祖母と末っ子
インフルエンサーのkemio氏のYouTubeを見ていたら、おばあさまが出ていらっしゃった。
足の骨を折って入院されていたが無事退院とのことで、孫であるケミオさんが花束を買って駆けつけていた。
おばあさまというからおばあさまなのだろうと想像していたのに、大層お若くいらしてびっくりしたのと同時に、退院と聞いて駆けつけられる間柄を羨ましく思った。
kemio氏とおばあさまは、抱きついて、歌って、すごいスピードで会話していた。
私には祖父母の記憶というのがほとんどない。物心ついた時には父方の祖母しかいなかった。
両親が三男と三女という末っ子同士なこともあり、かつ私はその時の親戚の中でも最後に生まれた末っ子だった。
存命を知るたった1人の祖母は私が中学に入る頃には認知症を患っていた。
千葉に住んでいた祖母は、私が住んでいた神奈川の家に電話を毎日かけてきて、私が出ると必ず私の姉の名前を呼んで間違えた。
間違えたというよりは、もはや姉だと思っていたのかもしれない。私は特に寂しいということもなかった。ただ漠然と、老いるとは忘れていくこと、と覚えた。
小さい頃は祖母に風呂に入れてもらったらしいのだが、もちろん記憶にない。小学生の頃は祖母の家のトイレが怖かった。
当時ですら珍しい汲み取り式だった。体が小さかった私は、股の下に広がる茫漠とした闇を前に震えあがっていた。用を足している時も闇に吸い込まれていきそうで、気が気ではなかった。
祖母の家に行くには高速に乗って、車で1時間半くらいかかった。父が運転し、助手席に母、後部座席に姉と私。
私だけいつも車の匂いに酔ってぐったりした。トイレにもなかなか行けない。みんな、なんとなく疲れて不機嫌になる。
祖母の家に行くのは憂鬱だった。
祖母の家に着いたら着いたで、私は障子に穴を開けたり、かと思えば畳の上に寝そべって畳の目を一つ一つほじくったりと、とにかく余計なことばかりするので親戚からよく怒られた。
祖母だけは絶対に怒らなかった。「いいよいいよ」と周りの大人を諌めているのを、なぜか私は居心地悪く感じた。
認知症に加え、祖母の持病の糖尿病が悪化し、入院するようになった。私は一度だけ、千葉の祖母が入院している病院へひとりで見舞いに行ったことがある。
自分から行きたいと言ったわけではない。親に行けと言われたのだと思う。
電車を乗り継いで、2時間くらいかけて病院へ着いた。祖母は私を見るなり、姉の名前を呼んだ。
私は自分の名前を教えて、祖母に「そうだそうだ、あゆちゃん」と言われなおしたのを聞いたその時、なぜ訂正なんてさせてしまったのだろうと思った。我ながら意地悪な孫だ。
今日の昼は何を食べた?どんなテレビを見た?トランプする? どんな質問や提案をしても、祖母は笑ったあとに「ちょっと疲れちゃった」と言って、質問には答えなかった。
私は帰る前にと、祖母の吸飲みの容器を廊下の流しで洗い、新しい水に入れ替えて病室に戻った。
祖母に「あら、ありがとうね」と手を握られた時、鳥肌がたった。「怖い」と思ってしまった。
しわしわで、血管が浮き出ていながら爪の色と肌の色の境目がわからなくなった、土気色の、カサカサとした手。
振り払いこそしなかったが、私は固まった。祖母がそれに気づいたかどうかはわからない。でも「ごめんね」と言った。
何に謝ったのだろう。
吸飲みを洗わせてごめん、だろうか、それとも。私は慌てて口を開こうとしたが、祖母はもう一度謝った。
「ごめんね、えりちゃん」。姉の名前だった。それが祖母との最後の会話になった。
祖母の死は、母によって知らされた。私は高校生になっていた。
父の帰りが遅いのでどこに行ったのかと聞いたら、「おばあちゃんが亡くなったのよ」と言われた。その言い方はまるで「何を今さら」感があった。
おそらくすでに一報を受けた時点でひとしきりすったもんだがあって、その後に私が帰ってきてのんきに質問したのだろう。
姉はすでに知っていた模様だった。私だけが最後に知らされたのだ。一番最後に生まれた子供は、いつも一番最後だ。
葬儀の日、私たちは千葉の祖母の家に行った。祖母は布団の中にいた。入院先から身綺麗にされて戻ってきたのだろう。
顔に布などは被っておらず、うっすら口を開けたままの祖母の顔を見て、私はまた「怖い」と思った。顔の色は、あの時の手の色と同じになっていた。
でもそれはもう、祖母ではなかった。死んだ人間というのを、その時初めて見た。
親戚のみんなや孫たちが静かに横たわる祖母を囲み「おばあちゃんありがとう」と泣いている中、私はその後ろで、祖母に対して謝罪しか思いつかなかった。
礼など言える立場ではない。たった今ですら、祖母のことを怖がっておいて。ただそのことで不甲斐なさからくる涙は出た。
かろうじてこの場で浮かずに済んだ、と、また自分のことばかり考えていた。
いざ納棺の時、祖母の体を花々で埋め尽くすという作業があった。草花を育てるのが得意だった祖母の家の庭は、いつも四季折々の植物が入り乱れていた。
祖母だけが暮らす小さい家は、庭だけは立派だった。
父を見ると、親族がせっせと花を棺に入れている中、ひとりだけ後ろに突っ立ってその作業を見ていた。姉が無理やり父に花を渡して、棺に入れるように促していた。父は苦笑いしたのち、棺に近づき、静かに花を落とした。
父から祖母への想いなど、もちろん聞いたことはない。
元来、照れくさいことがいっさい苦手な人だ。私が結婚するときも、式での手紙も花束贈呈も一切を拒否された。
人前で涙を流すなど自分のプライドが許さないのだろう。そんな人だから、棺に近づくこともできなかったのかもしれない。
弱いところなどこれまでもこれからも見せないであろう父の、花を棺に手向けた時かすかに震えているように見えた右手を、今も忘れることができない。
そういえば父も末っ子だった。
末っ子ゆえの祖母との関係を、娘の私は知る由もない。周囲が緊張したり湿っぽくなることが嫌いで、不謹慎でもなんでも、笑いに変えたがる父の特性を受け継いでしまったからこそわかる。
自分の中だけにあればそれでよいことがあるのだ。
祖母とうまく話せなかった。もっと父との話を聞いておけばよかった。
でも私は怖かった。優しいおばあちゃんの中から、私が消えていくのが怖かった。人間の変化を感じるのが怖かった。
死に向かう人の体が、怖かった。
そして、怖いと感じていることを悟られるのが一番怖かった。
もうすぐお盆だ。毎年、父の運転する車に乗って、高速を飛ばして、祖母の墓参りに行く。
今年は仏花ではなくて、kemio氏が用意したような、華やかなものにしようか。そうすれば車の中の匂いも少し和らぐかもしれない。
すでに車酔いはしないし、後部座席で姉と喧嘩したりもしない、いい大人になってしまったけれど。