6章 フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン
「その竹の中に、本光る竹ひとすぢありけり。怪しがりて寄りて見るに、筒の中ひかりたり。それを見れば、三寸ばかりなる人いと美しうて居たり」−−『竹取物語』國民文庫
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秋が来た。秋が来て何が変わったかというと、酔っ払って歩く帰り道で汗をかかなくなったことくらいだ。
日々は似たような日常に塗りつぶされ、そこに何か違う絵の具を垂らしてみたところで、それはほんのひとときだけその色を魅せつけて、そしてすぐさま日常の退屈ないろに飲み込まれてしまう。
10月最初の1週目はバーで猫の顔をした変な女と知り合って、近くのラブホテル「水族館」で寝た。彼女とは酒を飲んでいる間は気があいそうな気がしたが、シラフだったらどうなのかは、かなり暗雲立ち込めそうな感じだ。目が覚めたら、彼女の姿は消えていたが、その週末にLINEで連絡が来て、EDMのかかるクラブでイチャイチャして、何の意味もない、他愛のない言葉を交わし合って、それからタクシーのなかで互いの身体をまさぐりながら、彼女の都心のマンションにいった。
そのとき初めて彼女の顔を明るいところで少しだけみたけど、最初は24〜25だと思ったが、たぶんぼくより一つ年下くらいだった。でもそれはマズイことでもなんでもなく、彼女は薄い白い肌を保ち、すっと通った鼻筋に切れ長の目が特徴的な、雪国を想像させる美女だということに何の代わりもなかった。
その冷たい、静かなムードの顔立ちと裏腹に、彼女は聞く人の胃を持ち上げて揺り動かすようなビッグな冗談を言うし、愛しあうときはそのことに完璧に集中しているふうだった。ぼくはそこが好きだった。
でも、うすうす気がついていたことだが、彼女の中にはどうしようもない悲しさが住んでいた。彼女の美しさの一つの裏返しだった。とても不幸なことだけど、彼女の悲しさにはわかりやすい大元がなかった。それは冬の寒さのように忍び寄って、彼女の心を冷たくしていた。
彼女はベッドの中で、突然泣き出した。真夜中の底が白くなった、のだろうか。「わたし、本当に寂しくなる時があるの。自分には何もないんだって、生きている価値もないんだって、思ってしまうの。東京にはこんなにたくさんの人がいるのに、知らない人ばかり。誰も私のことを本当に知ってくれなんかしないの。私はこの街がつくるうねりにただ動かされて、翻弄させられているだけなのよ」
彼女の涙はあたたくシーツを濡らしていた。
ぼくは言葉を探したが、その夜はあまりにも深く、何もそれらしきことを見つけられなかった。
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30歳になって、ぼくは孤独のプロフェッショナルになっていた。
ぼくはインスタントラーメンに創意工夫を凝らす天才になっていた。それはもう、インスタントラーメンと疑うほどのうまさだ。スポーツジムのランニングマシンで走り始めると、瞑想状態のまま1時間半くらい走っていて、はっとなるなんてことが続発した。
さらにジムの後に通うサウナには、ゲイからおやくざさん、ホスト、金融屋さんと変な友達がいっぱいいて、たまに酒を飲んで彼らのハードボイルドな世界観にしばしひたった。ぼくの部屋には、スティーブ・エリクソンの小説に現れる得体のしれない構造物のような無数の本棚があり、それでも本が収まりきらず、その本一つ一つに愛着があるせいで、捨てるに捨てられず、川崎の小型貸倉庫スペースを借りてそこに貯めていった。
ただ、あの夜はぼくのマインドをかなり変えたのだ。ぼくは自分のことを夜の海を行き先もわからず、進んでいく船のように思っていた。ぼくには人生の何かをわかちあう相手が必要だと思った。
