4章 奇妙な相棒
「レエモンがピストルを私に渡すと、陽のひかりがきらりとすべった。それでも、われわれは。一切がわれわれの周りに閉じこめられていたかのように、なおじっと動かずにいた。われわれは目も伏せずに互いにながめ合った。ここでは、すべてが、海と砂と太陽、笛と水音との二つの静寂との間に、停止していた」。『異邦人』(アルベール・カミュ)16
ちゃぶ台の上には航空チケットが置かれている。
重たい頭をゆさぶってみる。前夜の記憶が蘇ってきた。
「実はよう、こうやって思い立ったのにもわけがあるんだ。おれは自分が考えていたことを、完全に理解してくれる素晴らしい人達に出会ったんだ」とアサクラは、薄荷煙草を吸いながら語った。
「なんだよう、そいつは?」
ぼくは彼の薄荷煙草を失敬して、火をつけた。
「彼らは秘密結社のようなものだ。だけど、秘密結社が漂わせるヤバイイメージとは別物さ。アメリカだって、秘密結社の人々の思想が打ち立てた国だし、例えば、いま世界中に広がっているハイテク企業なんかにも、秘密結社的な思想の共有を認めることができる。ただぼくが見つけた、あるいはぼくを見つけてくれたのはだなー、違うんだよ」
「何がさ?」
「いいんだよ、とにかく、とても構築的で、とてもポジティブなんだ。なにか、やわいものを見つけると権力に媚を売って、群がってぶっ壊す連中とはわけが違うんだ」
「なんだよ?」
「お前も気に入ると思うよ。だから、実は用立てておいたんだ」
彼はチケットをちゃぶ台の上においた。「明後日、この飛行機にのっていけよ。君は何も選ばなくていいんだ。複雑な世界が君が進むべき道を規定してくれるよ」
「複雑な世界が君が進むべき道を規定してくれる、だと。洒落たセリフだな、ワトソンくん」
「そうだろう、シャーロック・ホームズよ。謎は解けたかね?」
「いやあ、なにしろ、世界は複雑だからね。動機とか、第一発見者の証言とか、自白とか、密室殺人のトリックなんてのは、限定的条件のなかで効力を発するもんだよ。でも全然サイエンティフィックじゃあないな」
「小難しい野郎だ、牛込柳町のシャーロックは! 可愛くねえぜ」
「私立探偵は人に好かれない職業なのだよ、ワトソンくん」
「まあ、とにかく、これはどうだろう?」
彼はあるものをちゃぶ台の上においた。
「それはいいね、ワトソンくん、謎は全て解けたよ」
ぼくらはそれに耽溺した。
17
「どうして、成田空港はこんなに遠いんだ! 何のためにもめてもめてもめた末にここにつくったんだ!」。成田空港駅から駆け足。ぼくはやはり無意識のうちに独り言を言っていた。周りの人がぎょっとしてぼくを見ていたが、そんなこと気にしていられない。航空便のチェックイン時間が喉元に差し迫っていた。
ぼくのファイナンシャル・クライシスは謎の「公的資金」の注入によって回避された。携帯電話に留守番メッセージが差し込まれていて、コンピュータボイスがこういう。「◯◯銀行の支店番号◯◯◯、口座番号◯◯◯◯◯◯◯◯に軍資金を入金しました。このお金はあなたが期待されている活動の費用に当たるものです。領収書などの提出は不必要です。どうぞお好きなようにお使いください」。
通帳された記帳は、ゆるゆると残高が下降線を辿ったところから、桁が6つくらい飛んで奇跡的なV字回復を見せていた。どんな天才経営者も天才会計テクノロジストも、こんなことはできやしないだろうと、政治経済学部に席をおいていたぼくは思った。
振込先は「新宿極楽解放観光」と書かれてある。そこについては、心理的なバイアスが働き、妙な詮索しないことにした。自分に都合のいいように出来事を解釈してやろうという野心的な試みである。
ぼくはそのまま、大学の周りに住んでいる、食い詰めた知り合いを集めて、牛込柳町のホルモン屋に大集合。食って食って食って、飲んで飲んで飲みまくって、東新宿に流れて起きて、もう一度お祭り騒ぎ。朝目覚めたら、知らない女と新大久保のラブホテルにいた。
ぼくはその女を起こさないようにして、身繕いを整え、チケットだけを握りしめて成田空港に向かった。酒は依然として体の中を満たしていて、マッシブ・アタックのアルバム『ティアドロップ』を聞いているような、エレガントな気分になっていながらも、なんだろう、耳が大きい女と付き合いたいという謎の欲望にとらわれて、京成線の車窓が映しだすあまりに平凡な住宅の森を眺めながら、、その架空の女の強い目つきと柔らかさを兼ね備えた顔とか、すっとしてるけどなかなか胸が大きいスタイルとか、バドミントン観戦のために中国を訪れる趣味とか、凛とした性格とかを想像していた。
