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反芻の果てに

書きたい
書けない
なんで書けないんだろう
なんで自分を出すことがこんなにも怖いんだろう
そんなことを考えて、反芻して、いつのまにか一年が過ぎていた。
もともと感情やその感情の理由を反芻して考え込む癖があって、時間の流れがスローペースではあるのだけれど、まさか一年も考え込んでしまうとは自分でも思わなかった。
けれど、こうして、やっぱり書こうと思ったのは、この激変してしまった世界のせいもあるのかもしれない。


薄曇りでも良いや、と言葉にしてからも、どうしても書けなかったのは、“自分”というものを出したときに、受け入れてもらった経験が乏しいからだ。
自分の気持ちを書きたくて登録したのに、“役に立つもの”ではない“自分”を表に出すことが怖かった。
けれど、そんなこと怖がる必要はなかったんだと、今は思う。
私はもともとそんなにすごい人間ではない。
背伸びしたって、しかたなかったのだ。
そもそも、どこにも出せない自分の心を綴るためにこの場所を作ったのに、作ったことにはしゃいでしまって、背伸びしたまま戻れなくなって、疲れてバテてしまったんだなぁ、と、やっと今気付いたんだ。

私には、ああ、話したいな、と思ったときに、ねぇねぇ、と話しかけられる人がいない。
用事なんてなんにもないのに話しかけても良いのかな、とか、そもそも私だけが友人と思っているだけかもしれない、とか、ついつい考えてしまって、自分のなかだけでしまいこんでいた。
昔はこういうときどうしていたんだったっけ、と考えてみたら、物語や詩にして吐き出していたんだと思い出した。昔も今も、ひとりだったから。
昔から外に出せなかったこれを、ここに書けば良いんじゃないかな。
ねぇねぇ聞いて? を、書いてしまえば良いんじゃないかな。
そう思えるようになるまでかなりかかってしまったけど、これからはそんな気持ちで書いていこうと思う。

もうひとつ、こんな生と死が近くになってしまった世界になって、考え始めたことがある。
もし、今、自分が死んでしまったら、“私”を知ってくれてる人はとてもとても少ないんだなぁ、ということだ。
寂しがりやなくせに、人と一緒にいたいくせに、人と関わることが下手で、ずっと水の檻の中から世界に触れていたけれど、本当は、ずっと誰かと自分の思いを共有したかった。
特に、恩師との思い出は、おそらく自分しか発信できないことで、自分だけに留めておくには惜しいものだと思う。
自分の過去なんて、誰が読みたいと思うだろう。
でも、書いてみようかと思う。

きっと、私の“書く”の原動力は、寂しさだ。
誰かに聞いてほしくて、でも誰にも言えなくて。
だから文章にしていたんだ。
誰にも見せないものだったけれど、怖いけれど、ここに出してみよう。

ずっと、誰かを欲していた。
片隅で良いから、居場所がほしかった。
縮こまっていたら、誰にも見つけてもらえないから、ちょっとずつ、この場所でさえずってみよう。

さぁ、再出発だ。

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