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2章 猫が運んできた有意な夢

6 ホテルまでの案内

スピードボートの上の風景は、大友克彦のGペンが表したかのような直線的かつ繊細な描線でできていた。瞼にぶつかる風はあまりにも激しく、ボートの行き先を直視するのは難しい。緑色の海がへさきに切り裂かれこなごなの白い泡を吐いていた。空気を切りつけるやかましい風の音が耳に飛び込んでもくる。そのボートはものすごい速度の中にいた。つまりどこかを目指している。

強い日差しがゆらゆら波打つ海面を突き刺していた。向こうに見える水平線の上にはもやもやがある。誰かの不安のようだ。その上の真っ青な空。地球と同じ大きさがありそうな入道雲が浮かんだ。くっきりと白くギリシャの彫刻のようなくっきりとした輪郭をしている。まだ雨の匂いはしない。でもい“いずれ”だろう。

ボートの上には囚人が20人ほど乗せられている。二列で向かい合わせだ。誰も口を利かずうつむき、次に来るできごとに備えている。20台のコンピュータは自分の得られる分をどうやって最大化するかに知恵をしぼっている。みな顔は険しい。

それに比べて、彼らを導く武装集団の男たちはなよなよしている。芸術大学に入って夢に挫折する方の若者のようだ。そんな男たちが思いのほかてきぱきと常に何かをこなしている。は虫類系の目は囚人の様子をちらりと見つめていた。

ハヤタの腹の底からあらゆるものがふったぎる。それは宇宙ロケットが発射される瞬間のポジティブで前向きさを持っていた。暗い牢獄の中ではついぞこんな感情をもたなかった。たとえそれがおれに死をもたらそうとも、おれはこの感情を前向きに捉えたい、と彼は思った。

なくなったはずの未来はそのとき、よみがえる可能性を得たのだ。

それはどんなに控えめに言っても、「好機」だと言えた。

昼は過ぎ去り夕を通り越し夜だ。かなり長い夜。それも超えてやがて東雲を認めた。ボートはやっとこさ小さな廃れた港に入った。

ハヤタはくだびれはてていた。寂れた空っぽの船着場の、ぼろぼろのコンクリートの上にしゃがみ込んだ。武装勢力からもらったはっか煙草を吸ってからだのなかでいろんなものが不足しているのを知った。煙草を吸うのが久々すぎて頭のなかで渦巻きがおきたが、なんだろう、娑婆の味がした。それは素晴らしかった。自由を象徴している気すらする。

しかも朝日がまぶしい。囚人たちは冷凍マグロ出荷の手際の良さでばらばらに車に乗せられていく。

そのとき暗闇から現れた妙な女がハヤタの肩をテレビドラマ的なニュアンスで叩いた。モデルのような女だった。「こんばんわ。はじめまして、私が添乗員のレナよ、受刑者番号176番、ハヤタさん」

つるつるした声。女は顔を斜め12度傾けてハヤタの顔をうかがった。ハヤタはぴりりと警戒した。女は彼を知っている。だがハヤタは女を知らない。

「…添乗員だと?」

ハヤタはまゆを吊り上げてそう言った。

「そう添乗員。あなたに快適な旅を保障するわ。あなたを血眼になって探している人間から自由にしてあげるためにね」

レナは彼の手に冷たい手をあてがい、にこりと笑顔を浮かべた。その笑顔はあらゆる人間の想像を超えていた。形而上学的な凶器の類にも思えた。彼の落ち着きをぶっ壊してしまった。こめかみのなかに太い棒を突っ込まれてこねくり返される。脳みそがとろけて外にこぼれだす。

だが、なんとか彼は再び態勢を整えた。彼は好機に接している。ふいにするわけにはいかない。必要に駆られ女を観察することにした。

その顔はものすごくきれいで、ものすごくサイボーグのようだった。「大人の女の子をはじめた女子大生風」。目はぱっちり、二重まぶた。黒々としたタランチュラ的なまつげがぴんとのびている。鼻は小さく「私わんわん自己主張する女じゃないの」といわんばかりだ。唇はどうも欲情をうっすらと誘う透明な桃色で塗られていた。暖かいオレンジ色に染められたロングヘアはきらきらと光り、柔らかく肩にかかっている。

でも、このすべてが絶望的なまでにうそくさい。あまりに完璧に整い、動物的な匂いが存在しない。身体つきもマネキンの理想的な造りにカミサマをも恐れぬ肉感を与えていた。赤いゴルフパンツからのぞいた足は、南洋の緑色の海でとれた真珠のように白く、5月の雨が描く斜線のように細かった。しかも目を凝らせば、そこには赤と青の血管の小川が何本も通っている。それほど彼女の肌は若く透き通っていた。

さらに尻はおおぶりだが厳格さも認められた。やたらと大きいのではなく、内部に厳しい自律の網が走り、その中国産の陶器のごとき曲線が維持されているようだ。それは細い足とのアンバランスのなかで、不可逆のポイントすれすれのバランスを守った。腰骨の先はとても深い急崖だ。さらに上るとそこには幾何学的な曲線がある。丸いふくらみはファストファッション的素材のサマーツイードが押さえつけているにもかかわらず、十分な存在感を放った。抑圧されているせいでむしろ解放の欲求がそこに生じているふうである。

そこで彼は最も重要なことに気がつくことになる。

だらしなく垂れ下げられた両腕の先。細くて長い指だ。それが見たこともない複雑な形を作っていた。メビウスの輪を三回捻ったようである。彼はそれを解読しようと目を見張った。

その視線を感じて、そうね、と女は言った。

「目を凝らして、耳を澄ませて、鼻をくんくんさせなさい」

彼女はその指を彼の目の前に突きつけた。

7 夜

二人は荒野にぽつんと建った安ホテルに逗留した。全長170センチの短いベッドの上に、いやに赤いがさがさの毛布がかけられている。テレビは頭頂にアンテナをくっつけたビクターのテレビだった。裏側をみると犬が蓄音機に耳を澄ませているおなじみのマークがついている。それが移す画像はゴーグルを忘れて入ったプールの中のようだ。何となく大枠はわかるのだ。洗面所の蛇口はもちろんさびついている。注がれる水もさびのにおいを含んでいる。クローゼットの中には蜘蛛が住んでいる。それからロバの毛のにおいの悪い部分を強調させたにおいも立ちこめている。

ハヤタはなぜか昔、炭坑夫的なホワイトカラー仕事をしていたときに出会った最悪の人間のことを思い出した。あのころはなにもかもが確かこんな感じだった。つまりいろんなものが生半可にだめになっていた。だけど、それは絶命せずものごとは無茶を繰り返しながらも進んでいった。いつも、どんなときもへとへとだった。将来のことをいつも悲観していた。彼の人生のなかのかなり暗い時期だ(もちろん刑務所には勝てないが)。

