聞いてね。聴くからね。
「わかる?」「知ってる?」「できる?」「どうすればいいと思う?」
周りから【正解】を問われ続けることが多かったのでしょう。
…あなたのことは大事じゃない
…正解でなければ価値などない
…正答を知っている私を敬いなさい
…あなたが間違っているかどうかを決めるのは誰か
…従いなさい
…あなたの意見はどうでもいい
…あなたがどう思っているかなんて聞いていない
…教えた通りにできているかを確かめさせなさい
…ご褒美をあげるか罰をあげるかを決めるのはこちら
正解を問われる質問をされるたびに、受け取っているメッセージはこんなものです。とても「わたし・ぼく」という個を大切にされているとは感じ得ないのです。
ー正解を打ち出すだけのコンピューターであれ
ー自分でなくてもいい
ー感情などなくてもいい
ー正解を知らなければ意見を述べる権利などない
ー存在価値は正解をどれだけ答えられるかにある
そんなふうに自分の存在意義を決定づけてしまうようになります。それは言葉として、こういうことなのだと表現できる以前に確立してしまうものですから、いつまでたっても、はっきりと言葉にできず、重い球体や決して壊れない鎖となって自分自身を縛り付けていくのでした。
やがて「質問されることはすべて正解を問われている」ことだと勘違いしてしまうんです。
質問することやされることを怖がるなら、成長する機会もぐんと減ってしまうのです。
【質問】の意味:
《客観視・確認する》
間違った解釈:正解を答える・間違いを指摘する
質問したいだけなのに(疑問を明らかにしたいだけなのに)、「そんなことを悩まなくてもいいのでは」なんて慰めが返ってきたこともありました。質問したいだけなのに、お悩み相談に変換されてしまったのでした。
そういった間違った解釈は、本来のシンプルな意味を通り越して、意図を解釈することから生じます。相手がなにを言わんとしているのかを想像する能力は、本来とてもすばらしいもののはずでした。意図を汲んで、期待以上のことを行うことは、人格者のそれだとされていたはずですし、やさしさや思いやりの現れでもあったはずです。けれど、どんなにすばらしい能力でも、それを他人が利用する時点で、本人にとってのあしかせになってしまうのですね。悪者って、そういうことを知っているのかも。そして意図を汲んでいるようでいて、自分の善意を示すために意図を誤って解釈するという不具合も起こります。それまではそうだったからという前例にならってしまって、今目の前にいる人のことが見えていないんです。使い方を間違えるとこんなことも生じるんですね。
質問することが無ければ、成長する機会は失われてしまいます。
「これはなに?」「それはどうして?」「なぜ?」「どのように?」。それは好奇心や探究心そのものなのです。すべての質問に正解を答えてもらう必要は無いんです。ただ、受けとめてほしい。受け流さずに、感激と驚きと共に受けてとめてほしい。
…そんな質問をするなんて、なんてすばらしいんだ!
…そんなことを思ったんだね。なんてすてきなんだ!
…そんなこと考えもしなかったよ!きみと私は違う人間なんだなぁ
そんなメッセージが届けられます。
ー他のだれかにならなくてもいい
ー自分は自分でいい
自分のことが大好きになれます。
間違っていることは、不思議と渦を大きくして、なにかを巻き込んでいきます。大切なものを隠し、見失わせようとします。
本当に大切なことはシンプルです。単純です。そしてたくましく根付くしぶとさがあります。人間らしい姿そのものです。
冒頭の「知ってる?」「わかる?」「できる?」は、どれもちいさなこどもや指導している生徒にいいがちなセリフではないでしょうか。気持ちはわかります。
何を教えなければならないか。
教え損なっているものはないか。
それを確認したい気持ちです。こどもや生徒によりよくなってほしいという気持ちには違いないです。けれど、こんな気持ちも持っていなかったでしょうか。
自分に落ち度はないか。
見知らぬ他人にすら、なにもしてくれない他人にすら、評価されている心地がする現代です。他人の目がすべて通知表を作成するための判断に見えてきます。監視社会とまで言います。管理や監督、監護でもない監視です。ずいぶんと窮屈になってきました。余りにも人間が増えてきたせいですよ、きっと。落ち度が無いことを証明しなければ、想像以上の責めをくらってしまうのですから。こんなにも命を懸けなければならないほどの《責任》を追及される時代だとは。切腹するのは、到底お偉いさんだけかと思ったのに、いまやありふれた主婦でも、それどころかまだ数年も生きていない命ですら投げ出さなければならないなんて。狂っています。狂っていることに気づいた人から変人扱いされて追い出されていきます。きっとそのほうが平和な心地で暮らしていけます。たぶん。
「あなたは どう思う?」
「あなたの気持ちは?」
「あなたの 考えは?」
「あなたたちは」と複数形になると、意見をまとめなければならなくなりますね。いろんな意見よりも正しい意見であろうとする気持ちが働いてしまう気がします。より容認されるために、より肯定されるために。そして、喜んでほしいために…。
「あなたたちは」とグループ化されると、「ひとりひとりたくさんの人たち」の意味よりも、大きなひとつの集団となってしまうようです。集団としての意見と、個人の意見は別物なのだということは、意外にも感覚的に認知されないようなのです。どうしてなんでしょうね。やはり《個人》として扱われることが少なかったからでしょうか。ざっくりひとまとめにされることが多いからでしょうか。
そろそろ狂った世界から抜け出そうと考える人は多く、「たくさん」よりも「ひとり」と「ひとり」で対話できる場所に移ろうとしているように感じるようになりました。どこかにそんな場所はないか、あるはずだと。
たぶん、それは。
自分の口から始まるんです。自分の声から始まるんです。
自分が差し出す手から始まるんです。
誰か、ではなく。
その行動は101匹目の猿かもしれないんです。
ある島でイモ洗いをする猿が一匹。やがて島にいるその他の猿も真似するようになった。するとある時点で、不思議なことにその島とは遠く離れた島の猿もイモ洗いをするようになったのである。
いつの時点であるか。
遠くに伝播する直前にその行動を行った猿のことを101匹目の猿と呼ぶ。
いつかこの先の未来がそう実現したら、こども孫、子孫が暮らす街はそうなんだってことです。ステキですね。
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