1章 はじまりのはじまり
0 妙な商売はおしまい
2032年はクボタにとって大きな節目になった。小さな赤字をきざみ続けた松坂牛ビジネスに共同経営者との荒々しいいさかいの末に終止符を打ち、コンビニエンスストアのフランチャイズ店もタイガーバーム売りから一財を築いたチャイニーズに二束三文で売り渡した。シェールガスのせいで7割も減価したインドネシアの石炭会社の株式も、それを勧めた一流大卒を鼻にかける役立たずな証券マンにこれでもかと暴言を吐いた末に放り投げた。そして手にしたいくばくかのカネで、千葉の建て売り住宅の月賦払いを完済させた。その家には別れた妻が若い男と住んでいるのだから悲劇的だったが、「これで縁が切れた」と思うと彼の気持ちはすこぶる軽くなった。
彼をとりまくあらゆる問題がいちどきに整理された。クボタはまたシンプルになった。若く飢えていたころ、自分の中を流れていたさわやかな気流が戻ってきた気がした。
「もう妙な商売はおしまいだ…」
彼は狭い事務所の古ぼけたソファーにどっぷり座って、本業のビデオレンタル業一本で生計を立てる決心をした。彼は高校生のアルバイト時代から15年のレンタルビデオ業の経験がある。つまるところ、彼はレンタルビデオがなんであるかをとてもよくわかっているのだった。
すると、事務所に差す午後の斜陽が、未来から届いた光のように思われた。その明かりを受けながら、彼は両手の指で自分の年齢を数えてみた。32。大丈夫だ。おれの未来には、まだ可能性の荒野が広がっている、と彼は確信した。
そのときだった。10年勤めるシニア・アルバイトのエイミが来客を告げた。
「おい、クボタ。おれはとんでもない運命にぶつかったよ」
悪友モロボシはイケアで買ったソファにどっかと座ってそう言った。ピラミッドでも探しにいくのかと思わせる探検服を着て、子どもじみた虫かごと虫網を手に提げていた。クボタの脳裏にねずみ花火の導火線が吐きだす白い煙のにおいが蘇った。このにおいを思い出すときは脳みそが「要注意」のシグナルを発しているときであるとクボタは理解していた。
1 モロボシの説明
「まず、おれはソウという女について説明せねばならない。この女がストーリーの中心であり、これから話されるあらゆるできごとのきっかけなのだ」
モロボシは決闘に望むカーボーイのような真剣さをかもち出した。顔の肌はしけったせんべいのようにぼろぼろだが、目には強くて乱暴な意志が宿っていた。彼の探検服は乾燥ホタテのようにかりかりで、すえた匂いがした。彼の体には運動不足による倦怠感が満ちている。彼はエイミが出した極めて酸味の強いコーヒーを口に含み、顔を思い切りしかめた後、茶色い唾液を飛ばしながらしゃべった。
「要するにだな、クボタよ」と始めたにもかかわらず、彼の話には「要約」した形跡なんてものはひとつも見られなかった。むしろ、それは自分のショベルで、自らの足場を切り崩して崖底に落ちていくショベルカーのような支離滅裂な有様だった。クボタは最初混乱し、そのうち諦めた。モロボシは独演会をさんざかまして「まあそういうことだな」と独りよがりな結論に達した。 クボタは額や首筋にたまった心地の悪い汗を、ビデオ屋の制服である前掛けで拭いた。腕時計の針は2時間進んでいた。しかし、もしハリウッドの編集技師が手を入れればたぶん20分足らずのストーリーにまとめるだろう。要約してみると、こんな感じだった。
2 女、ソウ
ソウというぱっとしない女がいた。
歳は20代の後半くらい、顔は10度会わないと覚えられないくらい特徴がない。化粧をとればのっぺらぼうになりそうなほど、目鼻だちが平たかった。存在感もとっても希薄だった。
もちろん彼女はそれだけじゃない。些細な悩みを両手一杯に抱える現代女性でもあった。中堅旅行代理店での単調でストレスフルな仕事に嫌気が差していた。会社にいる女全員に欲情しているそぶりのあるエロ上司の死を願わない日はなく、しかも同年代の友人は次々と結婚して次を争うようにあがっていく。自分のしていることに自信や満足感がうまく持てない―。「私こんなことをしていていいのかしら…」。彼女は駅から家までの帰り道にえんえんとそんなことを悩んだ。なんとなく考えられた安易な解決策は仕事を替えることだ。
だが、ウィラという美形の彼氏が転職の邪魔をした。彼はフリーランスと自称する遊び人で、つまりヒモだった。彼女が衣食住の面倒を見ていた。すこぶる金がかかる。そのせいで仕事を辞めようにも辞められない。彼女は自分ががんじがらめになった気がした。