「わたしは宇宙人がじつはこっそり地球を支配していると考えている男は受け入れがたいんだけど。あんたはどうなのよ?」ぶっきらぼうな口ぶりで女はきいた。その口ぶりはホテルになじんでいた。

「大丈夫だ。そんなに信心深くないよ」ハヤタは両の手のひらを上にむけた。

女はばたんとそのぼろぼろのダブルベッドの上に座って、靴をほっぽった。それから靴下もほっぽった。生白い足が露出した。それは赤いがさがさした粗暴な毛布の上をなでた。執拗になでた。しばし2人は黙り込む。

「わたし、は虫類と地球人のあいの子が、月にある基地から、ラジオ無線で地球人を操っているとか、そういうのをいう奴は耐えられないの。あなたそれじゃないの?」

足はその間も壊れた乗用車のワイパーのようにゆっくりと毛布の上を掻いた。それから細長い煙草をピンク色の口紅を塗ったうるうるとした唇の間にくわえた。そのホテルの名前が書かれた安っぽい紙マッチが擦られる。緩慢な煙が浮かんだ。

「おれは、それは面白いほら話だと思うな。『月にある基地』。素晴らしい。地球を支配するのに、そういう遠隔地を利用する感じがたまらない。ロマンチックだな。たぶんロマンチシズムにはたぶんに『非合理性』が関与してくるんだ。感情とか趣向とかが合理なものを叩きのめすのに溜飲をさげるんだよ、みんな」

ハヤタはせまい床の上をスティーブジョブスみたいに行ったり来たりする。「例えば、愛。ここにはかなり理屈じゃないものがあるでしょう。なぜ人がのめり込むか。世の中を理屈に合うものばかりが支配しているからだ。理屈に合うものってのはなにかって? 簡単だ。金だ。中央銀行が印刷する架空の価値が、この世にあまりにも蔓延しているんだ。いやだねえ」

女は煙をはいた。

「いやだねえ」調子を合わせる。2人は目を合わせ言葉を発しなくなった。 

ということで2人は抱き合った。ということで。それは最初から決まっていたようだった。氷の上を滑るシロクマのようになめらかなことの成り行きだった。

「たぶんこれは生まれる前からきまっていたことなんじゃないか」と男は言った。「そういう気がするんだ」男はさっきまで体を貫いていた悦楽の味を何度も反芻した。映像が音声が、触った感覚が再生、巻き戻し、再生を繰り返した。自由だ。これが自由だ。自分が「生きている」証拠だ。あの最中は頭の中が何度も真っ白になった。それこそ雪原のど真ん中に真っ裸で迷い込んだ自分を、上空から眺める映像を何度も見た。不思議なものだ。娑婆をぶらぶらしていたときはこんなに楽しくなかったのに。

 女は裸のまま彼の胸の上に指で何かを描いていた。目線はぼうっとしていて何にも見ていないふうだった。その顔は何度見ても造り物のようだった。床に落とせばこなごなに割れるんじゃないのか、と思えてくる。しばらくしてから女はやっと答えを返した。「そんなくだらないことはいわなくていいのよ。昔の映画みたいな台詞じゃない。そういうの好きじゃないの。あんまり美しくないと思うわ」

8 命令は物腰柔らかい方が聞き入れられやすいだろう

翌日から二人は荒野を駆け抜けた。荒野はどこまでも荒野だった。そこにある荒野が、フロントガラスの向こうにある荒野をつくっているんじゃないか、と思えるほどだ。「荒野の拡大再生産」と呼んだらどうか。経済学の言葉「拡大再生産」。生産で得たもうけを再び生産にまわして、生産の総量を増やしていくことだ。

数日、荒野を貫いた一本道を十数時間なにもせずに進んで、ぼろい宿に逗留する日々が続いた。彼女はシンクに水をためて、そこにスマートフォンを落とした。画面が無機質な真っ黒になり、黙り込んでいる。細かい気泡がいくつか現れ、水面に消えた。ハヤタはそのできごとを「スマーフォンの悲劇」と呼んだ。それからハヤタはきいてみる。「なんでスマートフォンを沈めたの?」

女は「ここから変なものが出てきて、わたしに絡み付こうとしているのよ」と語り、アサヒスーパードライの夏のキャンペーンガール的な笑顔を浮かべた。その不自然さにハヤタはのけぞりそうになる。「彼らの手を切り離す必要があったの」。彼女は代わりにホームセンターでトランシーバーを二つ買い、片方を彼に渡した。

「これなら“悪霊”がやってこないわ」

そんなことがいくつも起きる。例えば、ある渓谷では、乗用車をわざと崖下落とした。車は崖を転がるうちに団子虫のように丸くなる。近くに新しい別の車種が隠されていた。例えば、あるホテルでは1ヵ月分前払いしたのにもかかわらず、その10分後にはホテルを出て次の街を目指していた。ドアには「ドント・ディスターブ」の掛け札を残していた。

そうこうするうちに、件の「クエストホテル」に辿り着いた。そのころには2人の間柄は酸っぱいものになっていた。

そのさえない部屋に入るやいなや彼女は乗り気のしない提案をした。正確にはそれは命令の類だった。

「いい、ハヤタくん。ここから出ないでね。絶対ここにとどまりつづけるのよ。部屋の外には一歩も出ちゃダメよ。出たらすぐにあなたの居場所は彼らにかぎつけられ、捕まってしまうわ。捕まったらどうなるかは火を見るよりも明らかよ。ハヤタくんは体の八ヶ所に縄をくくり付けられ、引っ張られるのよ。すると体は裂けちゃうの。赤い血がたくさんこぼれて、赤い肉がむきだしになる。

でも安心してね。ここにいればあなたは守られるの。彼らの手が届かないように細工してあるの。あなたをわたしと一緒に連れまわすのも難しいわ。すぐに彼らは嗅ぎつけちゃうから。彼らの鼻はハイエナのようにきくのよ。

そういうことだから。食べ物は冷蔵庫にかなりたくさん用意してあるから。ずうううと食べ続けてもなくならないわ。相撲取りでも根を上げるほどの量よ。ベッドの下にはあなたの大好きなピスタチオがたっくさんある。たっくさんね。それからDVDもたくさん置いておいた。腐るほどある。少なくとも全部見終わるのには7年かかるくらいね」

レナは笑った。その態度のなかには、これまで彼が彼女に認めたことのないものが紛れ込んでいた。それは侮り、と呼べるものだろうか。自分の立場の強さを見せびらかしたがっているように見えた。そうだ。確かに彼は解放させられた囚人に過ぎないのだ。それをエスコートしたのが彼女、もっと正確に言うなら「彼女たち」、である。「あなたは冬眠する熊のようにならなくてはいけないの。穴を掘ってそこでやり過ごすのよ。あなたを狙う人間はとても多い。だから、この“冬眠”はとても長いものになるということを覚悟してもらいたいわね。分かったかしら?」

