【小説】太陽のヴェーダ 先生が私に教えてくれたこと(3)
「体の痛みはいつからですか?」
「五、六年前から……」
「この紫斑は?」
「一年くらい前から時々。今は、毎日……」
診察台で仰向けになったまま、美咲は答えた。
「病院へは?」
「先月、個人病院から出された薬で一ヶ月様子をみましたけど、何も変わりません」
「先月? 一年前と、五、六年前は?」
「……五年前までは行ってましたけど、それ以降、病院へは行ってません」
あからさまに美咲の声のトーンが落ちた。
雪洋から目をそらす。美咲の口元は笑っていたが、目はひどく陰鬱だった。
何で私がこんな目に。
失望、憎しみ、狂気に似た怒りがとぐろを巻いて、美咲の拳を振るわせる。
雪洋は目を細めてその様子を見つめていた。
「どうして病院へ行かなかったんですか?」
その言葉に目尻がぴくっと痙攣する。
「どうせ『異常無し』とか『原因不明』って言われておしまいですから。今回は同僚に行けとしつこく言われたから来たまでで。そうでなければ――」
――そうでなければ、誰が病院なんか行くものか。
あちこちおかしいのはいつものことだし、仕事も忙しかった。医者に診せたところで、何かが変わるとは思えなかった。
唇を噛んでいると、外の路地から友達を呼ぶ少女の明るい笑い声が聞こえた。
声につられて窓の方へ顔を向ける。
横になっているから声の主は見えないが、空が見えた。
吸い込まれそうな真っ青な空に、少女の声。
部活を終えて帰宅途中だろうか。
声を上げながら弾むように路地を駆け抜ける。
少女たちの声が、足音とともに遠くなっていった。
走れなくなってから、もう何年経つだろう。
足は早い方だった。
なのにいつからか、まともに歩くことさえできなくなった。
気がつけば二十七歳。
女性として輝くはずだった時は、泣きながら痛みに屈する日々でしかない。
窓の四角い空を見つめ続ける。
もうそこに、元気な少女はいないのに――
弱い風が木々をかすかに揺らす。
鳥が甲高く鳴いて、木の陰から飛び立った。
その音で美咲の意識が急に現実に引き戻され、慌てて雪洋へ向き直る。
「すみません、お話の途中だったのにボーっとして……」
何の話をしていたのだったか……。
随分と長い間、ぼんやりしていた気がする。
雪洋を見ると、さして怒った様子もない。
穏やかに見守っていた。
「所々傷もありますね。膝とくるぶしと肘と……。随分こじれている。というより潰瘍ですねこれは。これだけでも相当痛いでしょう」
「体重がかかるところ、ぶつけやすいところはすぐコブになったり傷になったりします。すんなり治ったためしがありません」
「そうですか……。今度は手を見せてください」
美咲の手を取り、じっくりと検分する。
シモヤケのように所々赤くなり、ペンダコのようにぼこぼことコブがある指。
「さわられて痛くないですか?」
「痛くないです。でも物にぶつけた時は、軽くでもすごく痛いです。あと指先が腫れることもあります」
かすかにうなるような声を漏らして、雪洋がうなずいた。
「天野さん、他には?」
「え?」
「他に何か気になるところありませんか? おかしいと思う症状、全部言ってください」
美咲は目を見開いた。
すぐに質問に答えることができない。
おかしいと思う症状なんて数え切れないほどある。それなのに今までどの医者も興味を持ってくれなかった。誰一人、そんな言葉はかけてくれなかった。
目の前の医者――高坂雪洋だけが、初めて聞いてくれた。
この先生は、ちゃんと私を見てくれる。
検査結果しか見ない今までの医者とは違う。
今日この先生と出会ったことで、これから私は、何か変われる気がする。
期待と運命のようなものを、美咲は雪洋に強く感じずにはいられなかった。
何から話したらいいか。
嬉しくて頭の中がまとまらない。
涙も止めることができない。
「精神的にもだいぶ参っているようですね。涙もろくていらっしゃる」
「だって、今までそんな……言ってくれる、お医者さ……いなか……っ」
すみません、と嗚咽まじりに言って涙を拭き、何とか落ち着いて質問に答える。
「他には関節が痛いです。膝、足首、肘……。手首や手の甲も、朝起きたらなんでか腫れてることがあります。全身の筋肉が痛くてだるい時もあります。長時間体重がかかったところも痛くなったり、コブが出たり……。足の裏も腫れぼったくなって、立っているだけでも辛いです」
いつも帰宅すると、倒れるだけだった。
「今思いつく症状は……とりあえずこんなところです」
一息に話し、美咲は大きく息を吐いた。
ちらりと目線を上げると、雪洋は眉をひそめ、真剣な面持ちで美咲の体を見つめている。
「なるほど。あとはこの網状皮斑ですね」
「なんですか?」
モウジョウヒハン、と滑舌よく言って、雪洋が美咲の足の甲を指した。
上体を起こして自分の足を見る。
「足の甲が網目模様になっているでしょう? 肌の色も悪い」
