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1章 黒い石版と刑務所の相関性

1 個室=男+むかむか

その貧相な一室には尾はうち枯らした三十男と、爆発寸前の“むかむか”が詰まっていた。世界の極北ともいうべき劣悪なDVD映画を見ることは先進国に暮らす人間なら誰しもあることだ。その男が直面した事態もまたそういうことだった。ただでさえ、ごちゃごちゃしていた男の精神模様はこんな状態に陥った。――「なんてこった。おれはこんなくそみたいなDVDを2時間も見ちまった。最初はパッケージのすけべな感じに惹かれたが、中身は悪夢。ナイトクラブで夜な夜な遊ぶ若い男女グループが、『わたしたち、社会のルールをほんのちょっとだけ逸脱してみちゃいました、もう普通の生活には戻れませーん、この世は楽しんだもの勝ちですよねえ』という飯を噴きそうになるダサいお話。しかもだ。最後はよりによって若い男女が純愛に目覚やがるのだ。美しいながらも欲求不満に押しつぶさそうになっていた女の主人公は、よりによって悟り境地に到達しちまう。『わたし、ずっと何かを探していた。それが何だか、ずっと分からなかった。でもいまは分かります。うん、分かるでしょ。それは愛だったのよ』」

――――――――!!!。声にならない声。絶望だ。彼はその豊かな内的世界でこう叫んだ。「ああ、おれはおれの闘いに敗れたんだ。強力な力にねじ伏せられ、諦めた。そして這いつくばって、キャンと降伏の声をあげたのだ。なんて惨めなんだおれは……だれもこんなおれに同情しないだろう」

その激烈な感情の持ち主の名はハヤタという国籍だけ日本の男だった。30代の中途半端男で、女にもてないしカネもないし特別な能力を持ち合わせていなかったが、頭のなかには体系だった“偏屈思想”が巣食っていた。それを彼に語らせると夜は静まりかえり、昼も静まりかえった。ただ、彼はちょっとした複雑な事情のなかにいるという点で、パプア島に生息する7色のオウムのようにユニークだった。それについては後で語ろう。

とにかく彼は長い間、ペナルティキックをミスってチームを負けに誘った、フォワードのようにひざまずきうなだれていた。それから、彼の失望はむかむかに変わり、標的を探した。場所が場所なら、こんなシンプルな怒りが戦争の読み水になったりするから、人間はなんと興味深い生物だろう。

くそっ!ハヤタは腹立ち紛れにDVDのプラスチックケースを床に叩きつけた。頑丈だけがとりえのフローリングは、ケースとぶつかったときすこんと乾いた間抜けな声を上げた。が、ケースはなかなか頑丈でちょっとやそっとじゃ壊れない。「クソったれ、クソったれ」。体はそれを何度も足蹴にしたが、対局中に架空の勝利を確信した将棋の名人のごとく無駄な力が体じゅうにみなぎっているせいで、致命的なダメージを与えられない。彼の頭には血が上りすぎていた。そのぱっとしない、饅頭に瓜二つお彼の顔は、トマトの赤さに染まっていた。針でつつけばぱあんと赤い汁をまき散らして破裂しそうだった。その怒りというものはそう簡単には下っていきそうになかったのだ。

それから彼の感情は新しい局面へと向かった。メスをめぐる戦いをやるオス猿が出すのと寸分たがわない奇声を上げたのだ。それはすさまじかった。そこら一体の近所にテープエコー(旧式のやかましいエコー)をかけたように響き渡り、家賃400ドルの安アパートに住んでいたロビンというコック見習いは「猿の惑星」という映画のことを思い出して、「なんかなつかしいなあ。あれを見たのは小学生のころじゃないか、ふふ」と独り言を言った。水垢がこびりつき、蛇口を捻ってもちろちろとしか水の出ない汚い洗面所で、彼は時間をかけて歯を磨いていた。彼には友達もガールフレンドもいなかった。それもそのはず、田んぼだらけの田舎町からこの生き馬の目を抜く街にでてきたばかりなのだから。

