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人生2周目、床上げは済んでいる

外で働くことになった。
フルタイムで働くのは十数年ぶり。

30代までの私だったらきっと、体が痛くならないだろうか、倒れないだろうか、持病が再発しないだろうか――と不安が募り、順応できずに潰れ、「早く辞めたい」となっただろう。

だけど今の私は、一周まわって景色が変わった。ちょっとは緊張しているが、うまくやっていけそうな気がする。

不安要素はすでに潰してきた。
草刈りで体力はつけておいた。地元で約20日間開催されるイベントに「お試し社会復帰」と称して参加し、成功体験も積んできた。
不安は1つずつ、自信へかえた。

人付き合いも病んでいた頃は嫌でたまらなかったが、今は「家族を増やす」「楽園を広げる」という、愛しい感覚が強くなっている。

今私は、とても安らかだ。
大丈夫、きっとうまくやっていける。

最初の1週間、あるいは1ヶ月くらいは、慣れなくて体は疲れるだろう。それでも上手くコントロールして、決して再発はさせない。

これまでは周りに迷惑をかけないように「短期で駆け抜ける」働き方をしてきたが、これからは「長く続けられる」ステージへ、私は行く。

  *

ドラマ『科捜研の女』で、入院した日野所長が語ったことが、今でも心に残っている。

1番ストレスになるのは「人間関係」、2番目が「業務内容」、3番目が「労働時間」。だからまずは人間関係が大切。改革をする場合この順番を守らないと、心も身体も壊れちゃう。

一字一句は覚えてないが、たしかこんな感じの内容。人間関係さえ良好なら、他のことはあまりストレスにはならない。逆に人間関係が悪いと、たとえ好きな仕事をしていても、心と体は壊れてしまう。――それは私も、身をもって経験している。

私が最初に就職した生協では、アットホームな人間関係のおかげで、大抵のことは苦にはならなかった。

プレハブに毛の生えた程度の、狭くて古い事務所。カタログ用に撮影した料理は、夕飯代わりにみんなで食べて残業した。
外部から注意されそうな労働時間だったけど、「労働」とは思わなかった。

ちゃんと叱ってくれるし、喜びも分かち合う。同じ釜の飯を食った仲。同僚はみんな、本当に家族のような存在だった。

だけど持病を発症したきっかけもまた、この職場なのである。

博識で無邪気だった部長が大病し、入院。
無事退院したものの、だんだんと人柄が変化し、無責任、他人事――といった面が目立ってくる。

同じ時期、すべてのセンターを統合し、移転することになった。新築の大きくてきれいな建物。1階には配送センターの職員がすべて入り、とてもにぎやかに。一方2階は、私たち商品部が少ない人数で、「都会のオフィス」みたいなきれいでだだっ広い空間を使っていた。

――いよいよ何か、ズレを感じた。
広い空間に点在する私たち。今までのように独り言へツッコミを入れられる距離ではない。

部長は周りとどんどん噛み合わなくなり、先輩や同期の子は結婚してどんどん退職していき、私は部長がどんどん大嫌いになり――
気付いたら、かつての「家族」は崩壊していた。そして私の体は激痛に襲われ、以後15年ほど苦しめられる。

仕事はもはや、苦痛でしかない。
仕事中だけ頭が痛くなった。
まともに生活できないほど体が痛い。
仕事中に涙が止まらなくなった。

他部署の職員と雑談していたとき、
「仕事の話になったら震え始めたけど。それ、気付いてる?」
と指摘された。
まったく気付いていなかった。

「帰ってきていいんだよ」
電話で母に言われるまで、「実家に帰る」という選択肢すら思いつかなかった。
私の体調不良にようやく病名がついたのは、Uターンしてから5年ほど経ってからのことである。

「あんだ、自分で病気作ったよ」
母の言葉は、そのとおりだと思った。

  *

病気を発症した当時の状況からは、多くを学んだ。科捜研の日野所長の言葉は、まさに言い得て妙である。

2018年の入退院を最後に、なぜか再発もなく、私の体は二度と激痛に襲われることもなくなった。

持病がひどかった頃は人付き合いが煩わしかったが、痛くないとそれだけでしあわせを感じる。人間関係も良好だし、良好であろうと努めている。

――あの頃部長も大病したから、体がつらくて、人間関係が悪化していったのかもしれないなと、今なら落ち着いて想像することができる。

いいかげん病弱な人生は飽きた。
もうあの頃に戻る気はない。
私は次のステージへ行く。

いよいよ社会復帰。
新しい職場は、楽しかった生協時代を思い出すようなこじんまりとした建物で、あの頃よりさらに少ない人数。

――すっごいワクワクする。
新しい家族の予感。
その家族のために、私も早く役に立ちたい。

床上げはとっくに済んでいる。
人生2周目の始まりだ。


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