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「倫理的ビーガン」から自分の軸を探る(中編)

「倫理的ビーガン」から自分の軸を探る(前編)

倫理的ビーガン肯定派、反対派、そして食べられる側。この3つの視点から本を読み進め、考えを深めていくうちに、私の中でそこはかとなく湧き始めた違和感。

――これは決して、この場で倫理的ビーガンやそれぞれの著者を非難したいという話ではない。私が違和感を抱いたからといってそれを押しつけるつもりもない。思想や生き方はそれぞれにあって然るべきである。
ここでの目的は、読書中に湧き出た違和感をより具体的にすることで、私が無意識に抱いている思想がなんであるかをあぶり出すことだ。

この違和感を突き詰めていくと、ざっくり3つのテーマが浮かび上がった。

1.人工的な食品について。
2.「大量」について。
3.「保護」について。

  *

まず人工的な食品――サプリや添加物、薬っぽい味がするものなどについて、私の違和感を整理する。

私は田舎育ちで、自家製の野菜と、親戚のリンゴ農家からもらったリンゴを食べて大きくなった。もちろんスーパーで買うものもあるが、母が「なるべく添加物を避けて、自然のものを食べよう」という人だったので、カップラーメンやスナック菓子などは、年に数えるくらいしか食べさせてもらえない。

そうして大きくなって都会暮らしを始めた頃に気付いたのは、私の味覚・嗅覚が人工的な風味に対して敏感に反応し、拒絶するように仕上がっていたこと。

だから本の中で「動物性からしか得られない栄養素が不足したら、サプリで補えば良い」云々と当たり前のように語られていたときに、まず最初の違和感を覚えた。

「自然のもの」という観点に立った場合。サプリで補わなきゃいけないという時点ですでに不自然な食事であり、健康面で問題なのではなかろうか。その食事はきっと、合っていない。

動物からDNAかなんかを取り出して大量のクローンを生み出せば、殺さずとも肉を食べ続けられる云々という冗談っぽい話もあった。
私としてはもちろん、そんな改造めいたやり方はもってのほかである。――と思うあたり、やはり私は自然派寄りなのだろう。

それからスーパーで買い物するときに、動物性のものが含まれていないか原材料を確認する行為について。

私も生協職員だったときの名残で、調味料の原材料や、牛乳の殺菌方法をついつい確認してしまう。こういうものは実際に口へ入れれば風味でなんとなくわかるものだが、さすがに買い物中にそんなことはできない。故にいちいち表示を確認しなければならない。

そもそも、なんでこんな確認作業が必要なのか。
「素直じゃない食品」が多いからである。

私も試しにビーガンになりきって買い物をしてみたことがあるが、「こんなものにまで動物性のものが入ってるのか!」と驚くことが多かった。

これは動物性に限ったことではない。
私の姉は、甲状腺の関係で大好きな海藻類を食べてはいけない体になってしまった。それなのにおよそ海藻類など関係なさそうな食品にまで、昆布エキスが入っていて愕然とした。
濃縮かつおだしにも昆布エキスが入っていた。なんでだ。かつお節だけで勝負してくれよ。

――というふうに、世の中には「素直じゃない食品」があふれ返っていて、それ故にビーガンも私も姉も、原材料をいちいち確認しなければならないのである。

  *

次は、「大量」について。
大量生産、大量消費、大量廃棄。食用に育てられた動物の場合は、大量屠殺も関わってくる。
そして大量に扱うとなると、工場的、機械的になってゆく。

本の中で、屠殺場の作業員が暴力的になって家族にも暴力をふるうようになる云々という話があった。どこまで本当かは私にはわからない。そういう人もいるかもしれないし、そうじゃない人もいるかもしれない。

だけど仮に、屠殺作業をすることで本当に暴力性が増すのだとしたら。
たしかに、作業内容はショッキングではある。
だけどそのことよりも、「大量に」「機械的に」やり続けることの方が、より問題ではないかと思う。

例えば――
こんな例え話はどうかと思うが。

ここに心身ともに健康な青年Aがいるとして。
しかし人を一人、殺してしまった。
憎くて殺したのではない。自分の意志で殺したのでもない。逆らえない状況によって、彼は実行してしまう。
後にも先にも殺したのはそのひとりだけ。だけど青年Aは、とても後悔し、自分を責めたり、泣いたり、落ち込んだりする。やがてまた元気を取り戻しても、思い出すたびに深く悩み、心の傷は一生消えることはない。

同じように、心身ともに健康な青年Bもいるとして。彼もまた、逆らえない状況によって人を殺してしまう。
しかし青年Bの場合は、ひとりではない。戦争に参加し、たくさんの人を殺した。
青年Bは最初こそ葛藤したものの、何人も何人も殺していくうちに、機械的にこなせるようになっていった。やがて心は傷つかなくなり、戦争中は人を殺すのが当たり前になっていった。

――こうやってみると、青年Aの方がとても苦しい精神状態に思う。苦しかろう、つらかろう。だけどこれは、とても「人間的な」苦しみ方。一方青年Bは、どんどん適応し、彼自身はストレスが減っていくように見える。
だけど私には、彼が「機械的」な心になってしまったことで、青年Aよりも良くない精神状態になったのではと思う。

心がついていけなくなったとき、人は自分を失うのではないだろうか。
だから私は、「大量」に「機械的」にやり続けることの方が問題なのでは、と思うのだ。

でもまぁ、私が勝手に考えた例え話だからなんとも言えないが。

しかも――話を屠殺作業員に戻すが――人間が食うために大量に屠殺したものの、規格外とか鮮度が落ちたとか作りすぎたなどの理由から、大量廃棄されたりもするわけで。
そういうことを考え始めると、自分がやっているこの仕事ってなんなんだろう、と思い悩んでしまいそうだし、それをきっかけに荒れてしまうことだってあるかもしれない。

――こんな感じで、私なりになるべく具体的に想像しながら本を読んでいると、「なるほどたしかに人間はダメだ。私も倫理的ビーガンになるべきでは……」と思い始めてしまう。

が、やはりまた違和感が生じる。
本当に、「命を食べることは罪」だろうか?

