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「倫理的ビーガン」から自分の軸を探る(後編)

「倫理的ビーガン」から自分の軸を探る(前編)
「倫理的ビーガン」から自分の軸を探る(中編)

前回は「倫理的ビーガン」の思想を叩き台にして、私の中でなんとなく否定的に感じているものをあぶり出した。今回は逆に肯定的に感じているものをあぶり出してみる。
すなわちそれが、無意識に抱いている私の思想のはず。

例えば「食べ物で遊ぶな」や「食べ物を粗末に扱うな」ということ。家族や学校の先生からそう言われて育ってきたから、私の中でそれは当たり前。

しかしスペインのトマト祭りをテレビで見たときには驚いた。大量のトマトをぶつけ合い、街中を真っ赤にして、終わったら盛大に掃除するらしい。
これはもう、不愉快でしかない。

念のためネット検索してみると、使用しているトマトは虫食いなどの「訳あり品」を使っているらしいのだが――そういうことじゃない。たとえ食べられない状態の物になっていたとて、投げるな、ぶつけるな。

私の生協時代の先輩は、どうしても食べ物を処分しなければならないとき、その食べ物に向かって「ごめんなさい」と言い、そっと廃棄していた。
捨てないに越したことはないが、先輩の食べ物への向き合い方は、とても心地良かった。

こういった物へ話しかける行為は、日本古来の「物に魂が宿る」と「言霊」の思想を、現代の日本人も知らず知らずに受け継いでいるのかもしれない。

先輩ももともと食べ物を粗末にしない人なのだと思う。それに加えて職場が職場なので、「生産者の顔が見える」どころじゃないのだ。声や性格、情熱も知っている。愚痴も聞いているし、酔っぱらったときの陽気さも知っている。
そういう愛すべき生産者が苦労して作った物だ。どうしたって粗末には扱えない。

食べ物には敬意を。

  *

「狩り」のこと。
当然これは、命をとる行為。

だけど例えば、『ワイルドライフ』などの野生動物を追った番組で、ライオンが草食動物を狩りで仕留めるのを見ても、憎らしいとは思わない。狩られた草食動物に心が痛むが、ライオンだって幼い我が子のために狩りをしている。

彼らは自然の中で、本能に従い、生きるために狩りをする。とりすぎるということはない。人間は本能ではなく欲に振り回されているから、無駄が多い。

マタギの宗教観も、同じ東北人だからか、私の中であまり違和感はない。
そんなに詳しくはないが――
クマを仕留めたら、山の神に感謝する。クマは山の神からの授かりものだから。仕留めたクマは皆で分け合い、決して粗末には扱わない。

山の神とか川の神とかいうのも、日本古来の信仰からきているのだろう。日本人は「八百万の神」とともに暮らしてきたから。
私も朝日には手を合わせてしまう。仏壇にも手を合わせるが、これら私のお祈りスタイルは、多分、祖母の影響が強い。

「八百万の神」とか「言霊」とか、こういう日本人特有の感覚は好きだ。
やっぱり日本人なんだなぁ、と気付いたとき、嬉しいような安心するような気持ちが、深く心に染みわたる。

  *

「食べ物はバランスよく」
これは母の影響。

ダイエットや健康に関する番組を目にしたとき、いつも最後は母とこう締めくくる。
「結局なんでもバランス良く食べるのが一番なのよ」

栄養バランスなどを表す、六角形などのレーダーチャート。ビーガンの食事をそれで表すとき、恐らく野菜や果物など植物性に関してはバランスの良い数値なのに、動物性のところだけガクッとゼロになるだろう。

それだったら、たとえ小さくても、バランスの良い六角形を描く食べ方の方が自然な気がする。

ちなみにお釈迦様も肉食をしない人ではあったのだが、招かれた食事や托鉢で肉を出された場合は、ちゃんと食べていたとのこと。お釈迦様が生きていた当時のジャイナ教だかの人たちが、非難する内容を文献に残していたとか。

だけどそれは戒律を破ったとかいうことではなくて、相手の気持ちを汲んでのことだろう、という話を聞いたことがある。相手は知らずに肉を出したのだし、出された物を拒んでは無駄になってしまうからと。

お釈迦様は、そういう場合の空気をちゃんと読む人だったらしい。

自分からはもちろん殺生して肉を食べることはしない。だけど頑なに拒む人ではなかった。

それがお釈迦様が説いた「中道」に当たるかはわからないが。「極端から離れなさい」というお釈迦様の言葉、私は好きだ。

  *

などなどのことから見えてくる、私にとってしっくりくる暮らし方とは何か。これを考えたときに浮かんだのは、「里山」。

これも『ワイルドライフ』で里山をテーマにした放送回を見ていて「これだ!」と思った。

その里山に住む人たちは、生態系の一部として暮らしていた。草刈りは全部刈り取らず、一角を残しておく。それを食べにくる昆虫か何かがいるから。
森の下草も時々刈り取る。そうすると埋もれていた植物の種が芽吹いて、森が多様になるから。

――うん、なんか、心地良い。

しかし里山の人たちは、家畜も育てている。これは人間が食べるためのもの。となると前回の論でいくと、立場に上下があるということに。さてこれをどう受け止めるか……。極端に多くの殺生をしているわけではないから良しとするか?
……このへんはまだ考えが足りないな。

でも前回の話で考えると、「大量」ではないから、「機械的」にならない。出荷時には育てた人が毎回、少なからず寂しく思っている。――人間の精神面としては、まず良かろう。

ガンディーも「機械文明か人類の文明か」という話をしている。あまり機械化がすぎると、やっぱり心が荒む。「手仕事」という言葉と、その仕事から作られた物は、心が和む。実際にやるのは大変だけど。

まだ考える余地はあるが、とりあえず答えは出た。
私が理想と思っている暮らし方は、「里山」。
無意識に抱いていた思想は、「里山主義」ということか。

……その暮らし方、もうやってるな。
この数年、持病の再発がなく、心も病むことがなく元気なのは、そういうことなのか。


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