彼は尋ねた。「どれくらい長いんだ?」

「火星に生物が存在したことが完全に立証されるまでの長さ、と言えばいいかしら」

「なんだと?」

「あるいはこうとも言える。リスが中身が腐って空洞になった木のなかに、胡桃の実を完璧に貯めるのに要する時間、くらいよ」

「はあ?」

「つまり、それは計りようがないのよ。常に不確定なものなのよ。あんたにちょっと教えてあげたって数秒で状況は変わっちゃうの。その度に教えるわけにはいかないじゃない。

それから、あんたはわたしとあんたの間にある権力関係に無頓着すぎるのよ。わたしが上、あんたが下。わかる? わたしが太陽、あんたが地球、そんな感じかしら。だから、わたしの言うことを聞いていればいいのよ。自分でなにか決めようとされる迷惑なの。将棋盤の駒が勝手に動き出したら困るでしょう。わかった囚人君? 誰があんたを逃がしてあげたか、お分かり?」

ハヤタは頭に血が上った。彼は人から頭を押さえつけられるのが本当に嫌いだった。眠りから覚めた熊のように雄叫びを上げて、世界をひっくり返す暴言を吐きつけ、純粋なる暴力をはたらこうと考えた。その後、「純暴力批判」と言う難解な本を書くんだ。からだに力がみなぎった瞬間、彼女は意味ありげに手をかざした。その手は妙な感じで震えていた。すると、彼の怒りの根本がすうと消えてしまった。彼の感情は梯子外しを喰らって、むなしくしぼんでいった。

レナはバッファローを狩るハンターのように冷たい声で話した。

「あなたに必要なことは我慢よ。いつか次のランナーが来て、あなたを安全なところに連れて行く。それまでの辛抱よ」

女は背中を向けた。ドスン。乱暴なドアの音。閉まった。彼は駆け寄りそれを開いて、周囲を見回したが、からっぽの廊下。静寂がぎゅうぎゅう詰めにされているようだった。彼はそこから出ようかどうか考える。女は「部屋の外にでるな」と忠告していた。それは彼の胸の中に小さな刃を突き刺している。体はしびれ動かなくなった。彼はまったく死にたくなかった。その狭いホテルの一室だって、あの囚人部屋に比べてどれほど過ごしやすいことか。自分はおそらく、女を媒介とする何者かに“生かされている”のだ。彼らが手を話すと奈落の底に落ちてしまうんだ。だから、彼はドアを閉じ待つことにした。

彼が長い間そこに滞在する準備が整えられていた。冷蔵庫は像2匹分の大きさがあり、壁にべったりと塗りこめられた。そのなかには山賊の一団が一冬越せるくらいの量の食べ物が鎮座していた。どれも自分の優秀さをアピールするよう、凛とした姿勢を保っている。「わたしを食べて」とそれは言っている気がした。彼は蓄牛場で不本意ながら牧舎にくくりつけられ、やがて大量の食料を与えられ、太らされていくことに慣れていく肉牛のようだった。味の事なんか気にせず――そんなこと気にしなくとも刑務所のどんな傑作よりもうまかった――、肉牛冷蔵庫の中の食べ物をどんどんたいらげた。

あるときから彼は食事の後、入念な筋力トレーニングに励むようになった。それは自分が肉牛化していくことへのささやかな抵抗だった。そのせいで、彼の体は鋭さと力強さを手に入れた。

時間はあっという間に過ぎていく。「外」では夏の思い出が去り秋のせつなさが来て冬の凍てつく寂しさが訪れ、春のささやかな期待がやってきた。だが、待てども待てども〈囚人連〉からの連絡は来なかった。どこかで問題が生じているのか、それとも、自分は見捨てられたのかと彼は推測した。自分をめぐる状況が、不時着を迫られた旅客機になった気がした。できればソフトランディングがいいのだが、と彼は思った。

なによりも彼は権力に捕まることをものすごく恐れていた。何度も痛い目に合わされてきた。彼らは一度目をつけると容赦するということを知らない。

彼は経験を理論武装することに成功していた。いわくこうだ。「権力は一度敵に回したら終わりで、反逆者に何をするかは、新宿東口の紀伊国屋で10分くらい本を探してページをたぐれば、簡単にその理由を列挙できる。人類の歴史は、そういった権力があらゆるものに対して荒れ狂う物語である。歴史の教科書は人類が現代で理性の時代に達したとうたう。だが本当にそうか。ほかの太陽系に住む異性人が教科書を読んだら、腰を抜かしてしまうかもしれない。『なんて、人間ってのはばかで野蛮なんだ。あいつらこそバーバリアンだ。支配し啓蒙しなくてはいけない』と叫ぶんだ」

この権力へのおそれについて、周囲から“偏った思想”の持ち主だとやゆされてきたけれど、その信念はいつも一貫してきた。だから、一度権力による捕縛から逃れたが、執拗に追われているとみられる状況のせいで、彼は不安になりひどく混乱していた。ロムに異常をきたしたインベーダーゲームのような有様だ。混乱した(バグッた)画面、腹を空かせ泣き叫ぶ赤子のような電子音の鳴き声、はんちくになったプログラム……。

彼は誰かがこの部屋に突入してこないかと考えて、おちおちと眠れなくなった。

9 暗闇

日々は無為に過ぎていった。やがて桜が散り春がさらなる生命の萌芽へと舵を切ったとき、誰かが冷蔵庫に置いていった食べ物は、ついにグランドフィナーレを迎えようとした。壁に敷き詰められた北欧製の冷蔵庫のなかは、倒産した田舎のプラスチック製品工場の倉庫みたいな有様だ。がらんどう。

食い物がなくてはもう篭城はできない。選択肢はほとんどないのだ。ハヤタはその状況を、“偶然”の変数を著しく変化させるチャンスだと思った。さあて、そろそろ外部との接触を試みるべきか、とハヤタは考えながら、野球帽を被った少年のころのわくわくがよみがえるのを抑えることができなかった。草いきれ、粘土質の土、さびた鉄筋、河川敷、雑木林、どぶ、そんなもののにおいまで、記憶と一緒にやってきた。それらは色彩に満ちて刺すように鮮明であった。彼は牢獄のなかで、このホテルクエストの密室のなかで、つまり、似たような囚われの身において、強く自由を希求してきたのだ。

