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劇団東演「マクベス」を観て感じたことから、「女性は会議を長くする」の議論へ行きついてしまった。

2021年2月、福岡市民劇場の2月公演は劇団東演の「マクベス」。翻案・演出・美術・衣装はロシアのワレリー・ベリャコーヴィッチ氏である。

彼は2016年12月に帰らぬ人となってしまっていた。私自身この演劇を観るまでは知らなかったので、早く知っていたら私の人生も何か変わっていただろうかと考えてしまう。そのくらいとても素晴らしい公演だった。

始まった瞬間から引き込まれる世界観

ネタバレにならないように書けるだろうか。。音楽と役者の動き、そして色々な場面で大切な役割がある「扉」というシンプルな装置だけで、物語は軽快に展開していく。そのテンポが心地良くすんなりと世界観へ引き込んでいく。

マクベスが権力という欲に飲み込まれていく。善悪の心を持ち、忠義や自制心もある中で妻がその自制心に手をかけ、じりじりと引き裂いていく。妻は夫の欲を理解し促しただけなのか、自分が幸せになるためだったのか。

人間の心が壊れていく様

本当の悪人、つまりサイコパスのような善悪の感情に乏しい人間であれば苦悩はしないのかもしれない。だがマクベスもその妻も恐怖や罪悪感に苛まれ狂っていく様を見ると本当の悪ではないのかもと思ってしまう。

逆に言うと、権力を手に入れるという欲を持てば、誰にでも起きることなのではないか。「人を殺めてまで手に入れる権力は間違っている」と今の時代ならば当たり前に言えるが、戦いによって国や人を制してきた時代はそれが当然だったのだし。そうであれば、その時代の苦悩は何を表しているのだろう。

戦いのない時代の権力

マクベスが統治した国は、民衆が貧しくて苦しんでおり、戦いに疲れていた。それを見兼ねた家臣のひとりが、逃亡した前国王の息子に戻ってくるように説得する。

世襲制ではない現代では、国のトップが変わる、もしくはひとりひとりが主張をすることが重要だ。前国王の血のつながった息子がマクベスを打ち負かすことだけが世界を変えることではない。

そういう意味では、現代の社会システムはそれなりに進化をしていて、「戦う」という行為なくとも変化が可能なのだろう。でも「戦う」は剣や銃で傷つけることではなくて、「討論」つまり言葉による戦いに変わっているだけかもしれない。

言わないことが引き起こすこと

前国王の息子が、迎えに来た家臣にこう言った。「でもあなたたちはマクベスを国王として受け入れたのだろう、それなのになぜ私のところへ来た」と。

そうなのだ。どうして人は上の者に自ら間違いを正すこと、人と違うことを主張することをためらうのか。マクベスになぜそれを言えない。。

一緒に観ていた友人が「私は森さんが言うような会議を長くする女」とずっと思われてきただろうと休憩中に言っていた。彼女は、公的な会議に出席する際、謝礼をいただくのに、何も発言しないなんて公金を無駄にしていると思うから、勉強してきて発言するのは当たり前だと言っていた。

次のリーダーは多様な意見をまとめられる人がいい

自分も含め反省しかないが、空気を読まず自分の主張をし、それを受け入れる環境づくりは、体の傷ではないが「心の傷を生むかもしれない戦い」に果敢に挑戦してくれている人々の上に成立しているなと思う。

戦いがないと思っているこの世界でも、戦いは起きている。起きているが無視され続けている。無視し続けられるならばいいが、多様な時代になってきて、ある日突然同じ意見しかないことのほうが気持ち悪い時代になるかもしれない。いや近いうちにそうなる。

おそらく次の時代は、多様な意見をまとめ、よりよい方向を見つけ指示してくれる人がリーダーになるのではないだろうか。いやなってほしい。

戦いや討論を超えて、根底に多様な人生を許容しうるシステムを考えようとする人こそが求められていると思うし、そういうリーダーを応援したい。それまで私も心の傷を生むかもしれない戦いに挑戦していこうと思う。




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