「言われてみれば網状ですね……。でも色、悪いですか? 普通の肌色に見えますけど」
雪洋は靴下を片方脱いで診察台に乗せ、美咲の足と並べて見せた。
「どうですか? 私の足と比べてみて」
並べられて初めて気付く。美咲の足は、プールから上がった小学生の唇のように青紫がかっていた。一方雪洋の足は、血色のよい健康的な肌色をしている。
「先生、肌きれいですね」
「羨ましいですか?」
……しれっとして案外言ってくれる。
見かけによらない雪洋の一面に口端が引きつった。
「天野さんは普段どのようなお仕事を?」
「ええと……基本的にはパソコン仕事です」
「座り仕事ですか。足は下げっぱなしですよね。今は安静にしてほしいところなんですが。休めないですか?」
え、と思わず声を上げる。
「無理です」と答えると、すぐに「なぜ?」と返された。
「なぜって仕事が遅れますから」
「他に代わりは?」
「無理です。専門的な仕事だし少人数で回してるし……。それに後輩に仕事を教えなきゃいけないので、通常業務と教育の両方で――とにかく余裕がないんです」
休むなんて無理だ。
私がやらなければ。
「それは上にも問題があるような気がしますがねえ。倒れた時に代わりが利かないというのはいかがなものか」
「でも先生だって一人でしょう? 普通、他にスタッフがいそうなものですけど」
一瞬の間をおいて、雪洋が声を上げて笑った。
「スタッフは他にもいますよ。でも土曜日の午後は休診なんでね、スタッフは帰しました」
「じゃあどうして私の予約……。もしかして無理に――」
雪洋が片手を挙げて制す。
「単なる私の気まぐれです。心配しないでください」
にっこりと微笑むと、雪洋は美咲の指に目を向けた。
「お話聞いてると、何かはおかしいんですよね……」
雪洋の言葉はことごとく嬉しかった。
検査結果だけで「異常無し」と言う医者たちとは違う。話を聞いて、体を見て、ちゃんとおかしいと言ってくれる。
はっきり突き止められなくてもいい。
異常が無いことが良いのではない。
きちんと向き合ってくれているということが、何より嬉しいのだ。
こんな状況だというのに、美咲は顔がほころぶのを止められなかった。
嬉し涙まで出てくる。
「天野さん。私からひとつ、提案があるのですが」
「……また転院ですか?」
一気に顔が曇る。
せっかく導いてくれる医者に巡り会えたと思っていたのに。
「いいえ、そうではありません。むしろ逆です」
雪洋は微笑みながら、しかし見る者を引きつける強い目で美咲を見据えた。
「ここにしばらく、住んでみませんか?」
すぐには言われたことの意味がわからなかった。
二回ほど目をしばたかせる。
「住む? ……ええと、入院ってことでしょうか?」
「いえ、入院施設はないのでね。医院の建屋ではなく、私が普段生活している母屋の、ごく普通の部屋に住んでもらいます」
それは、つまり――
「……同居?」
「同居でも合宿でも、その辺は天野さんの好きな呼び方で構いませんよ」
雪洋が悪意のない顔でにっこりと微笑む。
「目的は生活のサポートと改善、それと体質もできる限りよい方へ向ける、といったところでしょうか。もちろん治療と観察もします」
美咲の眉根が寄る。
「あの、こちらではそういう診療方法をよくやるんですか?」
「いいえ。私一人ではさすがに入院患者まで手が回りませんから、外来のみです」
「じゃあどうして私にはここに住めと?」
「そうすることが必要だと思ったからです。天野さん、顔に不信感が表れてますよ」
雪洋がおもしろそうに笑った。
「不安ですか? 医師免許ならちゃんと持ってますよ。見せましょうか」
「いえ、そうじゃなくて」
美咲は眉間にしわを寄せ、額に手を当てた。
「バリアフリーだから生活が楽になりますよ」
「何言ってんですか。玄関のドア、重くて開けるの苦労しましたよ」
「ああ、それは失礼しました。でも母屋は軽いドアですから」
「そりゃよかった」
「じゃ、決まりで」
「いやいや、おかしくないですか? 常識で考えて、何かがおかしくないですか?」
「おかしいですか?」
「おかしいですよ」
「大丈夫。私、変わり者って呼ばれてましたから」
何が大丈夫なんだか。
大体変わり者の医者って大丈夫なのか。
「年頃の男女が一つ屋根の下というのが気になりますか?」
「まあそうですね。普通そうですよね」
「ご心配なく。女性より皮膚異常の方が興味ありますから」
「わあ安心した。――ってそうじゃなくて!」
「料理は得意ですからご心配なく。天野さんはとにかく療養に励んでください。本当は仕事も長期休暇取るか辞めるかしてほしいんですけど」
「この不景気に辞めろと? 生活できませんよ」
「大丈夫です。あなた一人くらいは養えますから」
「犬や猫じゃあるまいし、ただお世話になるなんてできません。どのくらいここで過ごすんですか?」
「最低一年ですね」
「一年っ?」
