やさしさで返してあげれば
「怒る」っていうのはさ。
「怒りの感情表現」なんだよ。
怒りの感情表現は、なにも怒るってだけじゃないんだけど、まぁわかりやすいよね。(あ、この人、怒りの感情が今あるんだなぁ)ってことがさ。その表現方法は人それぞれ、その時々だから、間違っていることも多々あるんだろうけど、それはそれなんだ。大切なのは「怒りの感情」がそこにあるんだなってことだけ。
相手の怒りを受けとめなくてもいいんだよ。それはそっとやさしさで返してあげればいいんだよ。
何に怒りを覚えたんだろう?って想像してみたら?
怖かったのかな?
驚いたのかな?
哀しかったのかな?
さみしかったのかな?
怒りの感情がふつふつと湧いてきてしまって、それをどう表現したらいいのかなんて、自分が知ってる方法でしかできないことなんだ。どうしたらいいのかなんてわからないんだよ。感情を持つことは人として当然のことだし、感情を表現することも人として当然あたえられるべき権利だろう?時にはそれを教わらずに成長してしまった人もいるんだ。感情すら押し殺さなければそこで生き抜けなかった人もいるんだ。そんな人は、どこにでもたくさんいるんだ。押し殺し過ぎてとうとう自分の感情なんてあるかどうかさえ分からなくなる人だっているんだ。間違った感情表現が、間違っているなんて知ることもなくて、そのままでいる人だって。
でも、もう一度言うけど。
「怒り」という感情はあっていいものだし、その感情を表現する自由は誰にでも与えられていなくては、穏やかに暮らしていける社会とは言えないだろう?
「怒りを覚えて当然だ。」というのはその人の理屈でしかないけれど、その理屈を否定していい理由もないんだ。「あなたが怒りを覚えて当然だと考えるのはわかる。でも、その怒りをぶつける方法は、私たちを傷つけ、あなたも傷つける。良い方法ではないね」ということは伝えたいものだね。ぶつけないでいい方法もあるんだってことも知っていけるといいよね。
「怒り」っていう感情はね。感情の中でもっとも強くて大きいエネルギーなんだ。静かな怒りを感じたことはない?蓄積していく怒りだよ。それがある日大きな原動力になるときがある。その怒りが無ければ始めなかったであろうこと、考えもしなかったであろうこと、そんな出来事がある。怒りはエネルギー源になるんだ。起爆剤でもある。でも、それだけに取り扱い注意なんだなってことはわかるね。どんな正義であっても怒りの感情は、「破壊」していくものでもあるから。どんな理由であれ、破壊は持っている自分にも影響を与えるものだからさ。ほら社会活動家はよく病気をするだろう。怒りが大きすぎて、自分でも支えきれなくなっていくのかもしれないね。車だったファーストだけで走り続けていたらエンジンが灼けてしまうだろう?あ、今はオートマチックばかりでピンと来ないか。自転車だって、ずっとこいでばかりでは疲れるだろう?力を入れて漕いで、そのあとの余力で進んで行ったり、坂道を利用したりするだろう?そんなものさ。
怒りの行動に隠れている感情を見ようとしてごらん。
そのさらに奥に隠れた思いも見ようとするなら、きっとその人のそばにもっと近づいていきたいと思っている証拠だね。でも無理にこじあけてはいけないよ。ふれてほしくないかもしれないから。でも、知りたいんだという気持ちは伝わるといいね。いつか、長くかかっていても、伝わるといいね。ある日ふと気づいてくれるといいね。それは、やさしさなんだと思っているよ。
忘れることも、思い続けることも、どちらもやさしさになる。
やさしさにならなかったこともあるかもしれない。やさしくなかったな…って思えたら、それもやさしさなんじゃないかな。
やさしさって、変幻自在だなぁ。
やさしさの隣に居続けようってすることがいちばんらくだよ、きっと。
生きやすいよ。
やさしくしよう、やさしくしなきゃって思っていたらちょっときついもん。やさしさはこうあるべき、これはやさしさだなんて答えを持っていたら、それは他のだれかにとてはやさしさじゃないことのほうが多いもん。
いいんじゃない?
隣に居るくらいで、さ。
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