1章 ぼくの心はどこにある?
「その亀は逆さまのまま横たわっていた。その腹は灼熱の太陽で焼け、砂に足を打ちつけて、自分でひっくり返ろうとしている。でも、できない。あなたの助けなしではね。でも、あなたは助けないんだ」(映画「ブレードランナー」。ヴォイト・カンプ・テストのシーン)
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さて、ぼくは会社からの帰り道にいたのさ。 インターネット革命で効率性をぐんと向上させながら、さらに労働時間を増やしつつある、愚かしき人間にとってささやかな楽しみである、余暇の時間だった。ぼくはアイフォンで椎名林檎の「病床パブリック」を聞いていた。「あの頃の椎名林檎は良かったなあ。最近はどうなってやがるんだ、バーロー」と得意の独り言を、アイルランドの野っ原のように悲劇的な、永福町の野っ原に吐きかけた。
その日は何かが違った。いや何もかもが違った。
ぼくの眼球は、京王線の中でぐうぐう寝ている間に、くず餅と取り替えられていたじゃないか、という状態だ。何もかもが、アダルトビデオの修正部分を意識させられるほどにぼんやりとして見えた。まるでゴーグルを付けないで海に潜ったようだ。
海。そうだ、海だ。それから彼の思考は海へとズーンと沈んでいった。
彼は海の中を潜っている。その海は暗くて、視界が殆どない。彼のかかとを誰かが叩いた。自分を囲んでいるものたちのことを、ぼくは本当になーんにも知らないんだ、と彼は考えた。海の中が暗くなると何も見えないし、耳にはごおおおという音ばかりじゃないか。紛れ込んだ海水から、塩からさを感じる。それからぼくは重力に支配されている。ぼくはたぶん、どんどん下方に引き寄せられているんだ。
だんだんその海にすら彼は関心を示さなくなる。というか、海とほとんど一緒になってしまう。境界線は崩壊している。こうなってしまうと、古い世界のなかで境界線が設定されていたことにすら、違和感を感じる。
「境界線」はわれわれの妄想じゃないか?
たぶんそうなんだ。でも、ぼくらは自分の所属する環境に悲劇的なまでにとらわれてしまうのだ。そしてその環境についてうまく理解することができないんだ。
そこで、女の子が話しかけてくる。
「あなたは生き残ったのね」
それは声だけだ。存在のようなものを見ることも触ることもできない女の子だ。幼いけど凛としていて、それでいて、なんというか柔らかくてなめらかな感触を持っている声だった。
「あなたの他に誰が生き残ったの?」
「ごめん、きみが言っていることの意味がよくわからないんだけど」
「あなたは生き残ったの」
「うん、ぼくは生き残った」
「でも、他に誰が生き残ったかはわたしはわからないわ。あなたなら知っていると思ったの」
「ぼくは知らない。きみが何についてはなしているのかもさっぱりわからないんだ」
「記憶を失っているのね」
「なに?」
「あなたはまだ眠っているようなものなのよ」
そこでその声は離脱した。するとぼくから海が去っていった。自由落下の感覚にとらわれた。胃が持ち上がるのが、感じられる。ぼくは感じる。「ぼくは誰なんだ?」と。もちろん誰も答えてはくれない。
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目を覚ました。あいも変わらず、永福町の住宅街のなかにいた。水銀灯が不満ありげにじいいじいい音を立てていて、中華料理屋の出前がぼくの横をすっと通ると、いい匂いがした。空には東京から見える濁った三日月が浮かんでいた。月は何かを語りかけようとしている、のだろうか。
どうしてだろう、とぼくは得意の独り言を繰り出した。どうしてだろう、なんか変だ、この夜ってえやつは。彼はインターネットで買った、写真と全然違うコットンシャツのボタンを緩めると、ぼくの平べったくも生白い胸の肌が露出した。少しだけ風が紛れ込んで、少しだけ涼をとることができた。
確かに酒はたくさん飲んだが、ぼくはそう簡単に泥酔しないたちだ。飲めば飲むほど強くなるタイプだ。足元がおぼつかなくなっているわけじゃない。この前の4月に30歳になったけど、体力はジャッキー・チェンばりに維持しているつもりだ。なにしろジムではおっさんおばさん連中とパンプアップやらなんやらやっているんだ。