さて、ハヤタの行動は規定的なレールを外れた。まさしく暴走特急そのものだ。つまり、体で大の字を描いた後、「倒れるぞ~」とドナルドダック並みに陽気に叫んで、床にぶっ倒れた。骨と筋肉に衝撃が走り、鈍い痛みが追いかけてきた。彼はそこに素晴らしいものでもあるように真上を眺めた。でも、そこにあったのは、「親父が娘を毎日のようにぶん殴る悲劇が起こりそうな」暗渠の中の住宅が持つと類推させる汚~い天井だ。それからアマゾンにでも生息していそうな毒々しい模様の蛾の群れが、羽が空気を撫でつけるかすかなながらも不快な音を立てながら、舞踏会でもやるように虚空で踊っていた。

彼は再び「猿の奇声」を上げて、世界を振動させた。床に転がっていたしけモクを拾って、ライターで火をつけ、その健康に対して挑戦的な煙を吸うと、少しだけ落ち着いた。だが、床は妙に生暖かく、汚い。べたべたしている、彼は不快だった。もちろん、それで死ぬというわけではない。その粗悪な煙草の煙は、突撃の指令を出す味方の“のろし”のようだ、と彼は思った。「くそったれ」怒りはふったぎるばかりだ。

それもそのはず。彼はもう狭いアパートの一室に1年ほどいたのだ。ずっと待ちぼうけを食っている。彼を導くものは、彼のことを忘れてしまったみたいだ。次の指示はいったいいつ来るのか、自分の運命がどこにあり、これからどこにいくのか分からない。完全に宙ぶらりんだ。それがかれの激烈な感情の大本だった。

部屋には男とむかむかがあるというわけだ。

2 刑務所、遠くして

中華料理人が中華なべに酒を入れると、大きな炎が吹き上がる様というのは、かなりテレビで使い古されたイメージだ。読者のあなたはそれを想起してほしい。それがハヤタに起きたことだった。もともとむかついていたところに、油がかけられ、彼を火達磨にしてしまった。

そのきっかけはテレビだ。

そこには彼の母国の某国の衛星放送がやっていた。ハヤタは腹立ち紛れにテレビをつけたのだが、すぐにがっかりした。なぜならそれは彼のむかむかを落ち着けるどこか、さらに増幅するものだったからだ。

そのテレビのニュースが伝える内容がまたひどかった。ナショナリズムをことさらあおる政治家の独演会をやっていたからだ。彼の動きは勇壮なイメージの肖像画をなぞっている。手を高く振り上げて、絶叫。誰かが細かいレシピを作っているのだろうか。彼が言うことはきわめて簡単で平凡だ。つまり、一にも二にも国家。三にも四にも国家。五にも六にも国家……というわけだ。

彼はこう宣言する。「重大な危機を乗り切るために、国民の力をひとつにしなくてはいけない」と。つまり、人間は国家の目標のために支配されなくてはいけないと言っている。支配を受けることへの対価はなにかは示されない。

そのままむんむんとしたムードに包まれたテレビ伯爵は、目を覆いたくなるような領土問題のニュースになだれ込んだわけだ。「“私たち”の領土に彼らが“不法”に侵入しています!」。熱源が定かでない割に異様にパワフルな熱狂とともに語れるのはそんなくだらないことだ。客観性を装った政府の広報を、マスコミが嬉々としてやらかしている悲劇。それは脳みその中をかき混ぜようとする爆発的な悪夢だった。そのあとを追いかけたのが、数日間テーブルの上で放置されたピザトーストの惨状と重なりそうなヒノマル経済ニュース。これも一見客観的な風を装うが、そんなことはないふざけた大本営発表だ。このくだらん数分のオーディオビジュアルのつなぎに権力は隠れたテーマを滑り込ませた。それはつまりこういうことだろう。「グローバル競争に負けないように、力を振り絞れ、がんばれ××××。アホでバカでどうしようもないあなたは、グローバル企業の手となり足となり、ややもすれば生贄にもなってください。そうです。あなたはグローバル企業にすべてを捧げなくてはならなくてはいけません。そうしないとあなたを助けてくれる企業さんが本当に困ってしまいます。それが××××のためになります」

やってられないぜ。間違えても彼らのグローバルな節税とか脱税とかシャドーバンキングとかグローバルな人員削減とか、CSRとかいうおためごかしか地元対策とかへの協力だけはしたくないもんだぜ。世界にはホームレスマネーがウン十兆ドルもぐるぐる回っている。それは常に投資先という寝床を探して入り込みすぐさまでて新しい寝床を探して動き回る。このグローバルな架空の余剰が好き勝手やり放題の一方で、とんでもない貧しさと不条理に放り込まれた人間がうようよいる。そんな良心がきりきり舞いしそうな支配構造があらゆる問題の温床になっているけど、人間はどうにもこうにも楽天的に過ぎるんだ。

