分かち合う未来が待っています
いきなり物騒な話題なのですが、、、
はじめに
特定の国の方を中傷する表現が出てきます。私に投げつけられた言葉ですが、あきらかに差別的、侮蔑的に用いられました。そのままの言い方でここで表現することを先にお詫びします。赦しの心はあれど、そのことへの深い哀しみと決して許してはいけない怒りを、私も分かち合います。
人権侵害に遭遇しました
事の顛末は近所のちいさな商店内の出来事です。
わたしたちはマスクをしません。
「必要がない」ことを充分理解しているからです。むしろわたしたちの健康にとって害にほからなず、「不要である」ことを深く理解しているからです。
「必要なとき」に応じてマスクをします。
私の場合は、化学物質過敏症(香害)がありますから、過剰な消毒臭(化学的な臭い)と、不快な体臭や口臭を感知したときはただちにマスクを着用するか、距離を取ります。もちろん化繊のマスクは発作を起こすため着用ができませんので、マスク着用が必要な時使うのは手作りの布マスク(布の質にも配慮)です。
それを除くと、職場環境で説明を省いてよい程度の短時間の着用であれば業務の一環と割り切って着用します。(布マスクです。)例えば作業エリアを出てお客様が通るエリアを横切るときや、出退勤のチェック時のときだけです。
店内の「マスク着用をお願いします」の意味もよく理解しています。
「日本語がわからないの?おまえ、中国人だろう!」と罵倒された
一緒にいた娘は、「憐れんでいいのか、哀しんでよいのかわからない。」と」ショックを受けたようです。
私は、憐れみでもなく、哀しいでもなく、ましてや怒りでさえもありませんでした。
でも、心は、私の深いところの魂は、なにを伝えればいいのかを深く理解していたようです。
考えをまとめることもなく、私は不思議なほどに言うべき言葉が口をついで出たのでした。そして受け止めなくよい中傷は無視しておく態度を取っていました。
その方は、言いました。
「マスク着用をお願いしますって書いてあるのが読めないの?」
「読めないんだろう。おまえ、中国人だろう」
「中国に帰れ!」
思い返してみると、そのかたが言っていたのは、そのみっつだけです。
伝えるべきことは言葉に、答えなくてよいことは無言で示す
私が伝えるべきことはひとつだけでした。
「マスクができない人もいるのだと、わかりませんか?」
(「マスク着用お願いします」の意味がわかっていますか。」も言いましたね。)
「日本語が読めないんだろう」という言葉にも、「中国人なんだろう」という言葉にも、私は反応を示しませんでした。その言葉を背中の遠くへ流しながら、店員さんに声をかけました。
「ご迷惑をおかけして、すみません」。
店員さんはニッコリを笑顔で返してくれました。
その前に、その店員さんは、私が難癖をつけられている様子をみて、穏やかで懸命な行動を取りました。私をすぐに隣のレジへ案内し、素早く会計を済ませてくれたのです。もちろん通常通りの笑顔の対応です。
店内に、他にもお客さんはいましたが、誰一人、わたしたちを攻撃するかたの肩を持つ態度を取る人はいませんでした。そのことに感謝します。逆に、わたしたちに味方をして守ろうとするかたもいませんでしたが、それでよいのです。ここでは不要なのです。
なぜなら。
わたしたちに味方をするということは、相手のかたの敵になるということです。相手のかたの「間違いを指摘する」ことになるからです。
わたしたちはよく理解しています。
これは戦争と同じ事態なのです。
誰もが自分の行いを正義だと思っているのです。そのために争いを起こそうとする心の無い囁きに魅惑され、みずからを貶めてしまうのです。
語る必要のないことは、語らなくてよいのです。
受け止める必要のないことは、受け止めなくていいのです。
憐れみでもない
哀しみでもない
怒りでもない
そんなわたしがとるべきことは「毅然とした態度」で居ることでした。
それは、ちっぽけな私の考えではきっとありません。
だって不思議なほどに、考えるまでもなく、私は口は勝手に動き、私は態度が決まっていました。きっと「そのようにあれ」と導いてくれた存在がいたに違いないと確信するほどです。
そう思った途端、そう腑に落ちた瞬間に、私が怖れを抱く必要なんて微塵も無いのだということも理解できました。
「警察をよぶよ!」そのかたはスマホを取り出す行動をおおげさに私に見せつけながら何度も言いました。
「どうぞ、構いません。困るのは貴女のほうです。」
次にレジに並んでいるわたしをのぞきこむようにしてスマホをかざした後はこうも言いました。
「写真を撮ったわよ。警察に言うから」
「どうぞ、構いません。訴えられるのは貴女のほうです。」
「訴えられるものならやってみなさいよ、この日本で。この中国人が!捕まるわよ、がんばってね」
「貴女もがんばってください」
もう私と店員さんは顔を合わせて微笑むしかありませんでした。
もしも警察が来たならば、その画像は即刻削除するように彼女に言い渡すことでしょう。
彼女は初め、わたしたちが店に入店してすぐに娘を呼び止めた様子でした。しばらく娘は対応していました。どうやらアレルギーがあってマスクはできないこと、どうしても貴女が不快だというのなら自分のマスクをすることを伝えていたところでした。
