【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(19)
冷えた体でベッドに座ったところで、美咲はぱっと顔を上げた。
「そうだ先生、好きな人いないんですか?」
「――え?」
雪洋の虚を衝いたようだが構わず続けた。
「好きな人です、好きな人! いないんですか? いい若いモンなのに」
「……どうしたんですか急に」
それまでの鬱々していた気持ちが嘘のように、美咲の心はすっきりと晴れ渡っていた。
「先生だって私と年、そんな変わらないでしょう?」
美咲の質問に、雪洋はベッドに腰掛けながら「三十二です」と答えた。
「えっ? うそっ、まだ二十代だと思ってた! 私より五つも上?」
「年より若く見られるんです。肌艶がいいので」
相変わらずの言い草に頬が引きつるが、構わず続ける。
「三十二でもなんでもいいですけど、もっと普通の若者らしいことしたらいいですよ」
「若者らしいとは?」
「恋愛とか結婚です!」
「しなければいけませんか?」
とぼけた顔をして聞き返される。
「もう! 先生、医学一筋も立派ですけど、健全な成人男子として、もっと他のことにも興味持ったらどうですか? 前に結婚に興味ないって言ってましたけど――」
「興味ないとは言ってません。執着はないと言ったんです。相手が望まないなら無理に結婚したいとは思いませんよ」
「じゃあもとい! 結婚に執着はないって言ってましたけど、好きな人の一人や二人いないんですか?」
「好きな人は一人で十分でしょう」
雪洋は苦笑しながら、寝なさいと言って美咲を横にさせた。そうですねえ、と布団を掛けながら物思いにふけっている。
「いますよ」
「えっ、いるんだ」
「なんですかその聞いておいて意外そうな反応は」
「だって先生って全然色恋の空気出さないし、女性の影だってないし。本当にいるんですか?」
雪洋が微笑む。
「とても、大切に思っている人がいますよ」
美咲を見下ろす雪洋の目が、今までにないくらい優しい。深い想いが否が応でも伝わってきて、――胸が痛い。
「その人に思いは伝えないんですか?」
「瀬名先生と同じことを言うんですね。まあ、あの人は私をからかっているだけですが」
どうやら瀬名はこの件を知っているらしい。
「思いは――今のところ伝える予定はないですね」
「どうして? モタモタしてたらすぐに結婚してしまいますよ? 急いで行動起こさないと!」
「好き……ですか」
「違うんですか? 好きなんでしょう?」
「単なる好きとはちょっと違う気がしますが……」
思案するように目を伏せ、再び美咲へ目を向けた。
「まあ、わかりやすい言葉で表すなら、そうですね、好きですよ。好きだし、とても深く愛しています」
見つめながら言われたせいか、不覚にもドキッとした。その人に伝わるはずの雪洋の想いが、美咲にも飛び火したかのようだ。
「いいなぁ……」
美咲はため息まじりにつぶやいた。
「私もそんな風に言われたい……」
雪洋が目を見開き、ぷっと吹き出す。
「そうなんですか?」
「そうですよ。憧れの愛の言葉じゃないですか。先生はたまたま出会った私にさえ、これだけよくしてくれるんだもの。先生の好きな人なら、これ以上ないってほど大事にされるじゃないですか。本当、羨ましいです」
雪洋が笑いを堪えるような顔でのぞき込んできた。
「美咲は、私に大事にされたいんですか?」
目を一度しばたく。
「……そう聞こえました?」
「はい」
消えそうなほど目を細めて笑っている。
「や、深い意味はないです。単純にその状況が羨ましかっただけです」
布団を口元まで引き上げ、雪洋に背を向ける。
「今の感じで、その人に思いを告げればいいんですよ。なんで伝えないんですか?」
雪洋が物寂しそうな笑みを浮かべる。
「その人はね、私が手を出してはいけない人なんです」
「なんですかそれ」
「今は近づくことが許されません」
「今は? まさか相手のいる方ですか? 人妻とか?」
美咲の言葉に、雪洋はただ笑っているだけだった。否定はしなかったが、それ以上探られたくないのかも知れない。
「先生、私元気になりますから!」
ガバッと体を起こし、雪洋につかみかかる勢いで言い放つ。突然の宣言に、雪洋も「え? はい」ときょとんとしている。
「持病とうまく付き合って、一人でも生きていけるすべを修得しますから!」
「そうなることを私も願っていますが……。どうしたんですか?」
「そしたら一刻も早く、ここから出ていきますから」
「――え?」
「だから先生は、先生の時間を取り戻してください」
「どういう意味ですか?」
「それだけ大事に思っている人がいるっていうのに――」
一旦言葉をのみ込み、うつむいて続きを紡ぐ。
「私を一年も、おいてる場合じゃないですよ」
私が病にとらわれて五年も無駄に費やしたように、先生も五年前の私にいつまでもとらわれていてはいけない。
雪洋が戸惑った目で美咲を見ていた。
それはそうだ。
美咲のために前の病院を辞め、今の生活をしているのだから。当の美咲にそんなことを言われては元も子もない。
「先生が私にしてくれたこと、すごく感謝しています。だからこそ私、……先生の邪魔になりたくないんです」
「何を言って……」
今はっきりわかった。
私が心の底から望むこと。
「先生、幸せになって」
もう五年前の私にとらわれないで――
恨み辛みもあったけど、先生には幸せになってほしい。
だから、私がいつまでもここにいてはいけない。
ここにいる限り、先生は五年前の私にとらわれる。
「ここにいなさいといったのは私です。何も気にすることは――」
「でも私みたいな小姑が居座ってたら、まとまる話もまとまらないでしょう?」
美咲のまっすぐな目とは逆に、雪洋はさっきから眉をひそめたままだ。「小姑って……」と漏らし、額に手を当てて苦悩している。
「そもそもまとまるような話がありませんから。つまらないこと言ってないで寝なさい」
「つまらないことじゃないです。先生は私を救ってくれたから、幸せになってほしいんです」
「まだ救ってません。それに――」
少しだけ語気が強かった。
怒っているのだろうか。……わかりづらいが。
大きなため息が雪洋の口から漏れる。
「……本当に私の幸せを願うなら、変に焦らず、じっくり居座って治療を受けなさい。美咲が外の世界でしっかりと生きていくことが、私の幸せなんですよ」
口調は穏やかだが、有無を言わせぬ強さがあった。
「わかってます。最低一年の約束も守ります」
でも一年が明けたら、すぐに退院の許可が下りるようにする。
「異常無し」と言って美咲の病状が悪化したことにとらわれているならば、雪洋を解放する方法は、美咲が寛解すること。
そしてその後の人生を――たとえ再発しても――うずくまらずに前を向いて歩いてゆくことだ。
雪洋が心配しなくても済むように。一刻も早く。
――見えた。これが私の進む道。
「さあもう本当に寝なさい」
「はぁい」
日課のマッサージを終えると、目をつむっている美咲を見て、雪洋は黙って部屋を出ていった。
ドアが閉まると、美咲は目を開けて天井を見つめた。
「先生、好きな人いたんだ」
ぽつりとつぶやく。
雪洋だって男だ。
意外ではあったが不思議ではない。
美咲の願いは雪洋が幸せであること。
雪洋と一緒にい続けることではない。
だからその人と結ばれることが先生の幸せなら、私は迷わず身を引きます――
人知れず淡い失恋も味わう、静かな月夜だった。
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【小説】太陽のヴェーダ
どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
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