうので、30代で糖尿病になってようやく自分のしたいことを少しずつ見つけられたかなあって感じです。

出来るならさっさと終わりたいとこだが、自分で人生を終わらすのはコストかかるし、面倒だなあとおもうので、終わらすよりどんな終わり方を考えるかのほうがいいかなあとおもうので、とりあえず日記風にたまにはかいてみようかなあ

発達障害当事者の詩人が色々と経験しながら生きていくかんじです。興味あれば支援してくださるとありがたいです