彼の右手にはペリエの瓶があった。ぼくはそれを一気に飲んだ。鶏のそれを連想させる喉仏が上下にうごいた。少し頭がクリアになった気もする。
だけど、そうじゃなかった。
それからぼくはその瓶を落としてしまうことになる。ものすごく驚くべきことがあったからだ。
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でも、その前にまず、永福町の帰り道にたどり着くまでにしたことを振り返る必要がある。たぶん。それは決定的じゃないけど、まあまあ必要なことだ。
その日、昼は気温26度と過ごしやすい陽気で、少しばかりの雲が訳知り顔のフレンチシェフが好みそうな感じで、青い空にまぶしてあった。
ぼくは高校生のころに憧れていた、ナイスバディのイタリア人と日本人のハーフの川上皐月(かわかみ・さつき)さんのことを思い出した。彼女の顔は悲しさと嬉しさを、陰と陽な感じ混ざり合い、しかし、笑顔はイーロン・マスクのスペースXのロケットがエウロパに到達する可能性を51%ひきあげるほどの威力を持っていた。超かわいいわけである。
ただし、ぼくは高校時代を通して、帰宅部で女の群れの中から大馬身、突き抜けた感じの酒田アミという女と付き合っていた。アミと放課後遊ぶと、帰宅が2日後になるというほどクレイジーな女で、その感じが、高校社会の柵の外にあるジャングルで、熊との遭遇リスクをマネジメントしながら生息していた、ぼくとマッチした。二人は離れがたい感じだったけど、彼女は高校を卒業すると、シンガポールのナイスな大学に行ってしまった。彼女はアインシュタインの3分の1程度の高機能な脳みそを保持していたことが、調べでわかったわけだ。
そんなアミと付き合いながら、ぼくはなんだろう、学園ドラマの王道たる、川上皐月さんとねんごろになることを夢見ていた。彼は川上皐月さんのことを考えながら、男子トイレのひびの入った鏡を眺めてみる。「なんて、こいつは斜に構えているんだ。どの角度から見ても、皮肉が溢れ出んばかりじゃないか。友達になりたくないランク2位には達するだろう。1位には最強のガリ勉野郎の足立未来生がいるからいいとして……」。
ぼくはこんな甘酸っぱい劣等感のことを思い出して、そんときの自分の感情の持ちようを死ぬほど苔にしてみたのだ。どうしてぼくが他人と自分を比べなくちゃいけないんだ。自分が手に入れられなかったもののことを、いつまでも愛おしく思わなければいけないんだ。こうしている間にも地球はぐんぐん回っている。中東ではイスラム国が暴れてる。難民たちがドイツに向かう。中国では軍事パレード。香港の重慶マンションの両替商は今日もコンマ数ドル単位でしのぎを削っている。アメリカではドナルド・トランプ伯爵の人気がうなぎのぼりだってに。
そんなセンチメンタルさをぼくの上司、有栖川・マクドナルド・誠がぶっこわした。
有栖川とのバイ会談は、誰もいない会議室で行われた。個室だ。「有栖川は個室のなかではとんでもないことをする」というのが、麗しきコンサルティング会社「マディソン・アベニュー・ペンタゴン・ホワイトハウス・アカサカ」の鉄則だった。おどし、すかし、なだめ、それからまたおどし、とさまざまな暴力的ソリューションに長けている人材が溢れている。
有栖川は30代後半のデイビッド・リンチのような髪型と、上等なイタリア製スーツに身を包んだ、上の顔色伺うだけでそこそこの出世を遂げている、よくいる馬鹿野郎だった。男のくせになぜか、バージニアスリムを吸って、それについて質問されると、これみよがしにウンチクをやりはじめる(あまりにつまらないので忘れてしまったが)。いつもアイフォンで若作りのつもりのハドソン・モホークを聴きながら、探偵みたいなスカした表情で口笛を吹いている。ムカつくやつを輩出し続けることで知られる有名男子校出で、その男子校のやつが面接に来た途端採用し、自分の部下にすえ、ポチにする。ポチは転職に抵触しない程度の2年ほど、ご主人様のポイントを外した命令に従い、方々で炎上し、怒りに打ち震えて、赤提灯で「ばかばかばかばか有栖川ー!」と叫んで、やめる。やめた途端、そいつらは、その苦労を見出され、もっとナイスな企業に転職するのだ。