彼はまるで、ねじが巻かれたばかりのおもちゃの車だった。それを押さえつける人の手が去れば、後はもう走りだすばかりなのだ。鼻息は荒くなり、体中が力んだ。「そうだ、もはや〈囚人連〉などは役立たずなのではないか」。彼は独り言を言う。その1年で独り言は日常以外の何者でもなくなった。なにしろ、個室で、1年である。我慢にも限界がある。いまこそ、自分で道を切り開くべきときだ。「犀は投げられた」。確信し始める。〈囚人連〉が自分を見捨てたということを。そして、事態はいきなり変わりつつある。さっきのニュースがその静かなるインディケーターなのだ。

確かにその夜の状況は普通とかなり違った。夜明け前の森にふりかかるような豊潤でさわやかな湿気が立ち込めている。その湿気を伝ってホテルの外にある街の哀しげな騒音がきれいに聞こえた。その騒音が鳴り、そして響く、それが繰り返される様は、ミニマルミュージックだった。短い小節の繰り返し、その群れが絡み合い、静かに相がずれてまたもとにもどる。やはり循環し宇宙を構成している。それは惚れ惚れとするほど美しい構造をしていた。その音の風景と比べれば、世界にはあまりにも音が残されていない。

長い間、ジャングルの真ん中にある刑務所にいた彼の聴覚は、狼のそれのようにとても研ぎ澄まされていた。彼は窓に近づき、カーテンの隙間から、夜空をのぞき見た。月は雲で隠れていたが、その分星たちがとてもきらびやかに光っていた。この一年この行為がどれほど、自分の鬱屈を慰めてくれたことか。自分が規定され続けている地面が形作る球体の外に、無限が広がっている。宇宙はひとつではなく、無限に並置されている可能性はいまだに否定されていない。自分はたまたまその一つのなかに含まれているが、もしかしたら違うものの方へと移行することも可能なのではなかろうか。「誰かぼくを“そちら側”へと誘ってくれまいか」彼は幼い子どもの心を未だに持っていた。それは素晴らしいことだ。

長くそうした後で、彼はベッドに横たわって天井をにらんだ。そこには無機質な細やかな凸凹がある。映像が脳裏にこびりついていく。もう一つの頭は真空になっていた。それから、不思議なことが起きていく。どこかのうるさい換気扇の回転が聞こえてきた。それはカンボジアの森を焼くヘリコプターのように暴力的だった。それがある地点で突然止まると、彼の音像風景は見渡す限り真っ白な雪原になった。音もなく、しんしんと雪が積もっていく風景。音はそこにはなかった。

それから、彼は奇妙な感覚に包まれた。すべての感覚が一つ上のレヴェルを経験していた。ベッドに横たわった体に、ほのかな温かみが宿る。得体の知れぬエネルギーが湧いてきた。なんだこれは。

彼には自分の吐く息に含まれる二酸化炭素が、天井付近にたまっていくのが見えた。それはどんどん溜まり、風船のように膨らんでいく。ドアの上部ほどまで溜まると、角にたいまつを括りつけた牛に追われるように、排風口の外へと逃げ出していった。すると、彼は理由もなく――事象のほとんどは“本当は”理由など持たない――哀しさを感じた。哀しさは鯨の巨大さを持っていた。それは彼の心の海に潜り、どこまでもどこまでも深くに向かっていった。ウイスキーのボトルをいっぱいにするくらいの涙が彼の切れ長の目から零れ落ちた。

長い哀しみの淵に沈んで、なんとか再び立ち上がれたとき、彼が見たものは、闇のかたまりだった。それは壁、床、天井の六面すべてからしみ出してきて、揺られていた。それは気が遠くなるような時間――彼に歯それが20時間にも30時間にも感じられた――をかけて増幅されていき、やがてベッドの上の彼の体を包み込んだ。彼は抵抗する力を奪われていた。あまりにも柔らかく濃かった。長い時間がたった。

彼の体は闇のかたまりの中に消えた。

あるいはそれとひとつになったのかもしれない。

10 猫の襲来

ハヤタは目を覚ました。

アンダーシャツと半ズボンは汗にまみれていた。彼は平静を失い部屋の中を見回して、何か“しるし”らしきものを探した。だが、部屋には特に変なところはなかった。彼は冷蔵庫の引き出しを引っ張ってみた。中身は記憶にある映像と一緒だ。どこかの倒産した会社の倉庫だった。トイレで用を足した。小便が水をたたく音に耳を住ませる。“いつもの”音だ。彼は何度も水を流してみた。その流れに目を凝らしても、特に変なことはない。その陶器には「TOTO」と記されている。特に変じゃない。「リチャード・マット」と架空の芸術家の名前が記されているわけでもない。彼は床の上で飛び跳ねてみた。からだは健康そのものだ。

煙草を吸いたい気がした。一度思いつくとそれは欲望を越えて、命題になった。彼はそれがないのは重々承知しているのに、部屋中をひっくり返して煙草を探した。

もちろんそれはないはずだった。煙草の存在はその部屋に最初から最後までなかったのだ。

だがなぜかそれはあった。電話機と壁の間にくしゃくしゃのソフトパックのラッキーストライクが挟まっていた。中身はずっしり詰まっている。それを握る込むときに手のひらに現れる安心感は、どうして生まれるのだろうか。彼は煙草を手にすると、ホテルの紙マッチでその先端に火を灯した。暗い部屋のなかで、その火の赤さは何かの告白みたいだった。彼は煙の行く先を追った。煙は室内にわずかに差し込む薄い光を吸い込んで、極めて淡く微差にとどまる七色をたたえていた。スローモーション。時間は誰かが止めたようだった。音は無音だ。そうだ、彼は気にもとめなかったがそこは美しい無音が満たしていた。

煙はやがて天井に触り、ばらばらに解けた。

その天井が突然、壊れた。穴が開いた。人一人分通れるくらいの穴だ。破片は床に転がっていた。

 

その穴から影がすっと落ちた。柔らかく速く。

彼は目を凝らした。

それは……猫だ。

 

猫だ。

たぶん、そうだ。

11 さあ猫と話そうじゃないか

突然の猫――。

ハヤタの警戒心は真っ赤に灯った。ベッドサイドテーブルの上に置いた、ジャックナイフをつかみ、その鋭い刃をその猫とみられる物体に向けた。彼の神経は跳躍的な増幅をし、皮膚を突き抜けてそこに向かう。それは接した。接した。ありとあらゆるやり方で、さまざまな形をとって、その得体の知れぬ猫らしきものの正体を見極めようとした。

それでも分かるのは“それが猫の姿をとっている”ということだけだった。もしかしたら猫に化けた怪物かもしれない。もしかしたら殺し屋かもしれない。もしかしたら使者かもしれない。もしかしたら「宇宙の意思」がそれに宿っているかもしれない。

