「やりたいこと」は削れない方だ・YES
① やりたいこと
② やるべきこと
③ 生活上必要なこと
このバランスをどうとる?
そう、それって結構な重要課題だ。
「やりたいこと」は削れない
私は「やりたいこと」を削れない方だ。今では。
「やりたいこと」を優先して、「今、やるべきこと」は後回しにしがちだ、と周りの目からはそう見えているかもしれないと思う。
例えばこんな具合だ。
エピソード1
明日も仕事だよー。早く、寝ないとだよー。
(でも)
今!この本を!読みたいの‼
(となったら)
迷わず、読み始める
(で)
満足する
寝る
(翌朝は…)
多くは、翌朝のことを心配するのだと思う。
夜更かしをすると、翌朝は起きれないかもしれないぞ
(予想する)
寝坊するわけにはいかないぞ
(だから)
早く眠らないといけないぞ
(だから)
本を読むことは、してはいけない
だめだよ
(すべきことを優先するように結論づける)
でも、きっと心の中は葛藤している。こんな風に。
本を読むなんて、あとからでもいいじゃないか
ーでも、今!読みたいんだよ
いつだってできるじゃないか、そんなことは
それより明日、寝坊しないことのほうが重要だろ?
ー寝坊したらダメなの?
ダメに決まってるじゃないか!
朝ごはんを食べずに行くつもりか?そんなのダメだろ?
ー朝ごはんは食べたいけど…
お弁当だって作ってる時間が無くなるぞ?
ーそれは困るけど…
洗濯物だってしてる時間がなくなっちゃう
ーそれもそうだけど…
だから、ダメだってことだろ?さ、忘れろ、忘れろ。寝ろ!
さぁ、ここで。
ーでも、さぁ…いいんじゃん?
と、思うのが、今の私です。
「やりたいこと」は削らない
これは私の信条なのですが、
「やりたいこと」を最優先すると、いいことが起こります。
さきほどの「夜更かししてでも本を読んだ」場合。
私は、翌朝、確かにいつもより少し起きる時間が遅くなります。
「あぁ…朝ごはん。食べる時間が無い」
◎コーヒーだけでいいや。行く途中でカロリー〇イトでも買おう。
現実⇒ 充分、足りた。よし、これで行こう。
対策1を獲得した!(次もそうする可能性が高まる)
「お弁当…詰める時間、無かったー!」
◎休憩時間に食品コーナーで買おう
対策2 買い物をする時間を確保するため、軽食を選ぶ
現実⇒買った総菜で、即、おなかを壊した~。
対策3 前の晩の残りご飯をおにぎりにしてもらう
◎おにぎりを持っていく
現実⇒安心して食べられる~♪食べ過ぎないですむから身体も軽い。
これいい!お弁当はおにぎりで💮
新しい選択肢を見つけた!
「あぁ!洗濯物を干してる時間が無いっ。ごめん!行ってきまーす」
◎家族に後を託す。
現実⇒干してくれてた💛
別の現実⇒夕方までに乾かなかったけど、除湿器で明日の朝までには乾くから大丈夫!
また別の現実⇒洗濯機のなかに1回分忘れられてた(1回目を終えて出し、2回目を回しているところで出勤時間)けど、次の日にもう一度洗えばいいだけ。大丈夫!
問題ない。現状把握ができた!
挽回する対応策があるから安心だと気づいた!
「ゴミ捨て損ねたー!」
◎家族に託す
現実⇒惜しむらくは、ゴミ出しの曜日を把握していなかった。
対策4 「伝言をする」
結果、いずれにせよ、その日にゴミが出せなくても、ベランダに次のゴミ出しの日まで厳重にネットで覆って保管するから大丈夫!