ハヤタはこめかみを強く押さえた。目をぎゅっとつむった。脳内でスクリュードライバーが稼動し膨大なる痛みを生み出した。「ああ、悪夢のようだ――」。吐き気のような感情、怒りがふつふつとたぎってきた。おれが遠く離れている間に、この国はここまでおかしくなっちまったのか、と彼は思った。たぶん、これは何らかのカタストフィーに向かってあの仮構の列島が行進を始めてしまったことの証拠なのだろう。

もう、この国は人間が意見を持つことを認めようとする素振りすら見せていない。あの国には人間はいない。あるのはずっと大きな大きな村だけだ。もし意見を持つ人間が現れたら、よってたかって“村八分”にしてしまうんだ。そしてあそこではある人々の力がどんどん強められている。もう誰も彼らに逆らえるやつはいない。大マスコミ諸氏はその強権が出す液体排泄物を喜んで飲み干すほどの忠実で卑屈な下僕に成り下がっちまったんだ。悲しすぎて涙もでねえぜ。

深いため息。そしてハヤタは無常観にとらわれたままコカコーラを飲んだ。そして大きな大きなげっぷをした。げっぷは宙に浮かびどこかに消えた。その代わり、カロリーの高い黒い液体が胃袋の中にしっかり収まった。それは満足感とともに、かすかな失望をもたたえていた。彼はかんのパッケージを眺めた。「Coca C0la」。踊るような、わくわくさせるような文字があった。このデザインを考えた人間に会ってみたい。そいつはどんな気持ちでそれをつくったのか。かれの手のひらは空っぽになった空き缶をくしゃくしゃにして、部屋の端っこに投げた。それは音を立てて転げ、やがて黙り込んだ。

彼は深い思索の道を抜けてからこういう結論に辿りついた。このあほみたいな地球を相手にしていたくない。おれが音楽家だったら、音楽の世界に没頭しているだろう。おれが映画監督だったら、映画の世界に没頭している。おれが現代美術家なら…。 

3 経済的効率に長けたホテル

そこはホテルクエスト。大量生産型の均質的なホテルで、世界中に支店が700店舗もある。小奇麗で、最小限の設備で、比較的安い「どこにであるホテル」だ。部屋には比較的しっかりとしたセミダブルベッドがあって、透明なガラスで区切られたシャワールームがある。ちっこい冷蔵庫、中国製の衛星放送を見れる薄型テレビ、中国製のエアコンディショナー、無個性な照明、ちょっとした化学香水のにおいもする……お手軽でありふれたものばかりだ。

 これが少なめの投資で開業し、資金をいち早く回収する洗練された方法の一つである。

 ホテルクエストにはたくさんの客が来て一泊で去っていくのが常だった。そういう客で常に部屋はぐるぐる回転した。数週間のんびり過ごそうという考えの人の逗留地になりえなかった。なにしろとても実質的でビジネスライクなホテルなのだ。商談に訪れた若い実業家、会社の命に従うサラリーマン、どこかほかの土地へ向かう人たち、そういう人々が客の中心だった。

 だが、彼はその例外にあてはまる。なぜなら、そこにもう1年もいた。しかも一歩も部屋から出ず、狭いうさぎ小屋のなかにしんと身を潜めていた。彼にはそうしなくてはいけないわけがあったが、それについては、彼が眺めているテレビが語ってくれる。そう、テレビは常に何かを語っている。人はその一人語りを聞くことに慣れている。なんとも便利でおかしな時代なんだ。

 さて、そのニュース番組である。ニュースは淡々とやってきては、明確な起承転結とともに去った。名ピッチャー同士が投げあった1時間半あまりで終わる野球の試合のように滑らかだ。バッターはバッドを振る。それは宙を切るか、あるいは凡庸な転がりを、天然芝の上で表現するだけだ。内野手はそれを拾い、伝統芸能のような型のなかで、軽々とさばいていく……。その平凡なものたちの羅列のなかで最も気になる点は、淡々さの下に隠れた、恣意性だ。ニュースは完全に“加工されたフィクション”であるのにもかかわらず、“自明なる真実”を自称していた。これが客観的な観点から作られている画期的な情報商品で、これを食べればあなたはたちまち天才になることができるんですよ、としたり顔で語るから、とんでもなく始末が悪かった。造っている人間のばかげた過信と無知に鉄槌を下してやりたくもなる。それは人間がニュースのことなんてすぐに忘れていく、という性質と関係がある。ニュースは次から次へと消費されて消える。数年に一度、運のいい記者は後世に語り継がれる“事実”をものにできる。運の悪い記者はそれを悔やむくらいしかするべきことは残っていない。