しかも、有栖川は部下をわざと炎上させておいて、そこにホワイトナイト風で現れ、すこ~しだけ仕事をして、「おれっちまた火中の栗拾っちまったさ」とアピールして、デキる人と勘違いされている。人事考課はいつだって間違いばかりだ。人事部なんか来週おれがプルトニウム爆弾でふっとばしてやるぜ、とぼくは思っていた。
「はーい、ぼくくん。どうなの。ぼくぅーはノッているの? 先週末は『チック・チック・チック(!!!)』のライブで、恵比寿リキッドルームでオールナイトしたんでしょう。なんか、キャミソール3連星をナンパしたんでしょう。聞いたよ、うえっへっへ。で、どうだったの? やったの? やったんでしょう、白状なさいよ!」
「いやあ、そんなカップラーメンみたいには行きませんよ。今度土曜にデートです。そこで決めたいと思っているんですけど」
「ぎゃっはっはっは。いいね、いいね。若いって。今度、ぼくも連れてってね。なんかギョーカイ絡みの女とかもうやなのよ。食品添加物もりもり、みたいな感じじゃん。ぜんぶ同じよ」
彼はそういうとビッグマックをもりもり食い始めた。コカコーラは2本ある。そのうちの一本は瞬殺した。この男がいつもちゃかちゃかしているのは、マクドナルドのヘビーユーザーであるからだろうか。
「それでねー。アーリーアダプターなぼくくんにまた素晴らしい仕事とって来ちゃった。感謝してよねー」。有栖川は無類の女好きだが、なぜか、しゃべり方やふるまいは、おネエ系だった。
「この会社がもっと伸びるために、バリュアブルな人間とアンバリュアブルな人間を見極めてほしいのよね。それでアンバリアブルな人間には、この会社を去るように、お願いしたいのよねー」
有栖川はビックマックを始末した。
「この会社はダウンサイジングを必要としているのよ。それで、ガチムチになったら、今度はもっと面白い人とかいれて、プロテインで作ったがちがちの筋肉で固めるのよ。最強のガチムチ企業の出来上がり、ぼくらは出世して給料も、ぐんぐんになるのよー! いいアイデアでしょ」
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それで、ぼくは頭痛がしてきた。実家にいたころに繰り広げた、兄を追いだそうと試行錯誤する弟による嫌がらせ、の数倍しんどいことになりそうだ。絶体絶命の大ピンチ。
まさか首切りの特攻隊長役とは最悪じゃないか。だって大学時代はロン毛でカオティック・ノイズバンドのギタリストだったわけだし、今までも何もかもが適当で、山場を乗り越えた後は、崩壊するジェンガみたいな仕事ぶりを繰り返して、ごまかしごまかしやってきた。「口八丁、手は二丁」な感じで本当にダメな奴だったんだぼくはねえ。
「なんならぼくが、そのアンバリュアブル(価値の無い)人間の第1号にでもなってやろうじゃない。社長のデスクの上に乗って、ビヨン・ボルグの格好でもして、テイラー・スウィフトでも唄って、涙の卒業式でも開催するんだ。卒業式にはデイビッド・ボウイを呼んで、「Changes」(1972年)をやってもらう。『時はぼくを変えていくかもしれない。だけど、ぼくは時間をさかのぼることはできないんだ』って絶叫してやる。そうだ、彼の親友のイギーポップも呼ぼうかな」
これらはすべて自分の胸の内で繰り広げるよう心がけていたのだが、実際には、必殺技の独り言として、目の前のデスクにいる、ふっくらした、しっかりもののハツミさんに丸聞こえなのだ。
「ぼくくん、どうしたの? ついに頭がいかれちゃったの?」
ぼくはきょとんとした。それから眉間によったシワを指でなでつけた。
「ああ、どうもそのようだな」
「いい精神科医教えて上げるわ。頭のイカレた芸能人とテレビ業界人が御用達の六本木のお医者さん。そのお医者さんも、どうもイカれているってうわさんなのよね」
「されサイコー。もう行くしかないって感じー」
ぼくはそう吐き捨てながら、アイフォンを取り出して椎名林檎の「病床パブリック」を聴いて、ブラジルの柔術家をイメージしながら踊った。ベンジーいい声しているぜ。でも、この「病床パブリック」ってタイトル、どんな意味だよ。説明してくれよ、りんごさん?
