【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(14)
「ばかですね。本当ばかですね」
これで何回目だろう。
運転席の雪洋はまだ不機嫌そうな顔をしている。
「そうだ美咲、杖は持ってきましたか?」
先日、雪洋が杖をくれた。
折り畳み式の杖で、一度だけ試しに使ってみたら、これが思いの外良かった。
とても楽に歩ける。でも――
「持ってくるわけないじゃないですか」
「どうして?」
「杖だけは嫌です!」
美咲にとって杖というのは老人の象徴であり、二十七歳の自分にはどうしても抵抗があり、絶対に人前では使いたくないのだ。
車は市内の消防署へ到着。
アクセサリー店へ行くのかと思ったが、指輪を切るなら消防署なのだと雪洋が教えてくれた。
署の入口で事情を話すと、小会議室のような部屋へ通された。中で数人の消防隊員がおのおの仕事をしている。
雪洋と並んで座ると、
「あー、大丈夫。このくらいの腫れだったら、タコ糸と石鹸があれば抜けるよ」
年配の隊員が引き出しを探った。
周りにいた隊員たちも、興味津々で集まってくる。
「石鹸はもう試しましたけど……」
言っている間に、年配の隊員がタコ糸と食器用洗剤を机の上に置いた。
「僕ねえ、奥さんの三倍くらい指腫らした人、タコ糸で抜いたことあるんだよ」
奥さんって……
どうやら夫婦に見られているらしい。
雪洋は涼しい顔をして黙って聞いている。
「ちょっと試しにやってみようか」
年配隊員に促され、美咲は渋々薬指に食器用洗剤を垂らしてなじませた。年配隊員がタコ糸の先を指輪に通し、薬指全体に巻きつけ始める。
タコ糸を解くときに指輪を指先まで滑らせていく方法だ。
この時点ですでに悲鳴を上げたいほど痛い。
腫れ上がった指にタコ糸が食い込むことボンレスハムの如しである。
「いぃ……っ」
痛い、と言うのも悪い気がして、食いしばった歯から声がじわりと漏れる。
――もう限界だ。
雪洋へ右手を伸ばし、シャツの裾をすがるようにつかむ。
目を強くつむっていると、右手があたたかい感触に包まれた。雪洋が周りに気付かれないよう、こっそりと手を乗せ、ポンポンと軽く叩く。
あとは任せなさい――
と言われた気がした。
「すみませんが、彼女皮膚が極端に弱いので。もう指輪切っちゃってください」
雪洋の穏やかな制止で、ようやくタコ糸締め上げの刑が中断。
「え、でもこれ、結婚指輪だよね? できれば切りたくないでしょ?」
隊員の言葉に、雪洋がにっこりと笑う。
「いえ、昔の男のですよ」
その場にいた全員が沈黙し、そして盛大に笑い声が上がった。
「彼女、そりゃだめだよ。よっしゃ任しとけ! スッパリ切ってやっからな」
「ありがとうございました……」
「おう! 彼氏に新しいの買ってもらいな!」
彼氏じゃないんだけど……
引きつり笑顔で適当に相槌を打ち、隊員たちに別れを告げる。
指輪はリングカッターであっさり切られた。
最初からそうしてくれればよかったのに。
車に乗り込むと、美咲は解放された薬指をさすって嘆いた。
「あーあ、私はもう指輪もできない体なんですね」
「そんなにしたいですか? 指腫らせてまで」
好きで腫らせたわけではない。
「指輪って好きな人と繋がってる感じがするし、周りへも『相手がいます』ってアピールになるじゃないですか。だから特別な感じが――あ、一般論ですよ?」
また怒られるかな、と身構えたが、雪洋は
「そういうものですか」
と言っただけだった。
不意に、雪洋に左手を取られた。
薬指はまだ痛々しく腫れている。
新しい傷もできた。これはリングカッターで指輪を切ったときのバリによるもの。指にバリが当たったまま指輪を引っ張られ、うっすらと赤い筋ができてしまった。
「この程度で済んで、不幸中の幸いですよ。……本当、ばかですよ」
もういいじゃないですか、と噛みつきたくなったが、ふと、言い方を変えてみようかと思いつく。
「先生、心配かけてごめんなさい。……もう許して?」
渾身の「かわいい顔」をして、しおらしく上目遣いをする。
――車内は沈黙に襲われた。
こんな手が通じるわけないか、とあきらめかけたとき。雪洋が美咲の手を離して運転席に座り直した。
「……ま、私も言いすぎました」
発進直前、ぼそっとつぶやく声がした。
思わず雪洋の横顔に「え?」と聞き返す。
うそ、通じちゃった?
というか先生、照れてる?
……すごくわかりづらいけど。
「せっかく前向きになったのに、また過去に縛られるんじゃないかと気持ちが乱れました。許してください」
正面を向いたまま詫びている。
仕掛けた美咲自身が驚いた。
穏やかに事を進めるというのは、案外楽しいことかも知れない。
少しは私も、「太陽」に近付けただろうか――
不意に、雪洋が不自然な咳払いをした。
「そのうちに新しい指輪を買ってあげますよ」
驚いて美咲の口があんぐりと開く。
「でもすぐに切られるようでは困りますけどね」
「うそっ、本当に? 嬉しい! ばかばか言われて頭にきてたのも帳消しにしますね」
「……そんなこと思ってたんですか」
すっかりはしゃいでいる美咲に「そのうちにですよ」と念押しして雪洋は車を発進させた。
「――杖、外では使わないんですか?」
走り出した車の中で雪洋が問う。
「またそれですか」
「気にせず堂々とすればいいのに。美咲は杖が必要な体質なんですから」
「先生は何事も気にしなさすぎじゃないですか?」
「それで損したことはありませんけど?」
……真理を語られた気がする。
赤信号で停まっていると、若い女性が横断歩道を渡り始めた。
あ、と美咲の口から声が漏れる。
その女性は、杖を突いていた。
普通にオシャレして、普通に外を歩いて、普通に、杖を突いている。
それがまるで流行であるかのように、颯爽と。
「……私、今まで誰に気を使っていたんだろう」
美咲の独り言は雪洋の耳にも届いていたはずだが、雪洋は何も言わずに微笑んでいた。
凛として杖を突く女性を、美咲は目で追い続けた。
私もあんなふうに、生きていけるだろうか。
どんな体でも、「これが私です」と胸を張って――
翌日。
出勤する美咲は、玄関で雪洋に見送られていた。
「いってらっしゃい」
「いってき……あ!」
「忘れ物ですか? 取ってきますよ」
美咲は雪洋を見上げてを口を開きかけ、わずかにうつむいた。
「――杖を」
まだ堂々とするには、勇気がいる。
雪洋は美咲の変化に、満面の笑みを浮かべた。
「すぐ取ってきますから。十秒だけ待っててくださいね」
持ってきてくれた杖を受け取ると、美咲はバッグへ入れるために折り畳み始めた。微笑ましいものでも見るように、雪洋が笑みを浮かべている。
「会社では使いませんよ。でもお守り代わりに……持ち歩いてみようと思います」
「ああ、いいですね」
雪洋の笑みが増す。
「……元気だった頃を、いつまでも名残惜しく思っててもしょうがないですから。今の自分が快適に過ごせるように、工夫してみます」
照れくさくて、いってきます、とすぐに背を向ける。
「はい、いってらっしゃい」
嬉しそうな雪洋の声が背中を押した。
玄関を出ると、美咲はちょっとだけ、誇らしげに胸を張ってみた。
新しい自分が、始まった気がした。
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【小説】太陽のヴェーダ
どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
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