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終章 記憶

38

土手沿いを風が吹いていた。風はあたたかみを帯びている。長い冬が去り、春が来ようとしていた。

川を隔てて二つの街がある。どちらにもビルやマンションが茂っている。その一つ一つに明かりが点っている。たくさんの人たちが東京に住んでいるのだ。それはわれわれの想像を大きく越えるほどだ。

まもなく日が赤くなりかかっている。ぼくは明日からの仕事のことを考えた。日常は繰り返されている。それは時に退屈で苦渋に満ちている。あらゆる状況の悪化も肌で感じている。でも、その難しさは大きな破滅を迎えるまでは、むずかしいままなのかもしれない。でも、その悲しい日常の積み重ねが、与えてくれる変化が、ぼくにはある。

子どもたちだ。

「ねえ、おとうさん、おなかへったよ」

娘の沙織がそういう。あどけない顔はぼくの小さかった頃と少しにている気がする。すっと顔はほそく、目は切れ長で、現実か疑うほど彼女は可愛かった。ぼくの肩に抱かれた3歳の彼女は、ぼくの頭をぼかすか叩いた。「カレーライス、たべたいー」。

「そうだな、きょうはたぶんカレーの日じゃないんだ。カレーはねえ、ブーブーに乗って、オオサカに行ったんだ。たぶん、きょうはもう帰らないよ」

「えーやだー、カレーたべたいー」

彼女はまたぼくの頭をぼかすか叩いた。

「それは難しい相談だな、沙織」

川沿いで石を投げていた長男の悠斗が土手の斜面を駆け上がってくる。彼の動きは幼さと若さのちょうど真ん中だ。悠斗は今年小学生になる。「ぼくは寿司が食べたい」

「うーむ寿司はちょっと調子が悪いらしい」

「調子が悪い?」

「どうも、腹の腰をいためたらしいんだ。スキーのやり過ぎでね」

ぼくは振り返った。

「そうだよな、お母さん?」

「そうね、確かスノボだったかな、転んじゃって、腰を傷めたのよ」

悠斗は地団駄を踏んだ。

「なんだよ、寿司はダメなんだ」

「そうね、悠斗、寿司は調子が悪いの」

彼女は微笑んだ。彼女はとても大きい二重の目を見開いた。そこにはほれぼれとするエネルギーが込められている。

「さあ、もう帰りましょう。夜が来て、怖いお化けが出てくる時間よ」

「そうだね、サーシャ、行こう」

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