 その合間に流れるテレビコマーシャルは夏休みの最後の一日のようにむなしい。どうやればここまで紋切型になれるのかと疑いたくなる。ホテルに閉じ込められて一年の間に、彼のなかに生まれた二重人格がふざけた口調でこう話した。

「われ買う、ゆえに我あり、だよね」

そいつは静かな空間をぐるぐる歩き回る。かこんかこん、踵がうるさく鳴った。「そうじゃなければ何にもないんだ。そう買わなければキミには何にもないんだ」。

あっはっはっはっは。

あーはっはっはっはっは。

 そいつはぶっ倒れて大笑いした。

 それから立ち上がってまた口を開いた。

「ほしいものが、ほしいわ」

あっはっはっはっは。

あーはっはっはっはっは。

 そいつはまたぶっ倒れて、そのまま死んだ。そいつが死ぬのは27回目だった。

4 テレビ

テレビ。

90年代的なシニカルさをはらんだ大きいテロップが踊った。

「突撃リポート~無人島の未確認施設で謎の爆発~」

真っ赤な炎に包まれたジャングルと廃墟の画。十数秒、無言のまま写される。

ナレーション「この無人島にある謎の施設で昨年、正体不明の爆発が起きました。その施設が何に使われたかは不明で、警察発表では焼け跡には40体の焼死体が転がっていたということです。その現場はこのジャングルのど真ん中にあるといいます」

ピラミッドでも目指しそうな探検服を着た、だが顔が正真正銘イエスマン犬タイプのレポーターが厳粛なムードで視聴者に話しかけた。それから、レポーターはワイルドさになれていない感じがありありの足取りで熱帯の植物の合間を縫っていく。彼がかけているロイド眼鏡もちょっと場違いだ。しかも彼は新たな過ちを犯す。それは道中で発見した。野ザルの群れやタルシウスという目に入れても痛くないほどかわいい小猿、グロテスクなラフレシア、トロピカルな模様の希少種の蝶などを紹介しちゅうことだ。もともとの趣旨から外れた壮大な寄り道に10分ばかりを浪費して、ついにクルーはわざとらしく“未確認施設”にご到着する。

「ありました!ありまーしたー!」

レポーターは叫んだ(最初から知っていたくせに)。そのわざとくささは目をおおいたくなるほどだ。そこから彼のモードが急転直下しニコラエ・チャウシェスクのモードに変わる。

「あそこが爆発現場です。ジャングルがあそこだけすっぽりとなくなってます。土を見てください。黒ずんでいるでしょう。大きな爆発に見舞われ、周囲で大火災が起きたのです!」

ここで「2001年宇宙の旅」のHAL9000的な声のナレーションが入る。余りののっぺりさは背中につめたいものを感じさせる。

「SRTVは極秘映像を入手しました」。

ざらざらと目の粗い映像がでた。

目を凝らした。解読する。縦に割ったイチジクが地面に埋まったかのような形状の建物が見えた。灰色でむき出しのコンクリと深い彫りが特徴的だ。有刺鉄線を巻きつけた高い塀に囲まれ、熱帯のジャングルが周りを追い茂っている。

映像は少し高いポジションから引いて撮られた。やしの木の一番上にしがみついて撮った感じだ。この点には深い洞察が必要だ。

HAL9000は「音声に注目してください。人の叫び声が聞こえます」だだだだだだだだ。「重火器の連謝音らしき音にも聞こえます」それからの無数の甲高いサルの遠吠えの輪唱。「その建物の中に人がいると考えられます」

