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【俵万智の一首一会⑥】時間の旅、穂村流の挽歌

今日からは上げっぱなしでかまわない便座が降りている夜のなか 穂村弘

 一昨年出版された『水中翼船炎上中』は、実に十七年ぶりの歌集だった。歌集というのは、あいだが開けば開くほど、出しにくくなる。素材やテーマが多岐にわたるし、過去の作品への自分自身の目が厳しくなるし、歌の取捨選択も難しい。けれどこの歌集は、難しさを逆手にとって、たっぷりの作品があるからこその編集の妙味を見せてくれた。読者は「時間」の船に乗って、現在から過去、そしてまた現在へと帰ってくる。その時間旅行の過程で体験する「昭和」のリアルさといったら!

オール5の転校生がやってきて弁当がサンドイッチって噂

ごはんよと声がきこえる絨毯にピアノの椅子を動かした跡

お茶の間の炬燵の上の新聞の番組欄のぐるぐるの丸

 サンドイッチ、絨毯、新聞……どれも今あるものだけれど、言葉の手ざわりがまるで違う。新鮮な懐かしさだ。


 今回掲げた一首は、歌集の中ではやや異彩を放つ一連にある。テーマは「母の死」。父と母と僕は三人家族だった。父と僕は、小用の後に便座を下げるのをつい忘れてしまい、母から「また!」と小言を言われる……そんなシーンが繰り返されてきたのだろう。特別な場面ではないが、ふっと「ああ、もうお母さんのために便座を降ろしておかなくてもいいんだ」と思った瞬間に広がる喪失感。必要もないし、小言もない。油断していた心に、母の不在が突きつけられる。身近な人、大切な人を失くすとは、こういう感覚を日常のなかで抱き続けることなのだろう。大仰な挽歌とは、ひと味違う切実さである。

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 穂村さんの短歌は、おおむね軽やかで、クールなタッチ。同世代で、デビューもほぼ同時期の私とは、口語短歌を盛り上げた一味(?)として語られることが多い。一面ではその通りなのだが、短歌特有の「私性」との距離の取り方が、私などよりずっと潔いのが特徴だ。たとえば恋愛を詠んでも、プライベートな匂いが、ほぼしない。だからこそ「母の死」というテーマは、彼の文体ではもっとも歌いにくいものだったのではないかと思う。そこを乗り越えて、ああ、こんなふうに穂村弘流に詠めるんだ、と深く心を動かされた。


 歌集では、続く章にこんな一首もある。

あ、一瞬、誰かわかりませんでした 天国で髪型を変えたのか

 記憶の中の母の面影が、だんだん曖昧になってゆく。そのことに打ちひしがれるのではなく、茶目っ気たっぷりに詠んでみせる。タフなユーモアである。


 穂村さんとは、節目節目で対談をしたり、互いの文庫本の解説を書いたりしてきた。一回の対談というのは、たぶん十回の飲み会よりも、深い話をする。飲みながら「文語と情報量について」とか、「短歌の文体と作中主体について」とか、なかなか話題にしないだろう。セミパブリックな場だからこその真剣勝負な時間を、共有してきたという実感がある。


 ところで、私の人生の知見の一つに「とほほエッセイ会うとイケメンの法則」というのがある。イケてない作中主体に大いに笑わされ、共感し、幸運にも会うチャンスに恵まれる。すると「え!? めっちゃイケメンやん」……とギャップに驚かされるのだ。つまりエッセイの名手は、自分を戯画化することに長けているのだろう。松尾スズキさん、町田康さん、ドリアン助川さん、そしてもちろん穂村弘さん。ちなみに、この四人とも私と同じ1962年生まれだ。その法則に、名前は、まだない。

(西日本新聞2020年4月9日掲載/題字デザイン・挿画=北村直登)

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