「四季を一通り過ごしてみないと、体への影響がわからないでしょう? あとは天野さんの体調次第で一年半になるか二年になるか――。アパートなら一旦引き払った方がいいかも知れませんね。家賃も無駄になりますし」
「いや、ちょっと待ってください……」
「最低一年、遊んで暮らすチャンスですよ?」
そんなばかな話があるか。
「先生、今は再就職の方が難しい世の中なんですよ」
「そういう世の中だから、あなたみたいに無理して働く人が出てくるんですよ。国ももう少し頑張ってもらわないと困りますね。天野さんは心配しないで私に任せてください」
「今日初めて会った先生に丸ごと面倒みてもらうとか無理です。しかも一年!」
「損する性格ですねえ」
「……自覚はしてます。でも生活費くらいは出さないと」
「生活費を払わないことがストレスになるというなら、受け取りましょうか」
「受け取ってください! 100%おんぶに抱っこなんて肩身が狭すぎます!」
気がつくと雪洋が嬉しそうに笑みを漏らしていた。
「良かった。天野さんの中ではもう答えが決まっているようですね」
はっ、と我に返って口が開く。
「いやっ、今のはあくまで同居したらという仮定の話で……」
拒む姿勢を崩さない美咲に、雪洋が「それとも」と追い討ちをかける。
「どなたか家で待っている方でもいらっしゃいますか?」
一瞬詰まってから「……いませんけど」と答えると、間髪を容れずに雪洋が「でしょうね」と返した。
「でしょうねって、失礼しちゃいますね。なんでいないって決めつけるんですか」
「イメージです」
口端が引きつる。
どれだけ失礼なイメージを抱いているんだこの医者は。
「失礼ながら、そんなに卑屈な表情で四六時中いられたら、器が小さく理解のない男性の場合、すぐに離れてしまうんじゃないかと想像しました」
本当に失礼極まりない。
でも、間違ってはいない。
「……常識で考えて、普通のお医者さんはこういうことしませんよね。治療のためならわざわざこんなことしなくても、他の病院に移して入院させますよね?」
「常識から外れていると不安ですか?」
「不安です」
疑いのまなざしを向ける。
雪洋はそれをしっかりと受け止め、美咲を見つめた。
「常識的な治療しかしなかったら、天野さんはきっと、今より悪くなりますよ」
静かに語る雪洋の言葉にはっとする。
「普通の医者、普通の病院だったら、入院させてくれません。今は昔に比べて随分入院しづらい環境になったものです。会社を休めない、辞められないのなら、尚更ここで生活するべきです。今のその状況で、一人で普通の生活ができますか?」
唇を噛む。
雪洋が続ける。
「今までと同じ生活を続けて、良くなると思いますか?」
雪洋の言うことは、至極もっともだ。
思い出せ五年前のことを。
今の自分はあの時よりも明らかに悪化している。
ならばこれから五年後は? その先は?
この体はどうなってゆくのか。
だったら――
美咲の中でひとつの答えがまとまり始める。
痛みに歯を食いしばって体を起こし、美咲は雪洋を見据えた。
「『原因不明』『異常無し』しか言わない医者には辟易しました。だからって一人じゃ治す方法もわからない。そうですよね、医者も私も、今までと同じでは何も変わりませんよね」
泣き崩れたい気持ちに負けないように、にらむように雪洋を見つめる。
「先生なら、私を、見放しませんか?」
心からの問いに、声が揺れる。
「先生なら、五年前の医者たちのように、私を見捨てたりしませんかっ?」
声は悲痛な叫びとなった。
「決して、あなたを見捨てません」
雪洋が静かに答える。
「約束します」
その言葉を聞いて、美咲の目から大粒の涙がボロボロとあふれ出た。
心の壁がまた一枚、はがれ落ちてゆく。
「あとは、あなたがどうしたいかです」
どうしたいか――
「異常無し」と言った医者に失望し、愛想笑いで苦痛を隠してきた日々。
でも今度は違う。
初めて異常だと言ってくれる医者に出会えた。
この医者の前では強がりも愛想笑いも必要ない。
失望することもない。
あるのは信頼と、希望。
「天野さん、あなたの気持ちを聞かせてください」
心は決まった。もう迷いはない。
目の前の医者に伝えたいことはただ一つ。
美咲はあふれ出る思いに嗚咽し、倒れこむように雪洋へしがみついた。
「助けて……ください……っ」
それが、長い間言いたくても言えずにいた、美咲の本心。
泣き崩れる美咲を、雪洋はしっかりと受け止めた。
「もちろんです」
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どう見ても異常があるのに「異常なし」しか言わない医者たちに失望した美咲。悪化した美咲に手を差し伸べたのは、こうさか医院の若き院長、高坂雪洋…
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