彼女は夏のある日、帰りの囚人護送車を髣髴とさせる満員電車のなかで、短大時代からの親友の畠山一恵さん(28)のことを思い浮かべた。畠山さんは開けっ広げな性格で思いやりのある「みんなのリーダー」だった。内気なソウが心を開いて分かち合える数少ない人間だった。
だけど、畠山さんは短大を卒業してから悲しい恋愛事情を抱えるようになった。彼女は転覆事故の後遺症で引退した元競艇選手と長い間付き合っていた。男は人生をかけていたボートレースを失い仕事をせずにふらふら。それを大手百貨店の婦人服売り場で働く畠山さんが食べさせていた。男は未来を嘱望された若手選手から、ヒモにまで落ちぶれたせいでだんだんおかしくなり、やがて二人の間にけんかが絶えなくなってきた。
すると男は突然姿をくらました。彼女がデパートで働く間、南船橋のホステスと逢瀬を重ねるようになっていたことが彼の置いていった携帯電話からわかった。
畠山さんは復讐の業火に焼かれながら布で包んだ包丁をバックの中に入れて、そのホステスのアパートにやってきた。だが、部屋は蛻の殻だった。ちょんちょんちょんと畠山さんの肩を誰かがたたいた。訳知り顔の近所の年増女のご登場だ。「あのホステスはいつも男を引っ張り込んでいたね。その男とどうやら『遠い所』に引っ越したんだ」。
彼女は路上に崩れ落ちて、さめざめと泣いた。涙は灰色のコンクリートに落ちて、それは黒く染まっていく。悲しみはとても深く、どこまで沈んでいくことができた。
なんと残酷なことだろうか、おなかのなかには新しい生命が宿っていた。彼女は迷った末に親の反対を押し切って生んだ。デパートの仕事を続け、ぼろぼろになりながら必死で子どもを育てた。けれど、ちょっとした気の迷いが命取りになった。叔母の勧めに乗ってたちの悪いマルチ商法に手を出してしまったのだ。そこからは崖から転げ落ちていくようだった。今は親子ともども山のなかにある宗教団体に身を寄せている。
3 別れ話と中華包丁の親和性
これらの「畠山想定」により、ソウは男との別れを決めた。
五月雨の降る少し肌寒い日。彼女は告げた。
それはすでに「決まった」ことのようだった。彼にはそれに抗う術はないだろうと、ソウは決め込んでいた。
でも、ウィラはまったく想定外の行動に出た。ウィラは窓の外を眺めながらしばらくふさぎ込んだ後、無言のまま台所に行くとずんぐりと大きな中華包丁を握りしめて戻ってきた。彼は東シナ海をまるまる満たしそうな巨大な狂気に染まった。「おまえをぶっ殺してやる。ぶっ殺してやる…ぶつぶつぶつ」
いきなり彼女の意識がぐにゃりと歪んだ。わけがわからなくなる。次に音が死んでしまった。そればかりか映像もぼやけていく。
彼女の意識は〈オーディオ・ビジュアル〉に占領された。
4 音声を添えた映像
―〈オーディオ・ビジュアル〉のなか
麦畑の中を歩いている。麦の穂は周りの風景をさえぎっている。その上に空は広がっていた。水墨画みたいな薄い青が溶け、ちぎれ雲が寂しそうに泳ぐ。子どもたちのあげるたこがそよ風に揺られているのが見える。さわさわと小麦たちがささやき、遠くの森からあやしいけものたちの鳴き声が聞こえてきた。長い間穂の間を駆け抜けていくと、ぽっかりと何にもない空間に出た。そこには死んだ耕作機が横たわっていた。何の気なしにその死んだ耕作機を触ると、何かがほとばしり体が震えた。その中に潜んでいた何かの〈記憶〉が指を伝い、するすると彼女の中に入り込んできた。
これはなんなのかしら―。
手を放したときには、西の空が真っ赤に染まり、風に冷たさが混じっていた。もうすぐこわいこわい夜が来る。
逃げるように穂の中に飛び込む。
5 モロボシの介入
〈オーディオ・ビジュアル〉は彼女を通り過ぎた。その瞬間、ウィラが雄たけびを上げて、渾身の力で中華包丁を振るった。南無三―。だが、疾風のごとく現れた誰かが、包丁を吹っ飛ばした
モロボシだった。
モロボシとウィラの決闘は、蝶のように舞い蜂のように刺すモロボシに軍配が上がった。ウィラはばたんと床に横たわり、浜に打ち上げられた海亀のように泡を吹いた。「明後日来やがれ」とモロボシは息巻いた。
しかし、そのときにはクエの姿は忽然と消えていた。彼は泡を食って部屋中をくまなく探したが、見つけられなかった。彼は地団駄踏んだ。彼の「主たる目的」は、彼女が持つ〈記憶〉だったから。
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