でも、それは条件付きだ。ぼくは同世代のアラサーの女の子が苦手になっていた。彼女たちは「完全」にメディアだか「常識」だかに踊らされていた。そして資本主義者が縄を張る各種の結婚やその後に関するビジネスに絡め取られたくてしょうがない、という感じだ。彼女たちと合うと、すべてが結婚のための条件合わせになってしまうのだ。
彼女たちは明確なビジョンを持っており、気にする相手の属性は主に、収入や性格的問題の有無、住宅の購入、子どもを持った際の教育方針などだ。
そしてぼくは彼女たちの価値体系の多くの部分に同意していなかった。結婚だって、制度を改良できるんじゃないかと思うのだが、固定観念と戦争するのは本当にくたびれる。なので「戦場」から密やかなに撤退することにしたのだ。もちろん、これは戦略的撤退である。
ぼくの家は火事でなくなっていた。火災保険は、カモが入るものだと確信していたぼくは、多くの資産を失った。
でも、失って何かがすっきりした。ぼくはまた変わっていくんだ。若いころは毎日ぼくらは変化を求められていたし、それが再び自分のもとに戻ってきたんだと思うと、空も飛べるような気分だった。ぼくは家なしを1カ月続けた後、ニンジャとゆるやかなつながりを持つ、シェアハウスに入居することにした。
それはかなり素晴らしい選択だった。そこには、ぼくのように「降りた人間」がたくさんいた。そこにはいろんな人種の人がいて、いろんな思想と価値観がごちゃまぜになっていた。そこは同調圧力から解放されていたのだ。
その宿にはVという名物男がいた。シェアハウスでは彼を中心に年に98回はフェスタを開かれるが、その67回目がその週末にやってきた。
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「おれの仕事はシジフォス神話みたいなもんだよ」とVは話した。「シジフォス神話知っているか?」
「知らない」
「山の頂点に岩石を運ぶことを義務付けられた男の話さ。徒労を繰り返すことを神々から義務付けられるんだ。いや~になっちゃうよな」
ぼくたちは乾杯をした。その日はコロナビールのみの飲料を求められた。
Vは32歳くらいの若作りしたおっさんだ。10年前の型落ちしたスーツを身につけ、酒の権化であり、金曜日と土曜日の王様だった。ビジネスマンということになっているけど、どんなビジネスをしているかはまったくわからなかった。
われわれは108本のコロナビールを始末し、さらにそこからもう100本の山を登ろうとしていた。渋谷のバー「ティアーズ・イン・レイン」の狭い室内は、スライ&ザ・ファミリー・ストーンのような狂騒に包まれ、男女12人のわれわれは異様にハッピーだった。
そしてVは新入りのぼくに手荒い歓迎を用意していた。ぼくが大学生時代に書いた小説があらわれた。
「アサクラと連絡が取れたんだ」。彼は前歯をむき出しにして笑った。
確かにそれはどうしようもない産物だったが、Vはサマリーとレビューをつけてちょっとした資料にして皆に配布した。わたされるやいなや、皆、床に転げ落ち、腹を抱えて笑い始めた。まるで集団食中毒にでもかかったようだった。
さて、せっかくだから、わがマスターピースを皆様にも観てもらおう。
タイトル「兄弟 アラブ王&アラスカ王」
▽(あらすじ)アラブの王様とアステカ王国の王様が、マカオのカジノですってんてんになって、ホームレスになるが、二人は義兄弟の契りを交わして、アラブの王様がゴルフ場の球拾いのバイトで家計を支えて、アステカ王が通信教育で落語を学び、やがて、落語界のスターダムにのし上がる。
▽(Vのレビュー)痛快コメディー。まあまあ笑った。誰がこんな物語を読みたいのか理解に苦しむが、作者はかなり本気で書いているので、じわじわウケる。義兄弟の契りをかわすのに使われる酒が、なんで「しそ焼酎」なのか? ただし、二人の王様が家事の分担をめぐって、20ページに渡り口論するシーンは悪夢だ。それからアラブの王様の口癖がどうして「本当にいけずなんだから」なのだろう?
