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5章 極北から垂れた糸

21 悲しみの川

ノムラは荒野を歩いた。牛の死体を、ハゲタカがついばんでいた。ハゲタカを警戒して野犬が遠巻きに眺めている。牛の目玉が地面を滑った。蟻が神輿のように担いで、巣に運んでいくのだ。豊かな死のにおいがあたりを満たした。踏みしめる土はからからで、どんな植物も受けつけない有様だ。土もまたよごれている。

荒野を長く歩くと川に行き当たった。その水は鉛色で得体の知れぬ泡がぶくぶくとたっていた。壊れたテレビ、クルマ、バイク、マネキン、ヘルメットがゆるりゆるりと下ってくる。水面には無数のアメンボが張り付き、その上を小虫の群れが錯綜していた。そこからは鼻の奥を突き破りそうな異臭が湧き上がっていた。

団地の人は「悲しみの川」と呼んだ。もちろん、好んで川に近づくものなど誰もいない。死者の弔い方に困ったときだけ、重宝された。川につっこめば、二度と浮かんでこないからだ。

彼は川原の石を拾っては、じっくりと眺めるというのを繰り返した。そのやり方はぴりぴりとした真剣さを帯び、彼の肩のいかり具合や、ウォールストリートのトレーダーのような面構えから、コンセントレーションの高さを推し量ることができた。

彼は石が気に入ると、後生大事にちびたリュックサックのなかに入れた。ダメなら背後に放り投げた。その「作業」を一通り終えると、彼はまた煙草を吸って、煙を吐き出した。すると、彼ははっとさせるものが目に入った。対岸に釣り糸をたらす老人がいた。この川に魚などいるはずもないのに。この川におれ以外に人がいるはずなどないのに…。彼は目をこすった。老人は消えていた。

22 そして海に出る

川に沿ってだいぶ歩くと海岸に行き着いた。海岸もまた悲しい場所なのは言うまでもない。

鉛色の海。波は間断なく砂利の海岸に押し寄せた。空には〈灰〉が覆いかぶさっていた。〈灰〉はもう耐え切れないというふうに見えた。雨を降らそうとしている。岩場と砂利でできた貧相な海岸の曲線が向こうまでずっと続いている。さびしさをたっぷりとつかった波の音のエコーは鳴り止むことをしらない。

ノムラは目を凝らした。無人機が海面を滑空していた。その出で立ちは未来のイメージを喚起させた。無機質ですべてがコントロールされた未来。ルールを逸脱した者は必ず罰を受ける未来。不合理性を完全に排除する未来。顔の見えない1パーセントの支配者がその他の99パーセントを暗黙のうちに支配する未来…。

「あれは昔、パキスタンで人を殺していたやつだ。遠い海の向こうでコントロールされて、村を襲い、人を殺すんだ」―。ノムラの胸のうちにひたりひたりと恐怖が忍び寄った。無人機はおれを狙っているんじゃなかろうか。そう思うと、目に映る光景の意味合いががらっと変わってきた。その無人機にもやはり巨大な殺意のようなものが秘められているようだった。

無機質な執拗さを持って、何かを探している。遠くの海上を一通り飛んだ後は開けた海岸に近づいてきた。ノムラはとっさに岩陰に隠れた。殺されるかもしれない。無人機がいるなんてのは初めてだ。何が起こっているのか―。たぶん、それはよからぬことだ。彼の頭のなかはこんがらがってきた。

無人機は海岸を何度も何度も行き来した。そしてじわじわとノムラの隠れている岩陰に近づいてきている。無人機は網を狭めている。最後には彼を捕まえてしまうのではないか。だが、ノムラは身を張りつけている岩に小さな穴が開いているのを見つけた。それはどうやらほら穴のようだ。

そのとき雨が降り始めた。〈黒い雨〉―。

彼の体はあっという間にその雨に濡れてしまった。雨は黒く濁っている。彼はその濁りを手のひらの上に乗せて眺めた。見れば見るほど、悲惨な気分にさせられる。そのとき無人機の翼が空気を切る音が近づいてきた。無人機はもう彼を見つけたのだ。南無三―。

彼はそのほら穴に入った。

23 サックス

やっぱり暗い部屋で、床に倒れたアキにスポットライトが当たっている。アキは突然、電源が入ったおもちゃの兵隊のように立ち上がる。ピエロのように真っ赤な鼻の先には、すいか大の鼻ちょうちんがぶら下がり、彼の呼吸に合わせて大きくなったり小さくなったりを繰り返している。その顔はサメの肌のように真っ青だ。彼は手前からの視点を無視して、あさっての方向を向いたまま、わあわあしゃべり出す。