もちろん、人間用に、機械的に、大量生産・大量屠殺することはどうかと思う(「生産」って言い方もどうかと思う)。
では大量じゃない場合はどうか。

いや、罪だとしよう。
仏教ではお釈迦様が殺生するなって言ってるし、キリスト教でも人間は罪の状態って言ってるし(そういう意味じゃないかもしれないが)。
きっと人間は食べて生きている限り、罪の状態なのだろう。

むしろ罪でいいのかもしれない。
罪なのだと一生思いながら、生きるために命をいただけばいい。感謝したり悩んだりしながら、生きて、まっとうして、死んでいったらいい。
ただし無駄食いはいけない。

食べられる側の視点で想像してみると――
たとえ無駄食いじゃなく、感謝の祈りを捧げるのだとしても、「どうせ殺して食うんだろ。冗談じゃないよ」という気持ちになる。

しかしより深く思惟してみると、「大量生産」と「狩り」の違いに突き当たった。――これについては後述する。

こんなことを考えながら本を読み進めていたので、かなり脳がジンジンと疲労したのだが。最後にもうひとつ、大きな違和感が残っている。

  *

3つめのテーマ。「保護」。
「動物保護」や「環境保護」についてである。

正直、この件に関してはうまく言語化できるか自信がない。

もしかしたら不愉快に思う方もいらっしゃるかもしれないが、私としては「動物保護」も「環境保護」も、活動をしていらっしゃる方々を非難するつもりで言っているのではない。
何度でも言うが、これは私の無意識の思想がなんなのかあぶり出すためのプロセスなので、あしからずご理解いただきたい。

あくまで私個人が感じたこととして、恐縮しつつ、なんとか言語化に努めてみようと思う。

今回、本を読み進め、深く思惟するうちに、「動物を保護する」「環境を保護する」という考え方に、なんとも言えない違和感を覚えてしまった。いいことのはずなのに。

その違和感を頑張って言語化するならば、「傲慢」とか「エゴ」が近いだろうか(ごめんなさい)。乱暴な言い方をすると――勝手に自分の倫理観で判断して、「動物のため」「環境のため」とのたまう、みたいな感じだろうか(本当にごめんなさい)。

人間同士で例えると、「あなたのためを思って」とか「守ってあげるね」などと言われると、かえって不愉快に思うアレだ。
なぜ不愉快に思うのか――多分、そう言ってくる人のエゴを感じてしまうから。そしてそこはかとなく、立ち位置に上下を感じてしまうから。

だから「動物保護」「環境保護」という言葉に違和感を覚えてしまうのかもしれない。

じゃあ他になんと言い表したらいいんだ、と考えてみる。「動物〇〇」「自然〇〇」という言葉ではなく、「人間」をどうこうする視点で言葉を選んだらいいだろうか。「人間〇〇」……教育する、みたいな意味合いの言葉とかを。……うーん、難しい。

「保護する」という考え方に実感が湧かないとはいえ、決して動物も自然も雑に扱ってよいとは思っていない。
なんというか、結局のところ、動物も自然も、人間が敵う相手ではないと私は思っている。

毎年クマに襲われる岩手県民。草刈り、雪かき、凍結、東日本大震災……。敵うわけがない。だから「保護する」という言葉に違和感を抱くのだろう。
これは私の育った環境の影響とか、単なる想像力不足と考えられなくもないことだが。

――ここでさっきの「大量生産」と「狩り」の違いの話に繋がる。

「大量生産」はつまり、人間が上、動物が下に位置付けられている。ここでの動物とはすなわち、人間のために産ませ、飼育した「食用」のこと。

一方「狩り」は、人間も動物も同じ高さにいる。
食ったり、食われたり、うまく共存したり。
上も下もない。同じ生態系で生きている。
そのことに、違和感は湧いてこない。

綺麗事にも聞こえるが、私だって田舎暮らしだ。大きなカモシカやキツネなどに何度も出くわしている。襲われたことはないにしろ、結構ドキッとする。怖いもんは怖い。
同じ生態系で生きるとは、こういう怖さがついてまわる。

だけど同時に、「一生獣が怖いと思いながら生きていけ」とも思う。
「恐怖」はそりゃ嫌だけど。
「畏怖」は必要だと私は思う。動物にも、自然にも。

  *

今回は、そこはかとなく湧き起こる違和感を具体化し、自分が嫌だと感じていることが何かを明らかにした。

次回の「後編」では、嫌だと感じていることを踏まえて、じゃあ逆にどうだったら違和感なく納得するのかをまとめてみる。
それがすなわち、私が無意識に抱いている思想なのである。




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