まぁ、なんていうか。
その日にする予定のことができなくなっても死なないから大丈夫
予定が変更になることで、その挽回策や対策がひねり出されたり、「なぁんだ。できなくても問題じゃないや」ということに気づいたり、といいことが起こる。いいことが起こるのは、その前に、「やりたいことをして満足した」からに他ならない。
「するべきことができない」不安や心配が現実となる。
そんなことよりも、
今、やりたい!をやらない・できない状況が増えることのほうが大問題
に発展するのだ。
「するべきことができない」不安や心配が現実となったところで、前述のように「大丈夫!」を確認できたり、新しい創意工夫が生まれたりするよいきっかけにつなげることができればOKなんだ、と考えている。
でも、実は。そうなるには必要条件があることも忘れてはいけない。
結果オーライになる必要条件とは
「今、やりたいことをやり遂げて満足する」ことなんだ。
条件を満たさないときとは、次のこういうときを言う。
中途半端(=満足していない。不満が残る。)になる
・途中で思い直して、やめること
本当は「やりたいこと」ではない
・実は「やるべきこと」要素がはいっていた
・「そうなりたい」願望がはいっていた(理想を追っている)
中途半端にやると、満足に至らないから、また同じことを繰り返すことになるし、いつまでもやめられなくなり、結果、「やりすぎ」な過度状態に陥ってしまい、自制がきかなくなる感じがする。”飢える”状態が継続するからなんだと思う。そんな状態はやはりできるだけ無いほうがいいし、あっても短期間・短時間のほうがいいと思うな。短期間・短時間だからこそ、「飢える」ことが功を奏する場合だってある。反動ってやつだ。
本当はやりたいことではなかったとき。このことに気づくことは、本当に重要なことだと思う。
”誰か”の願望や期待を背負ってしまった結果だったかもしれないからだ。それは「呪い」という。何度も聞かされた愚痴のようなものを、知らず知らずのうちに、いつも耳にしていた自分自身に内面化してしまい、自分ごとにしてしまうことをいう。
それって、本当に私がしたいことだったかしら?
それって、本当はほかの誰かのしたいことだったんじゃなかったかしら。
いつの間にか「私が代わりに願いを叶えてあげる」ことになってなかったかしら。
本当に、心から、私が、私のためにしたいことだったかしら。
それって、
自分を大切にする
ことにつながるんだと思うんだ。
世の中にめぐる物事は、かなりシンプルで、「自分を大切にする」以外の要素がはいった自己犠牲精神ではうまく廻(めぐ)らないことのほうが多い。逆に言うと、「自分を大切にする」純度が高いと、そのあとのことが、割となんでもスムーズに進むと実感できる。それが周囲の目から見たら「わがまま」とか「自分勝手」とか「道徳規範にはずれている」とか思われるようなことであっても、だ。
そもそも「道徳規範」は、その国の、その地方の、その家族の【中】だけで受け継がれてきた部分が大きい。その【中】ではうまくいく秘訣みたいなものだ。その規範を遵守することができる”社会化”によって、そのコミュニティにおいては円滑なコミュニケーションが成立する。ただし、その手段は、別のコミュニティーでは通じない。
その分別がついていることが重要だ。うまく、必要に応じて使い分けることができるように。
「やりたいこと」を優先する組織の中に、自己犠牲精神の強い人がいたらどうなるか
「やりたいこと」を優先するメンバーが、一致団結して、労働条件の改善を目的にボイコットしたとする。これはたびたびちいさなことからでも、起きることだ。
全員がボイコットしたならば…
この労働環境を改善しなければ、そもそもの組織の活動目的を遂行することができない。ゆえに、改善をする。その方向性が導かれる。
ひとりの自己犠牲精神が発揮されたならば…
「できる人・やれる人がやればよい」「やりたい人がやればよい」。
環境条件を変えなくても、それで成り立っている現実が確認される。
ゆえに、「改善の必要は無し」と判断される。
たった、ひとり。
たった、ひとりの行動が、現状維持を可能にする。結果、環境は変えられない。
この場合の、自己犠牲精神の発揮とはどのようなものか。
「皆がやらないと組織の活動が遂行できないことが問題だ」「私がやればできる範囲のことだ」と考えて、ボイコットされた課題をひとりで抱えて、引き受けることだ。問題を矮小化した判断を起こすことをいう。