タイトル「おれとダイオウイカとミルコ・クロコップ」
▽(あらすじ)あらゆるテクノロジーが発達した結果、だれでも世界帝王になれる時代を迎えた。帝王の座を得ようと手をあげたのは、主人公の中年サラリーマン青山三郎とダイオウイカの健、キックボクシングの最強王者ミルコ・クロコップの3者だけだった。世界は3つにわかれ、戦争を繰り返す。最後に生き残ったのは、自分の仲間を異常繁殖させて海を制したダイオウイカだった。
▽(Vのレビュー)この3者を登場人物の中心に据えるセンスを祝福したい。ぼくはミルコが勝つと思ったが、ミルコにあんな弱点があるとは! 作者の筆力に驚かされた。だが、ダイオウイカが腰痛持ちになったり、青山三郎が離婚調停をめぐって精神を葛藤させたりと、ムダとも思えるエピソード満載で、作者が何を目指しているのかはわからない。
タイトル「ムサシの地下鉄」
▽(あらすじ)大江戸線の下に、自主的に秘密地下鉄を掘っている元プロボクサーの中原ムサシが、合コンで出会った元ボリショイサーカス団員で、現スーパーマーケットのレジ打、相羽亜由美と恋に落ちる。あらゆるアプローチもやんわり断られるなかで、ムサシは「地下鉄が開通すれば彼女が結婚してくれる」と独りよがりな妄想にとらわれる。亜由美が交際していたスーパーマーケットの食肉担当の坂上と結婚式を上げたその日、ムサシの地下鉄が開通した!が、ムサシは過労の余り落命する。
▽(Vのレビュー) 砂漠のラクダの上で見た悪夢のようだ。すべてをもてあそぶような奔放なプロットに、荒い設定。それから、亜由美の人格は5つくらいに分裂している感じで、まったく一貫性を感じない。終盤は悪意すら感じる筆の滑り具合で、頭痛は読了語、2日間尾をひいた。
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はじけ飛ぶような笑い声。
ぼくだって笑い飛ばそうと思えばそうできただろう。過去はどうせ過去だ。人間が接触できるのは現在と未来だけだ。どんな過去があろうとそれはぼくとは関係がないのだ。
でも、さすがのぼくだってナイーブにはなる。小説たちは悪夢だった。その駄作の数々のなかで誇れる部分は皆無だった。あまりにも暗い青春の影が自分の腹の底に垂れ込めてきた。
あれは本当に時間つぶしだった。あるときなんて、「人生とは死ぬまで続く時間つぶし」だと割りきってすらいたのだ。ぼくはとてつもなく若く、何も知らなかった。
もしやり直せるなら、もっと違う学生時代を歩んだだろう。ぼくに足りなかったのは、目的だった。自分の周りにあるあらゆる便利なものに騙されていた。コケにされていたといっていい。
ぼくはコロナを片手に渋谷の街頭に出た。酔っ払って見える街は、アメリカの夜だ。円山町のラブホテルに流れ込んでいく、カップルたち。酔っ払った、なにか拭い去れない諦めにとらわれたサラリーマンの一群。自分の周りだけの小さな小さな世界を占領しているつもりの、とっぽいファッションのガキども。行き先を失って100万年たった亡霊のような広告たち。
109の前の交差点では人々がひしめき何か無駄なことを話していた。それは何もかもが嘘で塗り固められ、何もかも目覚める数分前に見るイヤに凝縮された夢だった。目を覚ましたら、風景はすべて崩壊し、消えているだろう。
ぼくは自分がそこにうまくなじめていないのは分かっていた。レディオヘッドのクリープを歌った。
But I'm a creep, I'm a weirdo. What the hell am I doing here? I don't belong here.(ぼくはイヤなやつ、変なやつさ。ぼくいったいここで何をしているんだ? ここに馴染んでなんかいないのに)
頬から涙が伝っていた。心臓は激しい律動を刻んでいる。呼吸はせからしくゆれ、体温は上昇し、肩がせり上がった。
おれはハチ公交差点に差し掛かる頃には号泣していた。シェアハウスの奴らはゲラゲラ笑っていた。彼らの同情の示し方は、僕と一緒にクリープを唄ってくれることだった。