「そして、この後です……」

それから数分間、画面はかちこちに硬直した。静止画像を見せられている気もする。サルの叫び声だけが動きを演出している。

…………………。

爆発した。煙がすべてをおおう。

1分後。

クリアになり貧相な建物は跡形もなくなくなって燃える風景が映った。 

それはイントロに出たものと一緒だった。

だがこれで終わらない。

「問題はこの後です」

ナレーションの声は不気味さを増した。80年代的なゲートリバーブがかかっている。

やがて炎の間から何かがのぞいた。刑務所があったところの場所だ。

そこには真っ黒な石版が屹立していた。

やしの木のほどの高さがある。

それはどうも妙に風景から浮き出ている風合いがある。

黒い石版はずっと黙り込んだまま、そこに立ち尽くしていた。

さらにここで、現場に戻る。

付和雷同の犬レポーターは「しかしです。見てください」

カメラがぐいーと刑務所の跡地らしきコンクリート基盤の一帯にうローズアップした。

「あの石版の姿はここにはないんです」

彼はそんなことをぬかした。

5 〈非公式な刑務所〉

「ばかやろう!」

ハヤタは汚職事件が露見してフラッシュの洪水を浴びせられながら自分をハメた奴のことを思い浮かべている政治家がやる苦々しい表情を浮かべた。唇をきつく結び、眉間にしわを寄せ、頬は岩のようにかちかちだ。

番組はその後、面白半分でえせ考古学者に分析を仰いでいた。「これはストーンヘンジに次ぐ巨石文明の可能性がありますねえ~」と考古学者は指摘する。「でもそうじゃないかもしれないですね~」とも考古学者は保険をかけた。そんなくだらないのが続いた。

「なってこった……。くそったれ。何がいま起きようとしているんだ!」

ハヤタは思いっきりカウチをぶっ叩いた。ぼすっという鈍い音。彼がまとうナーバスネスはまるで空気中で真っ黒な色として現れそうな深刻なレベルに達した。歯の上と下ががちがちぶつかるし、内股はねじりドーナツになりそうなほど引き寄せ合っている。

それもそのはずだ。そこは彼が一ヶ月前に脱獄した離島の〈非公式な刑務所〉だからだ。〈非公式な刑務所〉……。オレンジジュース製造工場のリズムで“秘密”を量産するクレイジーな場所だった。それがある島は周囲100キロメートルに岩礁ひとつない、孤島だ。長い間、人間は寄り付きもしなかった。囚人が島の最初の人間だったという、名前どおりの監獄島だ。

彼は〈非公式な刑務所〉を熟知していた。

数年あそこで死んだ魚のように暮らしたからだ。目をつむれば“豚箱”のベッドの死んだにおいをありありと再現できた。鉄格子にびっしりと付いた錆び、便意も引っ込むほどの悲劇的なほどの汚れをたたえた便器、格子戸から入り込む南国の太陽、誰も寄り付かなくなった納屋のにおい、同房のアイスホッケー選手が連発する腹がよじれそうなほど面白いジョーク、刑務官の陰鬱な顔、週一回はある囚人同士のけんか、ねずみすら敬遠するであろう食事……。そんなものが頭の中を去来した。

囚人たちは口伝えで情報を共有した。どんな些細なことでも、あっという間に皆が知るところになった。それほどまでに囚人は外界と切り離され、情報に飢えていたからだ。

その囚人の“口承文学”によると、島は以前、もじゃもじゃのジャングルに覆われた無人島だった。どの政府も認知しないため存在は非公式なままだった期間が長い。

その忘れられた島に意味を与えたのは、ほぼ一世紀前に勃発した太平洋戦争だった。敗残兵の小隊が上陸し、ジャングルに入ってゲリラ戦の準備に取り掛かった。補給を失った大隊は木の根っこや蛇を食いながら、なんとか上をしのいだ。やがて上空で、日米の戦闘機がやりあった。彼らはそろそろ敵の上陸近しと堀を深くし塀を高く構えゲリラ戦に備えた。だが、敵はその島に戦略的価値を見出さず、完全に黙殺した。待てど暮らせど敵は来ない。そうこうするうちに皆が皆マラリアに感染し、命を失った。

確かに島には日本軍の戦闘機の残骸や、歩兵の水筒、ヘルメット、三八式歩兵銃とかがよくあった。ジャングルのなかにはアジトらしきものも散見された。

6 トミーが話したこと

さらに刑務所について詳しい人間の見方にも目を向けてみよう。

「その島について知りたければ、トミーに聞け」

囚人たちは皆そう言った。

トミーとは推定年齢96歳(自分で自分の年齢を思い出せなかった)で、そのうち40年をその刑務所で過ごした、最長老囚人のことだった。トミーは刑務官から聞いたあらゆる話、たまに刑務所の塀の掃除や海岸に続く道をふさぐ倒木を除去するのに駆り出されたときに見聞きしたこと、囚人のうわさを統合して、刑務所の歴史やらそれをとりまく環境などを、さも知ったかのように話すことができた。その野獣のような感情むき出しの黒々とした顔には、「悪行のすべてをやってきました」と書いてあった。でも、彼は表向き極めて社交的で和める冗談を言う、“いいじいさん”だった。