「やりたいこと」を優先するって、こんなに重要なことなんだ。
「誰かのために」はとても素敵なこと
「誰かのために」と考えるのは、すべて自己犠牲精神で悪いことなのか、といったら、そんなことは決してない。そうであるはずがない。
マイナス方向に誘導してしまうときと、プラス方向に向くときと、両方があるのだと思う。それが、「純粋に”やりたいこと”」なのかどうかにかかってくるというわけだ。
献身的な自己犠牲は、時に非常に重要だ。その人の、その人自身の不利益を被る覚悟が無ければ、その後の「よいこと」に結び付かなかった歴史的事実はやまほどあるだろう。その事実に、人々は感動する。そんな人になりたいと希望を持つ。ごく自然な人本来の心だと思う。
同時に、そのときの純真さ、その純度100%の「献身」の姿勢は、忘れることができない。
見返りを求める気持ちなど寸分もなく、虚栄心は微塵も無く
「今、やりたいこと」それが「今、するべきこと」と【同じ】
そういうことだったりする。
だから、結果、自分がどうなろうとも、心は満たされている。それを支える家族も、それを受け容れて、変わらず信じて支えていける。誇りを持って幸せを感じるからだ、と思う。(ちなみに、今、私はこれをひとりの偉人を思い浮かべながら書いているが、人それぞれ、思浮かべる人物はいろいろいると思う。)
マイナス方向に働いた時とは。
(私が)したくもないことを、(みんなのために)やってあげたのに
(全体として)やらなくてはいけないことを、(私が)したのに
(他のなかで)やるひとが誰もいないから、(私が)無理をしたというのに
こうして、書いてみてハッと気づいたけれど。これは二項対立なんだね。
自分と他人
個人主義とは相対するものだなと感じる。自分と他人を同一視するからこそ起こる、「私とあなた」を際立たせる対立する構造だ。なぜ、こんな逆説的なことが起こるのだろう?
結局のところ、「仲良し・仲間」感が、勘違いを生じさせている気がする。《一緒》《同じ》という共同体が持つ”同一の一体感(いったいかん)”と、《共感》《協働》というような集合体が持つ”団結(だんけつ)”とでは、似て非なるような…。そんな気がしないだろうか。
「やりたいこと」にも優先順位がある
「今?それとも、あとでもいい?」
家族に頼みごとをする時は、大抵、その相手も何かをしている最中だ。頼みごとをするときは、今していることの手を止めて、あるいは、別の時間を取って、依頼ごとに取り組んでほしいということだ。
勘違いしてはいけないぞ、と私自身に言い聞かせているのは
私の優先順位と、相手の優先順位は違う
ということ。(あたりまえのことだ。)
そこで頼むときは、この点を具体的に明確にしておくことにしている。
・いつまでに
「今すぐ取り掛かってほしい」
「それが終わったあとでいい」
「今日中にできるならいつでもいい」
この時、我が家では「なぜ」はあまり重視されない。
「なぜ」の根拠は、個人の優先順位が上位であることの動機でしかないからだ。それを理由に、頼みごとを「気持ちよく、ただちに、迅速に、引き受けて実行するべき」とは考えないでいい。
ただし、「引き受けるべきかどうかを迷っている」様子がある場合に、ダメ押し程度に「なぜ」を述べるときはある。いわゆるプレゼンテーションだ。
第一に、「頼み」であること
第ニに、引き受けるかどうかの決定権は、相手にあること
その補足として、「いかに頼まれてほしいか」を訴えたりはする。その根拠と動機を強く印象付けるために「いかに重要なことだと考えているか」や「いかにそれで私が助かるか」など、手を変え品を変え…である。(決して、姑息なわけではない。切実なのだ。たぶん)
さらに「どのように」を指示することは蛇足だ。それは頼みごとを引き受けた主体が決定することだからだ。
例えば
洗濯物を干してほしい
・今日中に乾けばいい(”いつ”をお任せ)
・乾けばいい(干し方はお任せ)
一事が万事、我が家ではこんな風になる。付け加えれば、これは私から相手への「頼みごとなのだ」と自覚していることも、かなり重要な点だと思っている。なぜなら、【「あなたのため」に「させている」】という論理に簡単に変換するからだ。確かに「機会をつくる」ことは、人がなにかしらの能力を獲得するためには必要だし、それが本人だけでなく、周囲の働きかけによるところも大きい。だが、それが「本人が望む」ことか、「本人に(どの程度)必要」なことか、そのチェックは不可欠だろう。
「好きなこと=やりたいこと」だろうか?