彼の脳みその一部はとても混乱し、もう一部は頑強に警戒を保っていた。猫は笑顔とも真顔とも知れない顔つきをして、にゃあ、と鳴いた。それから、ひたりひたりと彼に近づいてくる。ハヤタは想像する。その丸々とした腹の中に爆弾でも仕掛けられているのではないか……。それが勢いよく弾け飛ぶのではないか。

けれど、もっと意外なことだった。猫がしたのは、しゃべることだ。しゃべることだって? まさか? いやそれは貧相なホテルの個室で起きた、一縷のうそも含まない事実だったのだ。彼の警戒心は丁寧な形でほだされていくことになった。

「あんた、ハヤタさん?」

ハヤタは驚きのあまり答えられなかった。

「あんた、ハヤタさん?」

猫は繰り返した。猫の声はワイキキビーチに浸り切った日本人の陽気さをはらんでいた。その声色はどちらかというと女に近く、おはぎとかお汁粉とか甘いものを作ってくれる親戚のおばあさんに似ているところがある。

「………」

猫はさらにもう一回言った。妙に親しみがあふれている。「ねえねえ、ハヤタさん、つれないなあ」

「おいおい、やめてくれよ、まさか猫がしゃべりだすとは思わないぜ。おれはもうメローなんだ。とてもメローなんだ」

「今夜はそんな夜なのよ。そういう日が誰にでもやってくるのよ」

あっはっはっは。なにを言っているんだ。あっはっは。どんな夜だよ、なんか理屈に合いそうないい方するけどねえ、おれは騙されないよ。理屈ってのはねえ、相手を屈服させるか、自分が屈服するかのどっちかまで続くんだ。分かる。お前は俺を屈服させようとしている」彼はすっと真顔になってナイフを突きつけた。「お前は猫だ。だけどしゃべっている。お前は極めて怪しいお客さんなんだ。たぶん誰かの刺客なんだろう。おれを、殺そうとか、あるいはうまい具合に利用しようとか、考えちゃってるだろうが。おれはそんなところで一生のほとんどを過ごしてきた。あのこの世の果ての刑務所のなかだってもちろんそうだった」

「まあまあまあまあ。まあまあまあまあ」猫は丸っこい手をくいくい動かして酔っ払った大阪のサラリーマンのようないなし方をする。しかも饒舌だった。「わたしにはさあ、あんたを屈服させようとか、そんな気なんか、これっぽっちもないのさ。そもそもしゃべる気だってなかったんだから。わたしゃあねえ一山いくらの野良猫で全然満足だった。好きなときに食べて好きなときに眠る。人間ちゃんのおかげで都市居住者のわたしの暮らしは大分ラクなんだ。どこにでも飯が転がっているし、雨の残酷さも、冬の無慈悲な寒さからも逃れられるからね。ところがあの男が現れて、わたしをたぶらかした。わたしの欲望はねえ、手玉にとられちゃった。わたしはあっさりやつの一味になっちまった。それでも今回は自分がキャスティングされるとは思ってもいなかった。わたしは下位打線だからね。こういうのに役に立つまいとたかをくくっていた。ドミノを友だちとやっていられればそれでよかった。

もちろんそりゃあ、ベンチ入りはしてたさ。ピッチの状態とか、自分のコンディションには目配りしてたのよ。だけど、監督がわたしを使うのは考えられない選択肢なわけだなあ。ハヤタさん。それがどうだ。いきなり肩を叩かれた。監督はこう言った。“キミがゲームの流れを変えるんだ”ってね。なんか聞いたことある感じの、使い古されかけのフレーズだけど、でも耳障りはすっげー良かったのよ。それでゴーだよね。ゴー。で、きちゃったわけ~」

猫は二つの丸っこい手のひらを虚空にむけて、首をかしげた。

「今宵は猫ちゃんがしゃべりだしちゃうくらい奇妙なときなのよ。あなたにはすでにいろいろ起きたでしょう。あなたは暗いトンネルに入ったのよ。だけど大丈夫。そのトンネルには出口があるのよ。あなたは全速力ではしるしかない。それがトンネルから“救われる”コツなのよ」

猫はぐるりと体を回して、それから招き猫の姿勢をとった。

「それであんたはハヤタさんなのかしら」

「振り出しに戻ってくるね」

「ええ、振り出しでつまずいたままなのよ、わたしたちわね」

「ふう、なんてこった」

「ねえそろそろ認めてよ。ハヤタさんでしょう?」

「ああ、まさしくそのとおりだ」

猫は机の上に放り投げられたラッキーストライクの箱から、その丸っこい手を器用に使い煙草を取り出した。そしてくわえた。猫の上品で小さな口には、そのフィルターが茶色い煙草は、どうも大きすぎるようだった。

猫は自分で紙マッチをすれないことに気がついた。

「ねえ、あんた、ちょっと火をつけてくんない」ホステスが開店前の店内で出すワイルドな声色。こびたところなんかこれっぽっちもありゃしない。

ハヤタは目を丸くした。「猫の煙草に火をつける夜が来るとは、な。田舎に引っ込んでいるおばあちゃんに聞かせたら、ぶったまげて、そのままぽっくりしてしまうんじゃないかね」

「あんた、ごちゃごちゃうるさいわねえ、早く火をおつけなさいよ」

だけどハヤタはむしろ、ごちゃごちゃ言った。「おれはこう考えるよ。お前の肺は人間のそれより全然小さいんじゃないかね。そこにそんな有害煙を入れちゃったら、よくないんじゃないかね。血の巡りが泊まって、『人間語操る猫吉さん死去、去年12歳、猫と人間の架け橋に尽力、今後の人間界との外交に影響か』って猫新聞の三面記事に載るんだ」。彼は時間を稼いで、戦略を練っていた。だけど、しゃべる猫をどうするかなんて、香港大学の入学試験をパスするくらい、天文学的に難しい問いだった。

彼はとにもかくにも盛んに語らった。彼の頭のなかの参謀たちは、円卓を囲んで猫への対応策を練ったが、何一つ有効な答えを生み出せなかった。「そもそもおれは、小説の作中にしきりに煙草を登場させるのに反対なんだ。読んでいると吸いたくなるからね。煙草にはあまりいいところがない。百害あって一利なし。からだは悪くなる。性交の最中に息切れして相手を満足させられなくなる。社会保障の国家予算を膨らませる。金はかかる。葉っぱの産地はモノクロ経済になる。不作になればおしまいだ。もうけるのは昼間からソファの上でふんぞり返っている金融資本家か、政府の食らいつきだろう。最悪だ。なのに世界中の人間が、積乱雲でもつくろうとしているかのように、吸いまくっている。ばかげたことだ。(以下省略)」

