瀬尾夏美 「声の地層: 災禍と痛みを語ること」
ツアーが終わり、11月に瀬尾夏美さんから届いていた新刊「声の地層: 災禍と痛みを語ること」をようやく読むことができた。
能登半島地震の渦中にある今、ぜひ手に取って頂きたいことと、内容が素晴らしくて140文字では足りないので、微力ながらこちらに書評めいたものを残しておきます。
瀬尾夏美さんとは2011年、東日本大震災の年に、東北で出会った。
彼女は、創作上のパートナーで学校の同級生でもある映像作家の小森はるかさんと二人で、僕の目の前に現れた。
おそらくそれは演奏現場だったと思うが、正確にどのようなシチュエーションだったか、記憶が曖昧になっている。当時、僕自身が若く未熟で、日々もがいては空回りを繰り返していた時期だが、
まだ学生の二人が、被災地でのボランティアを経て、さらに一歩踏み込んだ活動を始めようとする決意に満ちたその瞳の輝きにつよく打たれたことは、くっきりと覚えている。
それからの瀬尾さんの活躍は、誰もが知るとおりで、甚大な津波被害を受けた陸前高田に数年間に渡って根を張り、復興と、その矛盾、沿岸部の嵩上げ工事によって二度目の喪失にさらされる郷土、コミュニティ、そこに生きる人々のなかに内在する、個々の物語に耳を澄ませ、ひたすらに記録しながら、得られた成果を閉じたものとせず、現在進行形のアクチュアルな事象とつなぎ合わせ、遠方の誰かにとっても理解しやすい形を模索しながら根気強く発信し続けて来た。
今作では2021年頃からの記述がメインとなり、世界を覆ったパンデミックや、ロシアによるウクライナ侵攻のただなかで感じたことが、災害や戦争の体験者から聞き取った数々の物語と照らし合わされながら綴られてゆく。
瀬尾さんによるエッセイや論考と、事実から着想を得たフィクショナルな創作物___小説的だったり民話形式であったりする魅力的な物語が対になって相互に補完し合う書籍全体の構成も美しく、様々な世代、境遇の人々の内なる物語が、たった今、初めて語られたかのような生命感を伴って躍動している。
そう、実際にそれは、瀬尾夏美に対してだけ、初めて語られた物語であるかもしれない。
彼女はオーラルヒストリーの専門的教育を受けたわけでもなく、絵や文章を書くのが好きな美大生に過ぎなかった。いわば新米アーティストとして、被災地のコミュニティに入った彼女は、学術的な権威によって裏付けられたメソッドとは無縁で、明示できる有効な肩書きを持たない一人の女の子として、すべてをゼロから、手探りでこなすことになった。
それゆえにか聞き取り行為を無意識に、採集と呼び習わすような尊大さの欠片もなく、個々の物語に対する尽きることない敬意と愛情が、彼女の行動原理の軸となっている。
知的障害を抱えた弟さんとの、実家でのやりとりを描いた素敵なエピソードが印象的で何度も読み返したが、そんなバックボーンも関係しているのだろうか。彼女の言葉には予断や決めつけが一切なく、いつでも世界と真摯に向き合い、葛藤し、しかし活発で柔軟な、あたらしい思索と、発見の喜びのなかにいる。
いつのまにか瀬尾さんは、まったく独自の方法で「聞くことのプロフェッショナル」になり、東日本大震災の年に生まれた11歳からも、関東大震災の2年後に生まれた97歳(当時)からも、奥底に秘めた最も大切な記憶を委ねられる存在になった。我々は彼女のガイドによって、まったく異なる時空間を生きた人々の歌が、互いに交差し響き合う地点に立つことが出来るだろう。
そこは意味が充溢すると同時に、豊かな余白を兼ね備え、当事者性/非当事者性の垣根がふいに取り払われてすこぶる風通しの良い、もうひとつの可能性に満ちた場所だ。
「被災していない我々」には語る言葉がないのだろうか?無力なのだろうか?けして、そんなことはないと瀬尾夏美はいう。我々もまた、災禍と痛みと喜びに引き裂かれたこの歴史の途上で物語を抱える、かけがえなき1ピースなのだ。
瀬尾さんが紡ぎ出す言葉は昔から素晴らしいものだったが、今作のとりわけフィクショナルな創作物において、一気に深みと広がりを増し、読んでいてちょっと怖いくらいだ。彼女の中に複数の作家が同居しているのでは、と錯覚してしまうほどに。
しかし瀬尾夏美は一人だ。この10数年間で、いったいどれほど多くの物語が、彼女のなかに流れ込んだのだろう? 様々な人々の声が織りなす多層的なハーモニーが、この本のどの頁からも溢れ出してくる。
かつて、あどけなさを残した学生だったはずの瀬尾さんはいま、豊穣な物語の海となって、にこにこ笑っている。
その海辺から射す光に、こちらまで照らされるような、本当に特別な読書だった。