そうでもない。
「今、やりたい」もあれば、「あとでもいい」もあるし、「今【は】、やりたくない」もあるのが、人の気持ちだ。気分次第?それがいけないことだろうか。いや、むしろ重要なことだ。
《気分がノる》ことで、調子がよく、事がスムーズに運ぶことは確かな事実だからだ。タイミング(時期)やリズム(調子)がよいと分かる感性のことをいう。そうすると《波に乗る》現象が起こりだす。そういうことは、誰しも経験があると思う。
気分がノらなくても、「できてしまう」ことがある。それがすでに獲得した能力を使ってできることだからだ。すでに、できることを、繰り返すだけでよいのだから。慣れたこと、すでに知っていること、手順や結果も知れていることが、その条件だ。ということは、「まだ、できないこと」や「見通しが立たないこと」などは、平常心で行動を起こすのはなかなか難しいかもしれない。勢いが必要…というわけだ。(なるほど。)
人は変われる。変わった方がおもしろい
「私は「やりたいこと」を削れない方だ。今では。」と書いたことでお分かりのように、以前の私は、自己犠牲心がことのほか強かった。子どものころから。目上の人へ敬意を払うことは至上行為だったし、というよりも、自分以外の人間は、自分よりもなんでも知っている・できると思っていた。自分にできることは、他の人はみんなできるし、自分にできないことは、他の人はみんなもっとできる…という具合に思っていた。
どうして、そのように思い込んでいたのかは、いろんな要因はあるのだろうけど、ひとつは「優しい」からだという。人より自分を上に置くことができないという理由からということだ。そこには沁みついた「上下関係になかで生きる」枷があったといえる。上下関係社会のなかで、私はいつも最下層にいた。《こどもである・女の子である》《女である・年少者である》《中年である》《低賃金労働者である》…。
「しなさい」の命令は、
「私にできることだから、そう言われるんだろう。”できない”で、あってはいけない」と自分を否定し、
「するな」の命令は、
「私にはできると自分では思っていたけれど、本当はできないのだろう」と自分への信頼を失くした。
そうやって、自分を失くしていったので、自分ができることも、やりたいことも、すきなことも、なにも知らなかった。
自尊心を傷つけられながら、自己肯定が育つわけもなく、そんな自分の存在意義をどうやって作っていけるだろうか。ひとえに「他人に尽くす」ことだけにしか見いだせなくなるのである。
優しさと無類の信頼が悲劇を生んだ。”人の行動は、愛を動機にしているもの”だと、無条件に信じていた。だからかな、とか思う。実際にはどうなんだろう。
”人の行動は、愛を求めるゆえに理由を探す”というほうが、より妥当だろうか。
(おぅ。まとまらなくなってきたぞ。)
気遣いが過ぎて自分自身がマイナスに落ちていく人は、尊大かも?と思うくらい自分を褒めると、ちょうどいいかもしれない。
自尊心が肥大して周囲にマイナスを与えている人は…、しばらく沈黙を守ってみるとよいかもしれない。
知らないうちに、自分に科せていることを
やめてみる。
自分を変えるって、そういうことかもしれない。
それには、自分を見つめなおすこと、知ること、振り返ることが必要になってくるけれど、時には、そういった「思い出す」ことに繋がることがしんどいことがある。ストレッチなどをして体が緩んだ拍子に、不意に記憶が蘇るなんてこともあるくらいだ。身体は記憶している…とつくづく感じる瞬間なんだけども、そういうことがある。そういうのって、結構、ツライ。
でも、産みの苦しみ…なんだと思う。
だいじょうぶ、だいじょうぶ
そう言い聞かせながら、ゆっくりゆっくり自分とつきあっていきたいね。だって、一生ものだもの。
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