輪廻転生もこう考えたらあり得る話
お釈迦様というのは、とてもロジカルで、リアリストで、神秘的なことや霊的なものもまったくなく、宗教者というよりは哲学者や心理学者のようだったらしい。
日本で仏教というと、先祖を大切にし、死者を丁寧に弔うというイメージがあるが、これは中国経由で仏教が伝わったため、儒教の影響を受けてこういうスタイルになったようだ。
お釈迦様はむしろ、「死んだら土に還るだけ。以上」みたいな考えだったようで。いっそ清々しいが、儒教風味の仏教で育った日本人としては、ちょっとビックリである。
そんなクールなお釈迦様だが、輪廻転生は信じていたようだ。死後の世界のことは考えたってわからないんだから悩むだけムダみたいなことを言っているお釈迦様が、輪廻転生を語っていたのは意外だし、なんでだろうと思ってしまう。
だけど、こう考えたらどうだろう。
生をまっとうしたあと、この身はやがて土へと還る。微生物に分解され、細かく、小さく、粒子となり、もはや元は人だったこともわからないような存在になる。
一部は土に留まり、一部は水へ溶け、また一部は風で空へ舞い上がることもあるだろう。なんらかの成分となり、植物に吸い上げられたり動物に食べられれば、その体を形成する一部となる。岩肌へ付着すれば、その岩の一部となる。
土へ還り、循環し、別の生命の一部となること。
これもまた、「生まれ変わり」なのではないだろうか。
お釈迦様がこういう意味で言っていたかはわからない。だけどこういう考え方なら、輪廻転生も当たり前にあることとして受け入れられる。
この輪廻転生論でいくと、私が死んだあと、この世界のあらゆるところに、私の粒子が存在することになる。また、過去に滅んだ者たちの粒子が、今の私やこの世界を作っていることにもなる。
私は、世界と繋がっている。
過去にも未来にも繋がっている。
まったく知らない他人のあの人たちにも、私の一部が流れ込んでいるかもしれない。
そして同じように、私にもあの人たちの一部が流れ込んでいるかもしれない。
私たちには、同じものが流れ込んでいるのかもしれない。
私たちは、時空を超えたすべての存在と繋がっているということか。
そう考えたら、たとえ意地悪な人が現れたとしても、少しは愛おしく思えるかもしれない。
「ああ、反抗期な自分だな」
「そんなときもあるよね」
と微笑ましく見守ることができるかもしれない。
では自分を殺そうとする人が現れた場合はどうか。かわいい反抗期とは一線を画す。これは例えるなら、自分の愛する親や子が犯罪に手を染めようとしている状況に当たるか。ならば犯罪者にならないよう、情愛でもって止めるのがよろしいか。
最悪の場合、もうだめだ殺されるわこれ、っていうときはどうすべきか。過ちを犯そうとしている我が子のため、命をかけて諭す母や師のようになればいいのか。――はたして自分が今から殺されるってときに、そんな境地に至れるだろうか。
相手が人じゃなくても、例えば崖で足を滑らせたとき、海で溺れてしまったときなども、この私流の輪廻転生論を思い出すことができたなら、あらゆる恐怖や苦しみから、少しは解放されるだろうか。母なる大地に還るだけなのだと。
その境地に到達できれば、どんな状況でも動じず、安らかになれるのだろうけど――こんな万が一のことをシミュレーションしてしまうのは、昔からの私の癖である。
願わくは穏やかに人生をまっとうしますように。
今年亡くなった父のお骨は、まだお墓の中にある。だけどお骨から飛散しているかもしれない細かな粒子や、火葬のときに出た灰などは、もう母なる大地に還っているかもしれない。あるいは風に乗って、自由に飛びまわっているのかもしれない。
そうしたら風が流れたときに、ふと、父の存在を感じるかもしれないなあ。