キャセイ・パシフィックの航空機に乗るときには、ぼくは空港のバーで飲んだビール5杯に成敗されそうになっていた。しかし、隣に座っている男がカモを釣ろうとするウォール街の金融マンみたいな笑顔で、話しかけてくるのだ。男の風貌はワイルドと都会を優雅に組み合わせた感じで、さぞかし女にモテるだろうと推測された。男はイブサンローランの白いスーツを最高の着崩し方で着ている。
「おれの名前はタイラーだ。よろしく」
彼は右手を差し出し、ぼくと握手した。ニヒルでクレイジーな笑顔。むっとする男の色気。タイラーはフラスクボトルに入れた酒をあおって、おおう、と声を出した。
「こいつは、阿佐田だ」
彼の背後にはビデオカメラを持った、ふち無しメガネのオタク風の男がいる。そいつは東欧系の顔立ちで、目つきがヤバいヤツ特有のぎりっとした感じ、顎はすっと細かった。浅田という名前はあまりにも似つかわしくなかった。
さてと、タイラーは胸の前でぽんと手をたたいた。
「お前はずっと自分が他人と違うことを恐れていた。人と違うことを喜んでいるふりをしているけど、そうあることで多くのことを失うことをしっているのさ。そうだろう。それが怖いんだ。『ここ』では、人と違う奴はものすごいいじわるをされるからな。だからお前はなんというか、おちゃらけたヤツを演じていた。お前が、本当の自分になるとき、周りは離れていくかもしれない。だからピエロを演じるんだ。でもそれは本当の自分とかけ離れている。お前はいつもいつも悩んでいた」
タイラーはふわっはっはっは、と笑った。
阿佐田もそれに合わせて、ふわっはっはと笑った。ぼくを撮影しているカメラが揺れまくって、ブレまくった。二人は顔を見合わせると、笑うのをピタッとやめた。
タイラーはブリーフケースから書類の束を取り出して、膝の上にドサッと置いた。それからイブサンローランのネックレスをとって、それを振り子運動させた。「きみは振り子みたいに生きてきた。何もかもが設定されたきっちりとした世界、すべてが不確実性の海に沈んだワイルドな世界、この二つを行き来してきた。きみは悩み続けているんだ。ずっと悩んでいるんだ。トレードオフだからだ。どちらかを選ばないといけない。どちらかを選ぶと、もう片方の選択肢は消え失せる。キミはそれを恐れている。迷える子羊みたいなヤツだ」
タイラーは続けた。
「でも君は我が組織に参加しているんだ、君が知らない間にもう話はついてしまった。でもこれは蜜月だよ。互いが互いを必要としあっているんだ。たったいまお前は完全に他人と違うヤツになってしまったのさ。キミは今やワイルドな不確実性の世界にやってきたのさ。この世の中に確実なものなど存在しない。存在しないものを信じているのが、何もかもが設定されたきっちりとした世界だけど、それは幻想だ。
ぼくはきみを心から歓迎する。
おめでとう!」
タイラーはクラッカーをパーンと鳴らした。化粧の濃くて、作り物くさい笑顔をふりまくキャビンアテンダントがケーキを持ってくる。タイラーとキャビンアテンダントと阿佐田は声を合わせてハッピーバースデーを唄った。ぼくはケーキの上の蝋燭の炎を吹き消さざるを得なかったのだ。
周りの客は不思議な事にそれに苛立つ様子すら見せない。むしろ、われわれが存在しないかのごときじゃないか。
「しかし、君はまた、新しい問題にぶつかっている。また新しい対立に巻き込まれてしまった。キミは二つの対立する勢力が引いた境界線の上に存在している。キミは大きな変化をもたらすことができる役割を持つことになったからだ」
「大きな変化をもたらすことができる役割を持つことになった?どういうことだ?」
ぼくの喉はどうしようもなくからからだった。
「それをキミに伝えることはあんまし良くないんだ。情報の非対称性を保つことが、ぼくの役割だ。キミはあんまし何もしらないまま、競馬のサラブレッドみたいに走ればいいんだ。キミが速く走る限り、キミは馬刺しにならないよ!」
ぎゃっはっはっは、馬刺しかよ! と阿佐田は馬鹿笑いした。キャビンアテンダントも口元に手を当てて微笑している。
「ぼくは二つの対立する勢力が引いた境界線の上に存在している?」
「そうそう、そういうことだ。キミは挟まれている。われわれは、『つくるものたち』と呼ばれているんだ。キミはこっちに参加しているのさ、すでに。キミが生き残るすべは一つだけだ。ぼくたちと闘うことだ。ぼくたちはキミのためにあらゆる便宜を図ることができる。だけど、結局はキミは自分の力で、状況を切り開いていくしかない」
タイラーはポケットから山崎の小瓶を取り出し、ぐいっとあおった。
「キミは困難な状況にあるが、それは乗り越えられないものじゃない」
ぼくは、タイラーに勧められるがままに山崎の小瓶をあおった。すると視界がうずまきをはじめ、やがて意識がシンクのなかに吸い込まれた。
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