Vはそのときにはカーネル・サンダースを引き連れていた。「ちょっと、やめてください」と威嚇したケンタッキーの店員を「うるせえ、これは共有物だ。このカーネル・サンダース様はだな、世界に対してシェアされてんだ、このやろう!」とVは凄んだ。それからカーネル・サンダースに話しかける。「村上春樹さんの『海辺のカフカ』だとキミが、洒脱なしゃべり方をやり出して、きっれーいな大学生の姉ちゃんを紹介してくれるはずなんだけどなー、このクソみたいな現実の中じゃそーはならないんだなー。おれを小説の登場人物にしてくんろ!」
カーネル・サンダースの集客力は素晴らしく、出歯亀がぼくらの周りを取り囲んだ。ぼくらは相変わらずクリープを歌っていて、それは瞬く間に伝染した。「She's running out again(彼女はまた行ってしまう)run run run run.....(行くんだ、行く、行く……)」の部分ではものすごい悲壮感あふれる合唱が成立して、109と東急百貨店とマークシティがぶっ倒れると思うほどだった。
グループはやり手の集まりだ。悪辣な株屋の蜂須賀くんとぼったくりネット広告代理店のナミが果物屋で、しこたまスイカを買って、切り分けて人に配り始めた。柔術のコーチのミッキーはトラックからコロナビールの詰まった段ボールをおろし始める。どこからともなくカーネルサンダースを抱えたおっさんが集まってくる。
そこでVが拡声器でが鳴り始めた。「われわれは私的所有権に疑問を持つものだ。所有権は必要な分だけみとめればいいんだ。このカーネルサンダースとスイカ、コロナビールに関しては、私的所有権は必要ないとみなす。すきなだけもっていくがいいさ!」。
うおおおお、と群衆が叫んだ。
メインディッシュはハチ公にアンダーソンの『想像の共同体』を読ませることだった。ハチ公は銅像だ。だけど、長年の沈黙をやぶり、動き出した。そして、とてつもない陽気さでこうのたまった。
「そして結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀にわたり、数千、数百の人々がかくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろ自ら進んで死んでいったのである。これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的問題に正面から向かい合わせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力が、途方も無い犠牲を生み出すのか」
とんでもない乱痴気騒ぎだった。ハチ公前交差点はどこからともなく集まった人々で溢れかえった。人伝いにコロナビールがどんどん配られてきた(ライムも添えてある)。酔っ払った女の奇声が7つも聞こえてくる。ぼくはそれを飲んで飲んで、だれとも構わず熱弁を振るった。アルコールの海に沈んでいく心地よさのなかで、ぼくには怖いものが何一つなかった。
そのとき誰かがぼくの手を掴んだ。カーネルサンダース公爵だった。彼はビッグスマイルを浮かべている。彼の手のひらは岩石のように固く、スーツの襟につけたピンにある模様がしつらえてある。犬が蓄音機を覗き込んでいる模様だった。
「さあ、キミは逃れがたきものにぶつかったぞ。キミは急がなくてはいけない」
彼の言葉は確信に満ちていた。
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雪が待っていた。
粉雪だ。
江ノ電の外には季節外れの雪が待っている。電車の中にはぼく以外いない。風景はこの世のものとは思えない。不思議な光が染み渡っていた。
カーネルサンダースが渡した手紙はぼくに江ノ島までくるよう命じていた。難解な暗号でそれを命じていた。でも、それに従う義務はないのだ。でも、行きたいと思った。何かが起きようとしている。それをほったらかしておく自由はぼくの人生には許されていない。
「さあ、キミは逃れがたきものにぶつかったぞ。キミは急がなくてはいけない」。彼の言葉が鼓膜で響いた。
江ノ島まで伸びる歩道はなかなかの暗さだった。ぼくは海から遠い陸の街に住んでいたから、海は少し珍しかった。波が引いては寄せてを繰り返したり、揺れる海面が光を粉々に砕いていたり、遠くの方からざあああと音を立てるのを心地よく思った。