「なにかありましたか?」と私が間にはいると、マスクをなぜしないのかと問い詰める口調でしたので、私は「あなたは、なぜマスクをしているのですか?」とオウム返しをしたのでした。
すると答えは「店に書いてあるでしょう?」という返事でしたので、これはマスクをする根拠を問いたいわけでも、本当にマスクを着用しない理由を知りたいわけでもないのだと理解できましたので、「マスクをする必要がないからです。失礼します。」とだけ言って、娘たちとともにその場を立ち去りました。
娘がやや動転していましたので、娘たちは先に店先に出ておくように伝えてから、私が目的の商品を選んだあと、レジに並んでいました。
女性は、その時、わざわざ私のそばにやってくるというストーカー行為も行いました。もし彼女が私の画像を世間に拡散したり、住所を特定するようなことがあれば、ストーカー規制法にのっとる手段はいくらでもあるでしょう。
自身をおとしめるようなことを動機とした行いをしてはいけません。
わたしより年配のかたでしたが、いささかたしなめなければならないとわたしのエゴは少々、わたしの頭をもたげようとしました。
でも、そのような思考が私の頭をよぎったのも、次の瞬間に、私が怖れを抱く必要な微塵も無いのだということを理解するためのプロセスだったに過ぎません。そう腑に落ちると、私は深く「愛されている」と実感したのでした。
誰に?神様に?わかりません。わたしは特定の宗教に帰依していません。きっとそれはいうなれば ”存在” のことです。
I am.
私の存在をすべて許す存在のことです、きっと。そんな表現しか思い当たりません。
I am and You are.
私が許したから、あなたがそこに居るわけじゃない
あなた許したから、私がここに居るわけじゃない
私が居る。あなたが居る。
私が在る。あなたが在る。
それが、すべて。
それを「愛」とよぶならば、わたしたちの未来は輝いて開かれている
先々には暗闇しか待っていないような、暗雲だけが立ち込めているような世情を感じる日々です。でも、わたしはその瞬間に、「まだ希望はある。その方法はある」と感じました。
「マスク着用やワクチン接種をすることで、自分が犠牲となって、それらができない人々を守ることができる」と決意されたかたもいらっしゃるでしょう。
そのなかには「するべきでなかった」と自己犠牲精神に殉じたことを悔やんだかたもいるかもしれません。
でも、わたしはその気持ちに感謝しています。
正直に言えば、マスク着用の弊害となんであれ過去においても現在においてもワクチン接種の弊害について充分に知識を深めてきた私自身のエゴは、「気の毒に」と思ってしまうことは否定しません。
それでも。
立場が違っているのは、ただの偶然が重なった結果に過ぎないのです。
わたしにふりかかる人生のあらゆる出来事の、ほんの一件が、ちょっとでも現実と異なった結果に至っていたのなら、わたしもきっと…。
皆、同じなのです。
どこにも、人間としての差なんてありはしないんです。
わたしたちは、選んだ行動が違っていても、助け合うことができます。
もし「マスクを着用していない」ことで不利益を被る人たちがいたら、不利益が露見したその瞬間から、回復するための手助けを出し合う智恵を、立場の違うわたしたちはそれぞれに持ち合うことができます。
もし「マスクを着用した弊害だ」と気づく結末が起こったとしても、それは結末ではなく、そこからの回復の道が待っていることを伝えることができる人々は必ずいます。
もし「ワクチンを打たなかったことで受けた、社会で生きる障害」を抱えたとしても、その構造的に植え付けられた社会的障害を取り除こうと、その権利を取り戻すことの重要性を深く知っている人はたくさんいます。
もし「ワクチンを打ったことで受けた、人間らしく生きる保障」をうしなったとしても、どうしたら人間の尊厳をまもって暮らしていけるかを考え、選択肢をつくろうとする人はかならずいます。
立場が違うからこそ、選んだ道が極端に違うからこそ、互いの「ある・なし」のどちらにも、わたしたちは備える準備が整いました。
それ以外のなにがありますか。
争うために生きていたいと思う人がいますでしょうか。
いがみ合うために、主張したい人がいますでしょうか。
人は間違えます。
それでいいんですよ。
人は、愚かです。
だから、人々が集まって、社会になるのかもしれません。
人は
愛おしく、幼く、他愛のない生き物です。
だから、きっと恋人を欲しがったりするのでしょうね。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
私は、この出来事を用意してくれた彼女の存在にも深く感謝しています。
だって、こんなに。安心と気づきの喜びに満ち溢れた今があるのですから。
憎まれ役をありがとう。それって、いつかの人生の恩返しかしら。それとも生まれるまえに約束したわたしからのお願いかしら。
深く沈んだ私の心を救ってくれた。
貴女に、感謝します。
読んでくれたかたにも、本当にありがとう。
きっとわたしたちは、信じあえます。
ー人間不信に囚われ続けていた私より、愛をこめて
ここまでお読みくださりありがとうございます! 心に響くなにかをお伝えできていたら、うれしいです。 フォロー&サポートも是非。お待ちしています。