12 ラッキーストライク

さんざ時間を稼いだにもかかわらず、彼はなにも思いつかなかった。諦めて火をつけてあげた。猫は煙草をものすごくうまそうに吸った。そのいくらか人生を諦めた雰囲気のある顔がどうにか、ニコニコしていた。吸いっぷりは素晴らしかった。いちどきに4リットルの空間を白く濁らせられる質量の煙を、ふうと吐いた。そのときに不恰好に唇をひし形にするところなんて、親戚の大阪の塗装屋のおやじを連想させてしまう。暗闇のなかで、煙草の先っぽの明かりは真っ赤に輝いていた。

実のところ、その煙草が場の主導権を象徴していた。その煙草が猫の小さい唇に挟まれ、そこに火が灯った瞬間、猫は主導権を我が物にしていた。もう一年以上個室に囚われた男は、簡単に自分の命運の操縦桿を相手にゆだねてしまった。

そして猫はオプションを解き放つ。おもむろに猫はその丸い手をぐるぐる回したのだ。蚊取り線香の模様をなぞるように。すると、どうしたことか――。ハヤタはそのぐるぐるに酔い、持っていかれた。彼はどうしようもなく思い出にとらわれる。かれのこころは脳髄の中の上映室に閉じこもった。そこでは映画がやっていた。彼自身が作った彼自身を主役とした映画がやっていた。猫はまんまと彼を操り、夢の湖のなかに落とし込んだのだ。

13 ハヤタの映画

――彼はとても長い夢を見た。それは彼の少年時代をめぐっていた。

(上映室…溶暗、上映開始)

中目黒さんとは中学生のとき1年間深い仲にあった。ハヤタにとって、それは忘れえない記憶だった。彼の性格の構成にも影響を与えているだろう。

彼はスクリーンに彼女の姿を復元した。それはなぜか、実際の映像よりももっとなまめかしかった。ホワイトキュービックのなかに彼女が現出した。彼は彼女のことをさまざまな角度から、柔らかいまなざしを与えていた。彼女は誰もいないその空間で、料理の一人芝居をやっていた。

思い出す…思い出す…思い出す…。

彼女は小柄でもの静かそうな女の子だった。ペンキで塗ったような真っ黒の髪。それが上品に、ちょっと幼く切られていた。その豊かな数万の束の下には小さな顔があった。その顔はとても幼く、あくがなかったが、うっすらとどこか悲しげなところが漂った。彼女が笑うと95パーセント喜びが表現される。でも残りの5パーセントは紅海を切り開きそうな深い悲しみだった。人の目は奇妙なことにその5パーセントに引き寄せられる。

――――……――――……――――

その瞳はインクをこぼしたように真っ黒だった。彼女を何を見ていても、目の焦点が合っていないふうだった。この世界で生きていることを、悲しんでいたのかもしれない。楽しいことはあまりなかったのかもしれない。時間が経ったからこそそう思えるのだ。その彼女はこう言った。「私別に後悔はしていないの。最初からこうなるって、うすうす気づいていたわ。ものごとはそういうものなのよ。“始まる場所”があれば、“終わる場所”がある。たぶんいまわたしたちは“終わる場所に”たどりついたのよ。いまになっては、もう、どうしよもないのね」それはハヤタにとって何度も反芻された言葉だった。忘れられない言葉だった。津波のようなつらさを引き起こす、撃鉄だった。そのときハヤタは言葉を返すことができなかった。

それが二人が交わした最後の言葉だった。

――――……――――……――――

行き先の見えぬ、某国の2000年代の空気が、ハヤタの原風景だった。時代に蔓延した圧迫感は彼からも自由を奪っていた。もちろん彼の周りの少年少女たちからも奪った。それは巨大で圧倒的なせいで極めて平等になることができた。もっと大事なことはたくさんあったし、もっといい選択肢を選ぶことができたのかもしれないのに、鯨が砂浜に上がって自死を遂げるように、その某国ではなかなか多い人間が「終わり」を探していた。

そんな世界のなかで、ハヤタと中目黒さんは二人だけの世界を造った。その世界は世間の遥か彼方にあり、誰も邪魔をすることができなかった。完璧な計算で造られたうそだらけの世界だった。

――――……――――……――――

どうしてそんな世界に逃げたのか。答えはとてもかんたんだ。偏屈な人間を笑い転げさせるほどかんたんだ。

学校が地獄だったからだ。

そのころの学校はとんでもないことになっていた。そこは同調圧力と骨抜きにされた精神が支配する公開処刑場だった。誰もを同じ均質的な人間の型にはめ込むソーセージ生産マシーンはあらゆる点で優れものだった。自分で考えること、世界の広さを感じること、自分の意見を持つこと、そういった種々の権利を完全にはく奪するのだ。それはじゅうたん爆撃に似ていた。かつて東京で、ドレスデンで、ゲルニカで起きたものと同質のものだ。子どもを丁寧に消毒し、プレスし、そのあと引き伸ばし、ぺらぺらにしてしまう。教室にも、体育館にも、教員室にもいや~な空気が立ち込めていた。出る釘があれば、それは叩かれない。むしろ抜かれてしまう。だからこそ羊のような子どもたちは「空気を読む」ことに昼夜、没頭していた。自分が抜かれないように。

――――……――――……――――

そしてあるポイントを超えると、子どもたちは憎しみ合うのだ。それは起こってしまうと必然の結果のようだった。子どもたちは弱い人間を探し、目ざとく見つけた。その相手のちょっとしたところをあげつらい、1を100のように表現してしまう。つまり、大多数が1人の人間を圧迫するというかたちをとっていた。蟻の巣のなかに水を注ぎ込むような冷たいやり方がとられた。目をふさぎたくなるほど残酷だった。

もちろんハヤタもその毒牙にかかった。彼は囲まれ、なぶられた。大人になっても忘れがたき痛みを彼は追い、それまで持っていた安穏とした世界の価値観はずたずたになった。

――――……――――……――――

彼はある才能を持っていることに気づいた。彼は自分が置かれた状況――多数から残酷な攻撃を受けている状況――を客観的に分析できた。だから彼は自分を攻撃した人間のことを最初のうちは憎んだが、これはシステムが起こしたことだと精緻に理解した。自分はシステムの犠牲者なんだ、それは必然だと。

彼の見立てはこうだった。子どもたちは自分たちを憎しみ合わせる、学校という装置を責めようとは絶対にしない。その根本的な理由がなぜか見えない。あくまで自分たち同士のサバイバルゲームにのめりこむ。そこには勝者はいない。敗者だけがいる。攻撃の対象はさいころばくちで親番を回していくのと同じで循環する。運良く“裁判官”になれる日があり、運悪く“有罪率100パーセントの裁判を待つ被告人”になる日もある。敗者は増えていき、勝者の数を上回る。勝者も自分が勝者であることを疑い始める。そのとおりだ。そのゲームが含む凶悪な論理は、勝者の存在など元から認めちゃいなかった。すなわり、それは「敗者を作るゲーム」なのだ。それはまがうことなき悲劇で、絶望的な徒労にあふれていたが、そういうのには奇妙な愉悦もともなうから面白い。敗者をすり抜けて、生き残っていくことに、おかしな喜びを見出す人間は少なくなかった。