海はあらゆるセカイにつながっている。無限の可能性に届くかもしれない。
島はもうほとんど暗かった。展望台も閉まっていて、人通りもない。民家からこぼれる灯りとじいじい音を鳴らす水銀灯くらいだ。ぼくは歩いた。雪はやはり降っている。季節外れの雪だ。登り降りを繰り返して辿り着いた岩場は黒いインクをこぼしたような暗さで、何も見えないといっていい。岩によってくだけた波の欠片がぼくの顔や服を濡らした。
ぼくはそこで黒い海を眺めた。月も星もなかった。向こうの方から風が吹いているのがわかる。向こうには何があるんだろう。わからないが何かがあるんだと感じられる。ぼくは呼吸に意識を向けて、吸って吐いてのリズムをやわらかくし、それからだんだん意識もまた静けさの中に閉じ込めていった。
ぼくはそこで彼女と出会ったのだ。
彼女はぼろぼろの白いワンピースしか身につけていなかった。彼女を見つけると空を覆っていた暗雲がすっとわれ、満月がその黄金の光を海を上にはわせて彼女の背を照らし、無数の星々が唄った。
彼女は美しかった。見開かれた大きな二重の目は宝石のようだが、私の目を射抜くような力が込められていた。真っ白な頬は月光の神秘的な青みをたたえていた。
彼女の名前はサーシャ。ぼくたちは10年前、あの南の島で会ったのだ。
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あの夜の雪が冬のきざしだったのだろうか。めっきり寒くなって、冬が世界を支配した。ぼくの酒浸りの生活は終わりをつげた。彼女がアパートでいつも帰りを待っていたからだ。
ぼくは彼女がつくった夕食を食べて、それから彼女が借りてきたDVDを見た。でもDVDを最後まで観ることは万に一つもなかった。結局われわれは互いを愛しあい始めるわけだし、そのことにスクリーンが介入することは不可能だからだ。10年の時を隔てた熱情はより熱いレベルへとエスカレートした。それはこの馬鹿げた人間という愚かしき生き物が作り上げた世の中に存在する馬鹿げた出来事から、冥王星くらい離れた事象に思えた。
ぼくはある夜、彼女との行為が終わった後にあることを思い出した。都電荒川線の車窓の風景だった。大学の東に麻雀荘の集積地があって、そこでよく講義をさぼっていた。大学の講義は苦痛以外のなんでもなかった。
麻雀荘からもう少し東に行くと都電荒川線の駅があったから、1人で考え事をしたい時とかは乗ったんだ。電車に乗っているのが好きだ。人は常に時間の上の移動している、ということを思い出せるからだ。われわれの生とは一所に留まらないことを意味している。すべてが流転しているんだ。
ぼくは都電から見える風景が大好きだった。住居の間を通り抜けていく所なんか最高だ。寺山修司監督の映画「書を捨てよ、街に出よ」の冒頭、男が線路脇の家から、線路に出て走りまくるシーンのことを思い出す。カメラがむちゃくちゃに振り回されるのだ。
ぼくがビジョンから抜け出すと、彼女が一糸まとわぬまま窓の外の月を眺めているところだった。まるでそこだけ時間が止まっているかのようだ。彼女の表情は真剣さに満たされていて、言い知れぬ深い想いが込められているのが明白だ。
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月が再び満月の夜になると、彼女はぼくを再び江ノ島に連れて行った。時間は遅く人っ子一人いなかった。
岩場にはタイラーとVがいた。彼らは小さな微笑みをたたえていた。彼らは船を用意していた。それは70年代のSFに出てきそうなシロモノだが、一つ特徴的なのは、そこに犬と蓄音機が描かれていたことだ。
「この絵にはアキアキとしたね、タイラー」
「それなしでは、ものごとは成立しないんだ。象徴というものは必要とされているんだから」
「その象徴と、あなた方がいまからやらんとすることは何かな」
ぼくはその悪たれコンビに説明を求めたが、「状況は説明を必要としない。キミはそれに従うだけだからだ」という回答がタイラーから寄せられた。Vはコロナビールを飲んで、ヘラヘラしているだけだ。
私と彼女はそれに乗った。
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