天知る地知る、お天道様が見てる
「四知」という言葉がある。
天知る、地知る、我知る、人知る。
天が知り、地が知り、自分が知り、相手が知っているのに、どうして秘密にできようか。どんなに秘密にしていてもいつかは露見する。――という意味。天網恢恢疎にして漏らさずというわけだ。
日本人としては、「お天道様が見てる」の方がピンとくるだろうか。
だけど近頃ニュースを見ていると、そういうことがピンとこない日本人が増えているのかもなあ、と思うようになった。
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日の出を見ては思わず手を合わせ、山を見ては心を澄ます。井戸には水神様が、台所には火の神様が、家の前の山には氏神様が祭ってある。
多神教とか自然信仰とか大々的に宣言するようなつもりはない。ただ幼い頃から培われてきた、うっすらとした信仰心、畏怖の念が、そこはかとなくあるとは思う。
車の免許を取ったとき、父は私に、
「事故起こしたら絶対に逃げるな。絶対に捕まるから」
と言い聞かせた。あのとき父は日本の警察の捜査力のことを言ったのだが、それでも「絶対に捕まるから逃げるな」という言葉には、お天道様や四知に通じるものを感じる。
こういう「お天道様が見てる」くらいの、うっすらとでも信仰心のようなものを持ち合わせていることが、実は大切なんじゃないかと思う。
不正に関わるとき。日常のちょっとした良くないことでも。「お天道様が見てる」という意識のあるなしが影響してくると思う。
旧約聖書に出てくるソロモン王は、国を治めるために神から知恵を授かったという。神から授かったくらいだから、きっと国一番の知恵者になったのだろう。
私は自分が一番の知恵者にはなりたくない。末っ子だからかもしれないが、自分のそばには、自分より上位の者がいてほしい。悩みを相談したり、叱ってもらったり、正しい道へ導いてほしい。憧れたり、師匠として頼ったり。常に誰かを追いかけて生きたい。私がコムズカシイ話をしても、余裕で受け止めてくれる人がいてほしい。
ソロモン王は寂しくはなかったのだろうか。
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「お天道様」のような上位の存在を持ち合わせていない現代の日本人も、もしかしたらこの広い世界に、自分一人しかいないような感覚でいるのではないだろうか。
だから不正を起こしたり、事故を起こしたあと逃げてしまったりする。人様の迷惑になることを平気でするし、それがどう迷惑なのかもわからないでいる。自分より上位の存在を感じていないから。
例えるなら部活の先輩のような立ち居振る舞いで、他の者は後輩扱い。横柄に振る舞う。だけど知らないうちに自分のその行動を監督やコーチが見ていて、レギュラーから外されるというようなこと。
「天知る、地知る」「お天道様が見てる」という、うっすらとした信仰心を持っていたら、起こらずに済んだことも、もしかしたらあるかもしれない。
素晴らしい朝日を見ると、時々そんなことを考える。