――――……――――……――――

後に高級官僚になった皮肉屋の友人は、そんなばかげた学校をこう皮肉るんだ。彼の様子は土に埋まった大根が誰の力も借りず、地上にジャンプしたのに偶然出くわしたという具合だ。腹を抱えて嗤ってる。「ここは、『憎しみの惑星だ』」あっはっはっは。中学生が浮かべられるとは思えない凄みのある醜い笑みだ。「その惑星はとても奇妙だ。後期近代という時代のおかしさの一つの到達点だよ」あっはっはっは。鼓膜が水素爆発を起こしそうなほど痛くなる嗤い声…。「子どもたちは憎しみ合い、蹴落としあうんだ。そして誰も救われないんだ」そこで皮肉屋は嗤いをやめて、朝顔の樹形図のような無機質な表情を浮かべた。70年代の映画の人工知能のような声だった。「そして皆が皆、すごろくの“あがり”を探している」あっはっはっは。「もうそれは“終わり”でもいいと誰かが言い出す。すると、がやがやがや、がやがやがや、みんなが騒ぎ出す。だが、恐ろしいことに皆、脳みそのない人形なんだ。彼らはこんな集合的意志を持つ。『そうだな、もうこうなったら“終わり”にしちまおう。もうこんなゲームやりたかないさ』。それはアメリカの中西部で数百の鳥がいっせいに地面に突き刺さったできごととにているなあ。それはもしかしたら、人間の本能なのかもしれない」あっはっはっは。あっはっはっは。その笑い声はぐにゃぐにゃとゆらぎフェイドアウトしていった。

 ――――……――――……――――

こんなクレイジーな時間が少なくとも高校まで続いていった。誰もがそれを望んでいないのに、腹立ち紛れに自分の有り金すべてを賭場に溶かすような心性が現れ、人は何度でもそれにとりつかれてしまう。そうだ。それはどこかギャンブルに似ているところがあった。

しかもゲームは複雑さを増していく。子どもたちには将来をめぐる椅子とりゲームが待ち構えているからだ。たぶん世の中というものは余裕を失っていた。椅子の数は少しずつ減らされていった。プレイヤーの脳みそはこんな言説に支配されていることがしばしばだった。――ほかの人間を追いやって椅子に座らなければ、世間からさげすまれ、非人の階層に没落する。非人になれば二度と帰って来ることはできない。家族の縁を切られ、非人どうしでつながりあうこともできない圧倒的な孤独につかまる。それは生きたままの死に近いのだ。おれは、いや、おれだけはそうなっちゃいけない――。

14 逃避行

思い出す…思い出す…思い出す…。

2人はまさしく「逃亡者」だった。隔離された世界を生み出して、ずっと一緒にいた。午過ぎ学校が終わるとすぐに地獄から逃げ出した。誰かが追ってこないか、学校の「しみ」がからだに付着していないか、気にしながら。よく行ったのは、古い商店街にある背の低い古いデパートの屋上だった。そこはぽかんとした空間が広がり、人もまばらで、清掃員が“一応”という感じでのんびりと仕事をしていた。デパート自体もさしてそこには気を払っていないのは間違いなかった。そこに長い風雪に耐えたコカコーラの赤いベンチがあった。塗装がはがれ、足は磨耗の末にぎいこぎいこうなり声を上げた。場所が含む“古さ”の記念碑だった。

――――……――――……――――

2人はそこで気の遠くなるほど長い間、話していた。昼にそこについても、気づけば陽は沈んだ。たいした話じゃない。さしたる意味など、その言葉たちが指すもののなかに存在しなかった。言葉と意味の関係は極めて不通だった。むしろ、言葉が交わされ続けて二人をつなぐ鎖の硬さを確認することと、世界から二人が閉じてしまうことが、なにより大事にされた。

彼は話しながら、いつも夜眠る前に聞いていたジェフ・ミルズの「トワイライト20」という曲を胸の中で“再生”していた。それは恐ろしいほど、その閑散とした屋上の遊園地にふさわしかった。音楽を包み込む喪失感と静かで力強い方向性が彼の胸に刺さっていた。

――――……――――……――――

そこには小ぶりな観覧車があった。その狭い個室を200円でよく買った。中に入ると2人のひざが当たった。シートは硬くてあまり座り心地はよくなかった。誰かが吸った煙草のくさいにおいと、女物のけばけばしい香水のにおい。さあああという都会の騒音が、隙間から入ってきた。そうだ。そこからは空がよく見えた。その街の空気は東京のように濁ってなかったから、遠くの山の連なりが見えた。それは彼にとって別世界に見えた。そこに行けば、あるいは、そこを越えれば、新しい世界と邂逅できるのではないか。彼のでっかくてでっかくてどこにもしまえない脳みそは、大人が一笑する夢を見ていた。彼はその年ですでに自分のことをよく知っていた。自分は人が作った仕組みのなかでは生きていけない生物だということを……。それは2000年代の某国では地獄に値する結論だ。その国では、みんな「普通でなくてはならない」からだ。だが、閻魔大王はすでに判決を下してしまった後だった。「キミはこの社会になじめない。同調圧力に抗し続けなければいけない」。そう、もう取り返しがつかないのだ。

――――……――――……――――

正直に言えば、彼は彼女とひざを突き合わして向き合うその瞬間を怖がっていた。彼女の気分は海に同じ。波一つ立たない日もあれば、漁師が命を落とす大荒れの日もあった。そう、その大荒れの日には、彼女の表情はツンドラの深いところにある氷のように、固まっていた。そういうとき、ハヤタは心中でひやひやとしていた。彼女はやがてせきが切れたように、哀しみのストーリーをまくしたてることになる。それは別次元の宇宙の話のように脈絡がなく、バックグラウンドがなく、時間列がこんがらがっていた。彼女の激烈な感情は津波のように彼を飲み込んだ。だけど、幾度の試練をこなし、彼は、その話を大まかに理解できるようになっていた。それはとても些細で、つらい話で、それだけだった。彼女はマッチ箱のように小さな日常を生きていた。その空間は小さすぎて息をするのも苦しいのだ。

彼はその狭い個室でよく煙草を吸った。格好をつけているのだが、煙が個室にあふれると彼女はいつもいやな顔をした。そのにおいのせいで、彼女の母が、彼女が煙草を吸っていると疑っていた。ちょっと、やめてよ、そういうの、と彼女はよくそうたしなめた。「本当にこまるの。いやなの、わたし」ごめん、と彼はうつむいたままよく謝った。