トミーは落語家の調子でこんなことを言う。

「この刑務所を作るとき、基盤を作るために地面を掘り返したのだよ。すると、出るわ出るわ、ゴールデンラッシュならぬ白骨ラッシュだよ。その数はすさまじくて市場にあるすいかのような、どでかい山を作り上げたんだ。しかもそれは一部に過ぎないんだ。地中にはもっとたくさん埋まっていそうだったって話だ。“鉱脈”を掘り当てたんだな。掘りあてたやつを幸せにしない“鉱脈”だったけどね。たぶんここで死んだのは例の小隊だけじゃない、とおれは思うな。ほかのもたくさん混じっている。

じゃあその、ほかってのはなんだ?」

トミーは大きな鼻の穴をひくひくさせた。

「それは誰にもわからないんだ」

かっかっかっか。

「とりあえず、作業夫たちは途方にくれちまった。まったく、この不吉なすいかの山をどうすればいいんだ、ってね。葬式をやっていたら、おれたちまで、すいかの仲間入りだ、ってね

でも彼らはある種の天才だった。ある種のばかでもある。悩んだ末にある画期的なアイディアが生まれたんだ。やつらはこうやった。その白骨の上にホイップをかけるようにすっと、生コンクリートを落としていったんだ。千の死とコンクリートがコラボレートして、立派な建築基盤のでき上がりってわけさ」

トミーはかっかっかっか、と哄笑した。開かれた口から歯が2本だけのぞいた。その2本とも虫歯にやられた黒曜石だ。その間から、映画「ターミネーター2」の液体金属を想起させる粘着性の高そうなよだれがずるずると垂れた。彼のあらゆる部分にどうしようもない悲しさが付きまとっている。

刑務所にはジョージ・オーウェル的なすべてを監視・認識できる権力が存在した。この権力は受刑者からは見えなかった。でもその存在は、囚人にほのめかされていた。うわさでは、その権力は壁や床には無数の監視カメラが仕掛けられ、無数のマイクで囚人の会話を拾っている。個々の体温、血圧、精神状態などの身体的なデータも常に把握している。行動の傾向も蓄積していて、性格、思想信条、宗教、精神構造、癖だって知った。それらのデータはすべて米国のある地域にある“ゴルフボール“に似た形をした場所に保存された。それは向こう千数百年分を保存できる容量があるといわれた。

さらに古典的な工夫も凝らされている。囚人のなかには“間諜”が仕込んであって、そいつが囚人の動きのすべてを筒抜けにしてしまう。例えば誰かがふっと思いつきで「ちょっと脱獄したいなあ。しゃばが懐かしいぜ」と話しちゃうと、そいつはしょっ引かれて、水攻め、逆さ吊り、釘うちとばんばん拷問される。

囚人と直接コンタクトする刑務官は皆が皆、ロボットのような奴らだった。彼らはすべてを事務的にきちんとこなした。人間的なぶれをもっていないのである。表情はいつも氷のように凍りつき、言葉はいつも同じキーの低い声で、真面目で機能的な言葉遣いで話した。学歴社会の中間層でむしろその社会構造への依存性が高い羊タイプだけを選んだムードのやつらである。

さらに刑務所を知るのは、そこで働く、あるいは収容されている人を除けば、十人に限られた。ある共通点を持った「非公式な囚人」たちは皆、俗社会とのつながりを絶たれた。何から何まで抹消されている。そんなかわいそうな囚人たちの数は、その事件のときには120人に膨れ上がっていた。彼らは妙な黒ずくめの男たちに突然捕まえられた。眠らされ、起きたときには〈非公式な刑務所〉に放り込まれていた。刑期などはなく、ずっとそこに閉じ込められることが決まっていた。

