パレスチナに関する新曲「密航者を壁の向こうへ」
明日、歌おうと思ってるパレスチナに関する新しい曲「密航者を壁の向こうへ」
春ごろに作って以来、まだステージでは一度しか演奏できていないものです。
苗場では持ち時間が限られているので、この曲に関してMCだけではしっかり説明できないかもしれないため、ここに歌詞を載せておく事にしました。
最終的にバンド編成できちんとレコーディングしたいと思っていて、8月4日リキッドルームでのワンマンでは、メンバーたちと一緒に演奏してみるつもりです。
年明け以来、ライブ現場でたびたび演奏している「Two Palestinians」に関しては、以前、制作動機を少しnoteにも書きましたが、
パレスチナが生んだ二人の偉大な作家(ガッサーン・カナファーニーと、ナージー・アル・アリー)を、1948年のナクバによって故郷を追われ難民となった幼少期から描くことで、彼らの生と、2024年現在こうしてる間にも次々に殺されて行っている彼の地の子供たちの生を、重ね合わせるものでした。
つまりイスラエルによって極めて意図的に断たれ続けてきたパレスチナの「未来の可能性」を浮き彫りにするために、あえてシンボリックな登場人物を配置して寓話化、普遍化を試みたけれど、
新曲「密航者を壁の向こうへ」には、こうした特別な人物は出てこない。
この曲にはただ我々や、我々の友人たちのような、ごく一般的な成人の一日を切り取りたいと思った。
天井のない監獄、アパルトヘイトといった言葉ですら到底言い尽くせない、あまりにも酷薄で非人道的な、人体実験のごとき環境でぎりぎりの生活を続けることを余儀なくされてきた、無数の人々の日常。
虐待的な占領と収奪によって、経済基盤を徹底的に破壊されてしまった彼らのほとんどは失業状態で、家族を養うために危険を冒し、分離壁の向こう側へ密航を試みて、過酷な労働に従事する。暴力的な手段で自らの土地を奪った入植者たちの、居住エリア拡張を企図した建設現場に紛れ込まなくてはならないことさえ、ある。
「執拗に断たれて行く、子供たちの可能性」といった、やや俯瞰からのアングルではなく、その子供たちを暴力から守り抜いて、飯を食わせていかなくてはならない、大人たち、
恥辱と屈辱のなか、死に物狂いで汗を流す、名もなき生身の人間の名を叫びたいと思って書いた。
生まれる場所が異なれば、我々であったかもしれない、誰か。
そういう意味で、我々の世代に向けて、我々の身体に向けて、両腕に向けて、書いた曲です。
我々の身体を、民族浄化のただなかで徹底的に抑圧された身体に少しでも接続してみよう。そして考えよう。可能な音楽を。
P.S.
ちょっと今、ホテルの床でスマホで書いていて上手くまとまらないですが、明日のライブを終えて帰宅してからもう少しちゃんと改稿しますね。失礼しました。
※歌詞↓
noteでの記事は、単なる仕事の範疇を超えた出来事について、非力なりに精一杯書いています。サポートは、問題を深め、新たな創作につなげるため使用させて頂きます。深謝。