【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(13)
●過去の指輪
肩まで短くなった髪の毛を揺らしながら、美咲は部屋の片付けをしていた。
髪は雪洋が切ってくれた。
予想はしていたが、手先の器用な雪洋は髪を切らせても上手かった。
鏡に自分の顔が映ると、まじまじと見つめて顔がほころんでしまう。自分で言うのも何だが、若々しくなって、かわいくなった――と思う。
「先生さすがだなあ……」
髪に触れては笑みがこぼれる。
気持ちが明るくなると、体も調子がいい。
今日は部屋の片付けをする。
この体が過ごしやすいように。転んでもケガをしないように、余計な物は置かない。角で皮膚を傷つけないよう、物の置き方にも気を配る。
別れた彼からもらった物も、ごく自然に処分する気になれた。
最後に残ったのは、指輪。
ようやくこれも、未練なく手放せる。
サイズも見ないで彼が買ってきたもので、左の薬指にしか合わない。当時はそのことを乙女チックに喜んだものだと苦笑する。
試しに左の薬指へはめてみる。
自分の気持ちを確かめるために。
自信はある。
もう何一つ未練はない。
「うん、ほらね、もう全然名残惜しくない。むしろ早く捨てたいくらいだわ」
指輪の感触が、「未練」から「過去の物」になった。
スッキリしたところで指輪を抜こうとする。
――が、節々のコブに引っかかって抜くのが痛い。はめる時はすんなり入ったのに、どうして抜く時は引っかかるのか。
「……もう少ししてから抜いてみようっと」
だが時間が経てば経つほど、指輪は抜けなくなった。夜になると指はむくみ、もう今日中に抜ける気配はない。
気のせいか、指輪をはめた薬指は他の指より異様に太くなっている。色も他の指と違う。
「先生が一泊の出張でよかった……」
朝になれば抜けるだろう。
痛む指を忘れるように、美咲は眠りに就いた。
「どうしよう……」
翌日、途方に暮れた美咲の声が部屋に漂っていた。
これはもうむくみではない。
――腫れている。
「何とかしなきゃ。ええと、指輪が抜けない時は……石鹸!」
洗面所へ向かい、手にハンドソープを塗りたくる。――長い戦いが始まった。
あっさり抜けると思われた指輪は、関節のコブを越えることができなかった。食器用洗剤やシャンプーでもだめ。
このままでは雪洋が帰ってきてしまう――
と思ったまさにそのとき。
玄関から鍵を開ける音とドアが開く音、そして雪洋の「ただいま」という声が聞こえた。
どうしようどうしようどうしようっ。
青ざめていると、雪洋が美咲を呼んで探し始めた。
「美咲、いないんですかー?」
リビングにも部屋にもいないから心配しているのだろう。
「い……いますっ」
我ながら呆れるほど焦った声。
「具合が悪いんですか?」
雪洋の足がこちらへ向く。
「どうもしてません! 大丈夫です!」
雪洋の足音が一瞬止まり、すぐに足早に洗面所へ向かってきた。――まずい。
戸口に現れた雪洋は開口一番、
「何かありましたね」
さらりと決めつけた。
美咲は手を泡だらけにし、逃げ腰で立ち尽くしている。
「な、なんでそう言い切るんですか。失礼しちゃいますね」
「美咲の『大丈夫』は大丈夫じゃありませんから」
「別に何もありませんよ」
雪洋は腕組みして見つめている。
「あの……なんで見張ってるんですか」
「絶対何か隠している、という主治医のカンです。早くその手を見せなさい」
言いながらツカツカと近付いてくる。
「なんでもありませんから! 先生あっち行っててくださ――」
「……なんですかこれは」
手を取られ泡を流されたあとに出現したのは、指輪をくわえるように腫れ上がった指。
「洗剤で滑らせても抜けなくて……」
美咲が上目遣いで見ると、雪洋は冷たい目で見下ろしていた。
「先生、目が怖い……」
「ばかですか」
「言われると思ってました。昨日のうちに抜かなかったのは、たしかにばかですけど」
「そのことじゃありませんよ」
じゃあ、なんのこと?と雪洋を見上げると、眉間にしわまで寄っている。
「どうせ別れた彼からもらった物でしょう?」
「……はい」
「なんでそんな物はめるんですか。気が知れませんよ」
文句を言いながら食器用洗剤をたっぷりとたらし、美咲の指になじませる。
「あの、未練じゃないですよ。捨てるつもりで最後に一回だけはめてみたら……」
「なんで捨てる物をはめるんですか」
「いや、もう絶対に惑わされない自信があったから、自分を試してみたというか……」
「しかもなんで左の薬指なんですか。本当ばかですよ」
「や、深い意味はなくて。適当に買ってこられて、そしたらこの指にしか……」
「ばかですよ、別れた男の指輪をそんなところにはめるなんて。そんなんじゃ新しい恋だって逃げていきますよ。せっかく髪を切ってかわいらしくなったのに」
ばかばか言われて少しは頭にきてたが、かわいらしくなったと言われては顔が緩んでしまう。
「……すみません」
もう黙っていよう。
まんべんなく指の滑りがよくなったところで、雪洋が指輪を回転させながら上へゆっくりと引っ張り上げた。同時に皮膚を反対側に引っ張り、たるまないようにする。
手先の器用な雪洋だ、順調に抜けるかと思われたが――
「痛いかも……先生」
遠慮がちに訴える。
じろ、と雪洋が一瞥した。
指輪を引っ張り上げる速度が緩まる。
だがそれでも美咲の訴えは止まらない。
「いいいい……っ、やだやだ先生もう無理っ」
必死に雪洋の手をつかむ。
涙目で腰も引ける。
雪洋はため息をつき、手を止めた。
「出かける支度をしなさい。指輪切りに行きますよ」
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【小説】太陽のヴェーダ
どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
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