結論はシンプル。

その刑務所には、間違いなく鯨のように巨大な秘密が潜っている。

7 刑務所のなりたち、そして大脱走

その刑務所の運営は、打ち込まれたプログラムを完全にそのまま自動演奏するシーケンサーのように平たく、簡潔に、反復的に行われた。あるいは優秀で去勢されたテクノクラートが、寸分の違いも認めないままに回す、「未来世紀ブラジル」に出てくる機械仕掛けの行政機関のようでもあった。

だが、いつまでも続くかにみられた砂漠の晴天は、突然の台風のダイナミズムに吹き飛ばされた。それが発した暴風は常軌を逸しており、刑務所を二度と戻れない地点へと誘うほどだった。

囚人の間で非公式な結びつきが強まっていった。全知全能の神のごとき監視と、権力が発し続ける抑圧のエネルギー(発されなくなればそれは終わりだ)のもとで、それは成し遂げられた。ちょっとした奇跡だ。

囚人の、“人種”も多様だった。それこそ特権階層もいれば、猟犬もいたし、アウトキャストやゲットーの棄民もいた。これらの人間たちをつなぐ輪が存在した。彼らは突然捕獲され、自分が持っていた何もかもを突然奪われ、刑務所に放り込まれた。そのため、すべてを喪失した感を共有していたのだ。

彼らは「もう今生は諦めました」という顔をしながら、その裏でペルシャじゅうたんを織るようにじっくりと、権力から不可視のコミュニケーション網を作りあげた。そこでは無数の情報が飛び交い、飛び交うごとに洗練化することを彼らは可能にした。刑務所をめぐる多くの部分が囚人たちの知るところとなった。

囚人たちは集合的な考えというものを形作る。それは個々の考えを坩堝(るつぼ)に突っ込んでできる類のものだ。

集合的な考えは自然とあるベクトルを持つようになった。

それは〈非公式な刑務所〉から脱走するというベクトルだった――。

それは自然とグループと呼べるものになってきた。それで彼らは自分たちに名前をつけた。

――〈囚人連〉。

それは1月30日に行われた、密やかな住民投票ならぬ“囚人投票”で78パーセントの圧倒的な票を得た(2位「月と太陽」18パーセント、3位「ゴルフ階層に感じる爆発的な憂鬱」4パーセント)。なかなかシンプルでいいと評判だった。

 

〈囚人連〉はあらゆる面で特徴に恵まれた。

一番大事なのは、彼らはリーダーを持たず、“古典的な”上位下達の仕組みも持たず、指揮系統などという“一時代昔の遺物”も持たなかった。官僚組織的な部分は何もなかった。

アメーバ的な構造は取り込み、分裂し、切り離し、膨らむことをランダム(無作為)に繰り返していく。すべての最小単位が思考し、最大単位の思考は常に更新され続けていく。それが“集合的思考”を生み出し絶えず更新していくのだ。

 これらの考えの下には川が流れている。その川はものごとを無難に乗りこなしていくという消極的なことになんのセンチメンタリズムも持っていなかった。そういうものはけっ飛ばすべきだと考えた。ぎたぎたにして燃やしてしまうべきとも言った。なぜなら、世界=状況は常に変化している。どんな大きさで世界を区切っても—おもちゃ箱の大きさでも、ディズイーランドの大きさでも、ブラジルの大きさでも—それはその最果ての刑務所でさえも同じだった。誰がどう管理しても“変化”を封じ込めることはできなかった。それは自然の中で「変化しない=恒久」という状況が極めて異常だということを示している。だから、その川は変化に手を当てて自らも変化し続けていかなければいけない、という論理でできていた。

〈囚人連〉はすぐにある驚異的な達成に至った。アメーバのつながりを〈非公式な刑務所〉の外まで広げたのだ。その触手は静かに海を渡り山を越えた。暗闇をさまよいまさぐり続けた末にある剣呑で怜悧で過激な“やばいグループ”との連携に成功したのだ。そのグループもまた古典への郷愁とは距離を置いていた。

二つのグループが結んだその総体は、ゆるやかで伸縮自在な広がりだった。その網状のものは神がかり的な速度で、地球という球体のほとんどにまで伸びるようになる。

この二つの結びつきの力は、刑務所の支配を解きほぐすのに十分だとみなされた。すぐにコミュニケーションの端々で“囚人の解放”が命題になった。その実行には綿密な準備が図られることになる。

そして、ある日の真昼間。

どこからともなく現れた武装集団が数分で〈非公式な刑務所〉を占拠したのだ。

さあ「大脱走」の始まりだ。


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