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もうネガティブな気分は払底できそうになかった。例の六本木の精神科医もいい気もするが、とにかく子供の時から、病院の匂いや静けさが嫌いだった。あそこは偽物の空間に違いない。奥の方には、冥王星の裏側にこっそり繋がる穴があるに違いないな。
ぼくは電話をじゃんじゃんかけて、切って切って斬りまくると、夕方には「打ち合わせを兼ねた会食」と称して、銀色のネクタイをつけて、引き締まった顔立ちでオフィスを後にして、大嫌いな渋谷シティーを脱出した。
その日は仕事なんかと関係ない人と酒を飲みたかった。28歳位から、どうも何かが崩壊して、プライベートは酒ばっかりだ。ジムで体を鍛えているけど、そのあとは必ず、結婚しそびれた寂しいおっさん、おばさんとかと飲みに行っている。何をするにも酒がついてきて、飲んでない時のほうが不健康な気がする始末だ。
そのときはまだ体はヘタっていなかったけど、どうも心が潤いを失っている、と感じていた。たぶん、僕は自分に正直にならないといけないんだ、と彼は京王線のなかから見える、人間どもがつくった街たちを眺めながら、そう思った。
向かったのは「ミラクルクリスマス」という場末の酒場だった。夜ごと得体の知れない人間どもで賑わった。この種の人間はこの街に驚くほどたくさんいて、「普通の人」の目には見えない糸でつながっていた。顔見知りだったり、知らなくても妙な周波数で交信していとも簡単に打ち解けたりする。「においをかげば、そいつが同類かどうかが分かるんだ」ともう10年近く通う職業不定のサカタ爺は言う。
その店はもうとびきりの変な店だったが、最も変な所は、正方形の店の真ん中にトナカイがいることだ。トナカイはそこで暮らしていた。3年前までは首輪でつながれていたが、彼に逃げる意志がないことが分かると首輪が外れた。だが、彼は自分の役割を理解しているのか、中心部に居座り続け、客の好奇心だらけの視線を、生来の鈍感さで受け流していた。
彼は酒場が開く6時ごろに目を覚まし、店が閉まる朝方5時ごろに眠る。窓のない、密閉された、煙草の匂いが染みついた店のなかで、彼は長らく太陽の光を見ていない。その顔は夜型人間の目そのものだ。まぶたは重たそうに覆い被さり、瞳はとろーんと濁っている。頬の肉はゆるみ、今にも崩壊しそうだ。
しかも、トナカイはぶくぶくに太っていた。そのお世辞にも広いとは言えないバーの中にずっといるせいで運動不足なのだ。だが、主たる原因はバーの客たちが上げる食べ物だ。客はよくビーフジャーキーやカシューナッツを頼んで、まるまる彼にあげた。常連客は近くの中華料理屋から出前を取って、焼き餃子をあげた。トナカイはそれをぺろりと平らげる。彼は何回でもおかわりがきいた。
それから、店の傍らにあるテーブルには、多摩川から拾ってきた石がごろっと転がっている。これらは、客に販売されていた。値段は店員と交渉することになるが、もちろんそこには、アダム・スミスの「神の手」なんてのは存在しないわけであり、ブラックボックスのなかですべてが決められる方式なので、そこから何が飛び出てくるのかは皆目検討がつかないんだ。
あるドナルド・トランプとロバート・サカザキと同じ思考回路を持ち合わせた、鋭いシナプスの持ち主である不動産富豪の豊臣次郎さんは、その石になんと200万円払った。八百屋をコンビニに替えた末に八百屋に戻した徳川夢路さんは300円で購入した。金と交換できるということは、そこに価値があるということだ。
まあ、それはもうどうでもよくて、あと、読書家のマスターも欠かせないファクターなのである。その愛しさと切なさと心強さを感じているふうではない、男はいつもカウンターのなかにイタリア製の椅子を置いて、そこで分厚いハードカバーの本を、一心不乱に読んでいた。よく見ていると分かるが、マスターの読書のペースはものすごく速かった。見開きの2ページを読み終えるのに20秒かからない。ずんずんとページを手繰っていく。マスターは牛乳瓶のような眼鏡をかけ、白髪、いつも両切り煙草をくわえていて、文豪さながらだった。
だが、仕事をそっちのけにしていたかというと、そういうわけではない。まったく外界のことなど聞いてないという感じなのだが、一度誰かが注文をすると、香港の屋台で麺を作られるがごとき速度で、酒や簡単な食べ物を作った。ただマスターには1点だけNGがあった。彼は読書の時間を優先するあまり、客にカクテルの注文を「禁じていた」。彼には酒を混ぜ合わせる作業があまりにもまどろっこしいらしい。カクテルを注文すれば、それはすべてウイスキーの水割りになって返ってきた。「返品は受けつけないよ」と彼は言う。
Thumbnail Photo via Approaching Justice / Photos in text by Pixabay
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