「団地の管理者は流転したのだ。それがダイナミックの手に渡るまでの道のりの長いこととときたら!」

まず現れたのはロッポンギ商事(ロッポンギ)。得体知れぬカイシャだった。住民とこのロッポンギは「42日戦争」を繰り広げた。戦争は混乱と怒りと失望の三次関数が生み出した曲線をたどり、「古い住民」を全員去らせるという結末を生んだ。それが将来の「新しい住民」の来訪のきっかけになったのだ。

「その『戦争』は役所が団地をロッポンギに売り払ったときに起きたのであーる。役所にはカネがとんとなくて、赤字をたたき出す団地をほっぽりだそうとしていた。どこからともなく、ロッポンギがやってきて、猫なで声でこんなことを言う。『お役所さん、つらいんでしょう。わかりやす。じゃあ提案させていただきやしょう。わたしたちがケツを拭きます。その代わり団地はくだせえ』。これは渡りに船。思い立ったら吉日でその日のうちに譲渡が決まっちまった」

アキはアラジンみたいに水煙草の煙をぷかあっと吐き出した。

「やつらは団地を手に入れると、設備を粛清する『コストカット』を仕掛けたのござい。夜は電気がともらないし、水道の定期点検もなくなり、団地の真ん中にあったスーパーはつぶれた。団地は荒廃の一途をたどった。もちろん住民が怒った。家賃を払わないで、団地を占拠しつづけると宣言した。それから、42日後、ロッポンギは剣呑な一団を使い、『古い住民』をやっつけた」

24 ロッポンギからダイナミックドラゴンへ

古い住民は出て行った。団地は空っぽになったそうだ。ロッポンギ商事の使った手は諸刃の剣だった。賃料が入らなくなりロッポンギ商事自身の経営もとたんに悪化。3ヵ月後には倒産の憂き目にあった。

団地はみなしごになったが、役所はしらんぷりを決め込んだ。いくつかの怪しいカイシャが団地を拾っては、顔をしかめ、投げ出した。これはどうやっても儲からない、単なる廃墟じゃないか、もうだめだ、ダイナマイトで木っ端微塵にしよう、となったとき、「白馬の王子」のように飄然とあるカイシャが現れた。

「それが、ダイナミックドラゴン興産(ダイナミック)だったのだ!」

アキはアルトサックスのアドリブソロをやる。哀感に満ちた素晴らしい演奏だった。

「ダイナミックについては、おれはまあまあ調べたんだが、もうなんとも得体がしれねえ奴らなんだ。奴らの会社の所在地に行ってみたが、なかなか面白かったよ。そこらへんは都会の一等地なんだけど、タイムスリップしたような昭和の町並みがあるんだ。木造モルタル、バラック建ての家々の軒先には、無数の植木鉢、酒屋のビール瓶ケース、猫が転がっていたんだ」

アキはサックスを放り投げた。サックスは暗闇が吸い込んだ。

「でも、一番覚えているのが、道路のど真ん中でたこを揚げている少年のことだ。まだ小学生の低学年くらいで、泥で汚れた白いランニングシャツと茶色の半ズボンを着て、ヒーロー戦隊がプリントされたズックを裸足ではいていた。彼の横には弟くらいの年頃の男の子がいて、しゃがんで、プラスチック製の虫かごのなかをじっと眺めていた。虫かごのなかでは、カナブン3匹が飛びまわっては壁にぶつかるという愚挙をしきりに繰り返していた。『ねえ、ねえ、カナブン死んじゃうよ、カナブン死んじゃうよ』とその子はたこ揚げ少年のランニングを引っ張って悲しそうにそう言ったんだ。

そのころには夕暮れがやってきていた。その日の夕暮れは今世紀最高と呼びたくなるほど美しかった。トマトの実をぶちまけたふうに真っ赤だった。突然、たこ揚げ少年は『カナブンなんか、死んじゃえ』と虫かご少年の顔も見ないで怒鳴った。何の前触れもなく、それは起きた。それからたこ揚げの少年は疾走し、もうやってきている夜のなかに消えていった。すると、虫かご少年はぶわっと泣いちゃった」