――――……――――……――――

ある日の記憶だ。そのときは夕方だった。夕日が箱の中に斜めに差して、見渡した街も赤と黒い影のコントラストができていた。二人が憎んでいた街が、そのときはとてもきれいに見えた。一軒屋、ビル、酒屋、古い町並み、電車、電波塔、山、森と街にはいろんなものがある。

二人は長い間、話さなかったが、やがて彼女は口を開いた。声にはフェイザー(未来的な混沌を奏でる効果音色)がかかっているみたいだった。それからリバーブ(狭い部屋で声が反響しているような効果音色)の気配もある。

「この観覧車って私たちの境遇みたいじゃない。この箱の中に閉じ込められて出られないの。箱の外に世界は広がっていて、それをこうやって見ることができる。だけど、そこには行くことができないのよ。あくまで、この密室で生きることが義務付けられているのよ。金魚鉢のなかにいる2人の金魚がわたしたちのよ。ここから出ることはできないのよ」

彼女の目はそのとき一番黒かった。表情はアンドロイドの試作品のような真顔だ。

そのセリフは彼の胸に大きな切り傷を与えた。一番思い出したくない種類のことだった。彼のなかに苦々しさが満ちていった。

15 羊と出会い、中目黒さんと別れた

スクリーンの映像がいっときなくなる。急崖のような沈黙……。苦味は霧散した。映像が再び追っかけた。彼は依然として思い出した。“思い出すべきこと”は数え切れないくらいたくさんあった。

(上映室…再び溶暗、上映再開)

――――……――――……――――

ハヤタは中目黒さんのアパートメントに出入りを許された。そこは彼女が外の世界から自分を隔離するためい作り上げた城だ。「入場許可」を得るには相手を限定する彼女の信頼を勝ち得ないといけなかった。

彼女の部屋はぬいぐるみやお菓子、いちごを描いたベッドシートと少女趣味で彩られていた。極めて狭い分野に趣味を集中させていることが分かる小物の中で、時代遅れのフラワーロックはひときわ異彩を放っていた。

フラワーロック……。それはそのからだに手をかざすと踊り出す、花の形をしたおもちゃで、なぜか某国で一時期ブームになった。なぜかどれもこれもサングラスをかけていた。取り立てて素晴らしい部分はどこにもなかった。もう人々は彼らのことを忘れてしまったんだろう。それは電池が切れていて、踊れなくなっていたけど、それでも何かを表そうと努力していた。ハヤタは「どうしてこれを買ったの?」と尋ねたことがある。彼女は遠い目をしてこう答えた。「なんとなく捨てられないのよ。つかんでゴミ箱に入れようとするところで、誰かが『やめろ!』って叫ぶのよ」

――――……――――……――――

でももっと変なものがあった。羊の実写写真だ。……羊の実写写真? そう羊の写真。それは成熟した羊のからだと同じ大きさで、北側の壁一面にはっつけてあった。カメラを見つめる目には、うっすらとした悲しみのもやがかかっていた。それはどう考えても、彼女の部屋のほかの構成要素とは似ても似つかなかった。

初めて彼女の部屋に入ったとき、ハヤタはその写真をあっけにとられて見つめていた。彼女はその小さな口を開いた。「彼女の名前はドリーというの。1996年、イギリスで生まれた、世界で初めてのクローン羊なの」と彼女は言った。「だけどドリーは2003年、肺が苦しくなったから、安楽死にされた。彼女はそれを望んでいたのかしら。ああ、かわいそうなドリー」。彼女の感情が揺れているのが分かった。丘の上に立てられた物見やぐらの上の旗が、たくさんの風に揺られているような様子だった。

彼はそのとき彼女が“変な女”だと思った。その感想は猜疑でも、嫌悪でもなく、喜びを基礎にしていた。彼はいわゆる“普通の女”より、“変な女”を相手にした方が落ち着くことができた。将来、「結婚するために貯金しましょう」だとか、「郊外の3LDKのマンションを買いましょう」だとか、「子どもを私立の小学校に通わせたい」だとか、「近所の○○さんが車を買い替えたから、うちもそうしましょう」だとか言いかねない女は、金輪際結構だ。むかつく。いらいらする。その習性は彼が大人になって、ある日老いでぽっくり死ぬまで変わらなかった。

――――……――――……――――

2人はとにかく話した。飽きもせず、何時間も他愛のないことと、思い浮かぶそこはかとなきことについて話した。2人は物語も作った。17個の創作のうちの一つには、火星に移住して新しい共同体をつくろうなんて、マンガ由来のユートピア思想にかぶれたものもあった。

彼らはベッドの上で向き合って互いの表情を見つめていた。彼はだんだん彼女の顔のすべてを気に入り始めた。それはぎこちないバランスでできているけど、決して不細工じゃなかった。もっと自分に自信を持てば、もっときれいになれるのは間違いなかったが、そうなるにはいろんな条件が整わないといけないものだけれども。

中目黒さんは2人でいるときは、笑い、悲しみ、怒る、感情表現豊かな女の子だった(学校にいるときは表情が常にこわばっていた)。だけど、その心のなかに薄暗い何かが巣食っているようだった。ハヤタはその得たいの知れぬ、どろどろとしたものに触れる覚悟があんまりつかなかった。それに触れていったいどうすればいいのか。その問いは彼をがんじがらめにした。彼は若く、まだ何も知らなかった。だから、その負の性格を持つ何かをどうすればいいのか、分からないのは当然のことだ。

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彼らは億の言葉たちを交わした後、強烈な引力のようなものを感じてやがて結ばれた。だけど、結ばれたことで、むしろ、二人を結んだ紐帯がおかしくなってしまったようだ。中目黒さんは彼を激しくののしるようになる。彼はそれを“空襲”と呼んだ。“空襲”には彼女が持ちうる汚いボキャブラリーのすべてが、B29に載せられ、投下された。そのたびに彼は防空壕の奥深くに逃げ込んだ。彼には頭を抱えてやり過ごすくらいしか選択肢はなかった。ヘタな答えは彼女のどこから来るかも知れない、シヴァ神の怒りを増幅するため慎まねばならなかった。その空襲は良ければ5分、悪ければ1時間、本当に最悪のつぼにはまれば、3時間続くじゅうたん爆撃のようになることもありえた。彼はただ耐えるしかない被空襲民だった。

それがどうして起きるかは誰にもわからなかった。中目黒さんはどうしてそんなひどいことを口にしてしまうのか、とさんざののしった後に反省した。彼もどうして彼女がそんなことを口にするのか、知りたがらなかった。最後のころには何もかもがおかしくなった。2人とも悲しみの沼のなかに身を沈めていった。彼らはあっという間に一緒にいられなくなった。

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