アキはまたサックスを吹き始めた。

25 昭和の街での取るに足らないできごと

「ダイナミックドラゴン興産の所在地自体は空き地なんだ。有刺鉄線に囲まれた赤茶けた土の上には、さびだらけの土管が直立していた。土管はいのししが中を通れそうなほどの太さだ。人間なんてらくらくと通る。中指の第二関節で叩くと、こおんという心地よい冷えた音が鳴り、筒のなかで響いた。土管のそでに据え置かれた梯子を使って、その中をのぞくとそこは深遠なる闇が支配していた。その闇からはわずかに空気が噴き上がっている。空気がおれの頬にあたった。それはひんやりとしていた。おれは今度は空を見上げた。いつのまにか夜がやってきていた。星は、そこが東京だって思えないほどたくさん見えた。おれはその夜空のベールと、土管の中の闇を何度も何度も見比べているうちに、区別が全然つかなくなった」

アキはドーナツをほうばり、にんまりとした。

「土地そのものはセブンイレブンひとつ分くらいの広さにすぎなかった。ずっと眺めていると、幼いころの失敗の記憶がぶり返してきそうな、そういうわびしさが漂っていた。それはどことなく『思い出のなか』にある風景みたいだったんだ。

結局のところ、おれはダイナミックの従業員、経営者はおろか、それを少しでも知る人物にすら出会うことができなかった。おれはダイナミックの影を踏むことすらできなかったんだ。

ダイナミックが持ち主になると、団地に変化が訪れた。それは『新しい住民』の到来のことだよ。それはある年の春から夏にかけて起きた。『新しい住民』はほとんどがどこかを追われてきた人間だ。この世界から居場所がなくなっちゃって、『半世界』の団地に引っ越して、もう一回やり直そう、そういうスジなんだ」

アキはこの「新しい住民」はひとつの神話体系、思想、文化を作り始めたと考えている。居場所なき人たちが、その忘れられた土地を「母なる地」へと変える魔法をつかったのだ。

「彼らは団地に住み着くと、自分たちをめぐるあらゆるできごとを理解し、説明できるようになることが必要になった。そのために、彼らは口伝えの神話をはぐくんだのだ。自分自身で独自の思想的体系を作り、自分たちの文化を作り、自分たちをめぐる神話を作りだしたのではなかろうか」

彼は高らかに自分の説をうたい上げた後、得意げに両手を掲げた。

すると彼の体が宙にふわふわと浮き、やがて私たちの視線のはるか情報へとフェイドアウトした。

26 石を売っていたふしがある 

ノムラもまたそういう思想、神話、文化の影響の下にあったのではないか。どうやら彼が石を売っていたふしがあるからだ。その石は、ダイヤモンドとかルビーとかではないし、工業で使われる貴金類とかでもないし、もちろん墓石でもない。いかなる付加価値からも自由な、くずの単なる石ころだった。

彼は「悲しみの川」と近くの寂れた海岸に転がっている石を、自分のなかにある完全に言語化不可能な感覚でジャッジして、値段をつけて売っていた。店は団地の片隅の壊れた倉庫の一角にビニールシートをしいて、石をずらっと並べた。彼は店にいるときはほとんど居眠りしているのだが、たまに思い出したように目を覚ますと「石はいらんかねえー、いい石があるようー、とっておきの石だよう石はいらんかねえー」と客引きの文句をしゃべり出した。それは、倉庫にたむろしてシンナーを吸っている10代の不良グループをびっくりさせた。

彼は1日の半分を石探しにあて、半分を石を売るために使った。石はそう頻繁に売れるというものじゃない。1ヶ月ひとりふらりと客が来て、思いついたように石を買う。それくらいのもんだ。

石売りの仕事はそれで終わらない。実は売った後からが彼の仕事の本質的部分になるのだ。彼は買った人間に石を抱きしめたまま床に横たわらせる。そして、オーストラリア製のサラダ油をちょっと石にかける。そこから呪文らしきものを唱えて、ゆっくりと客のなかにある「まがまがしきもの」を石のなかに移させる。その後、彼は客と連れ立って海岸に行き、岩陰に隠されたぼろっちい帆船に乗って沖に出るのだ。客は石を海底に向けて落とす。じゃぼん、とちょっと間抜けな音とともに石は海を知り、その深みを目指していく。これで客は変わる、という。それがどうかわれるかは客によって異なると、ノムラはいう。

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