2020年12月31日の比嘉大吾、そして井岡一翔
17時半、比嘉大吾の右アッパーのダブルが相手をなぎ倒した。そしてその1時間後。井岡一翔の左フックが無敗の3階級王者の顎を打ち抜いた。
2020年の大晦日。特別な戦いがあった、それも2戦連続で。
番組で関わった比嘉の試合は一応見ないとな、初めはそれくらいの気持ちだった。番組では「計量失敗を引きずって煮え切らない試合をしてしまったことを悔い、ようやく前を向く比嘉」、そんなストーリーを描いたものの、本当のところどこまで変わったかはわからない。前戦の延長のようなファイトを見ることになるかもな、そんな気持ちもあった。
試合開始、と同時に比嘉が攻めに出る。前戦と比べるまでもない全力のフルスイング。それは例えば、ボクシングジムのサンドバッグ、それもスピードを鍛える軽いやつではなく、そのジムで最も重いサンドバッグを打つ打ち方だった。試合ではほとんど見たことのない全力の連打。
すぐに解説の内藤大助が反応する。「力んでいる」「これじゃ後半までもたない」。内山すらもそれに同調する。ディフェンスのいい相手は、比嘉の全力パンチの芯は食わない。それでも、比嘉は強打のコンビネーションを繰り返す。
ラウンドは続く。比嘉のボディブローがヒットする。上下のコンビネーション、そこにアッパーがまざる。すべてが全力。内藤は後半への不安を繰り返す。これじゃだめだと。
違う、と僕は思う。違わないけど違う。
比嘉は「そんなことはわかった上で」全力のパンチを打ち続けている。このレベルの相手を、このボクシングで倒せないなら「俺はそこまでだ」そんな言葉が聞こえてくる。
そして野木トレーナーも、それを了承している。どこまで打ち合わせた作戦かはわからないが。「やってこい」そして「ダメなら、もう一度やればいいだけだ」そんなメッセージも聞こえてくる。暖かくも、一定の距離を保った2人の関係。
2人はこうするしかないのだ。あれか、これかを選択した戦略でもなく、その戦略を無視した暴走でもない。過去を振り払うためかはわからない。でも2人にとっては「そうするしかない」ボクシングなのだ。それがなぜ内藤にはわからないのか。
あるいは内藤も途中から気づいていたかもしれない。その普通じゃなさを。内藤は馬鹿ではない。内藤自身も、才能に恵まれないながらも、不器用なボクシングを磨きに磨いて世界まで辿り着いた男。途中から気づいてたはずだ。これは無謀な戦いではない。あるいは選択された無謀さなのだ。しかし、その直感を口にする勇気や確信はなかったか。あるいはテレビ中継の中に自由さは無かったか。
たまに考えることがある。地上波のボクシング中継を再生させるために必要なことはただ一つだけ。ラウンド毎のポイントを解説者が言えばいいのだ。WOWOWエキサイトマッチのように。30年にわたって毎週ボクシングを伝え続け、世界から表彰されたその番組では、常にジョー小泉と浜田剛史がラウンド毎のポイントの行方で火花を散らしていた。
「わたしは@@の10ー9」「いや、わたしは@@です」ボクシングの判定はそれほどまでに難しく、そして豊かだ。
何かを評するということは、恥をかくことを承知で一歩踏み出すことだ。ボクサーが戦っているのだから、解説も実況も伝え手も戦うべきだ。そんなシンプルな原則を僕は教わった。
比嘉はその後も、フルスイングのパンチを打ち続ける。上下の立体的なコンビネーションは、比嘉ならではのもの。そして目を見張るアッパー。横軸のフックと、縦軸のアッパー。それが顔面とボディに打ち分けられるとき、野木さんが惚れ込んだという才能が垣間見える。
まっすぐに下から上へ突き上げるアッパーを打てるボクサーは世界チャンピオンレベルでも、それほど多くない。(真一文字のストレートを打てるボクサーがあまりいないように)
そしてラスト、右アッパーのダブル。下から突き上げるアッパーを打つ時、自らの顔面のガードはできない。
それをダブルで打つということは、絶対にこれで倒す、という気持ちで打つことだ。そういう戦いを比嘉は戦って勝った。勝利者インタビューはあっさりとしたものだった。野木さんとの感動のシーンもさほどない。つまりそれは、まだ先があるということだ。
階級アップの不安は残ったが、悪くない再出発だった。
井岡と田中のタイトルマッチは18時開始。
それまで過去の名勝負のVTRが流れる。
ちょっと懐かしい演出。今回、ボクシング中継をゴールデンタイムにしなかったことが功を奏した。
無理やり引っ張ったり、生中継じゃないのに、生っぽくやる一時期のTBS的なスタイルが無くなっていた。
そこで流された過去の日本人対決。
辰吉ー薬師寺、そして畑山ー坂本。日本のボクシングが誇る永遠の宝のようなVTRが、これから行われる日本人対決の価値を高める。
「これは、あの戦いに匹敵する日本人対決なのだ」と
田中恒成の試合は、それほど追いかけてこなかった。でも過去のVTRを見ると、そのスピードは格別のように思えた。そして井岡一翔。要所要所でその戦いに惹きつけられてきた。玄人好み、と言ってしまえばそれまでなのだが、井岡の魅力はその技術の緻密さだ。どんなにスピードある打ち合いの中でも、すべてのパンチやディフェンスが意図されたものと感じさせる。すべてが練習で積み上げた動き、そして計算されたフットワーク、相手のパンチが届かない位置どり。「当て感」みたいな概念を拒絶するボクシング、それが井岡だった。
それゆえにディフェンシブな戦いになりがちであったり、意味不明な引退&復活やジムの移籍などもあり、井岡一翔は実力は認められながら、どこか感情移入が難しいボクサーでもあった。
しかし復活後は、攻撃的なボクシングにスイッチして開花する。(それはミゲール・コットの転身とも重なった)
激しい戦いの中でも、基本に忠実な動きと冷静な戦術眼を失わないボクシング。井上尚弥と同時代にいる不幸はあるが、ボクシングの技能テストのようなものがあったら井岡に勝る者は世界でもそれほど多くはないのではないか。
試合開始。
田中恒成はスピードを誇示するように、躍動的なボクシングで襲いかかる。見た目のスピードは段違い。井岡は決定打はもらはないが、ポイントで井岡にふることが妥当か、逡巡するラウンドが続く。
派手なコンビネーションを暴風雨のように放つ田中のスピードに対して、井岡はガードの位置から最短距離でジャブを出し、次の瞬間にはガードの位置に寸分違わず戻す静かな速さ。ノーモーションのジャブの美しさ。出すスピードよりも、戻すスピードに意味がある。派手さはないが、積み重ねた日々が伝わってくるジャブ。
そしてラウンドを重ねるうちに、井岡が制空権を把握していく。ここからここまでが俺の距離で、そこから離れたところがお前の距離だ。空間に実線を引いて、そのバリアのような空間を身にまとってさらに押し込んでいく。
普通は中間距離からパンチを出せる田中の方が有利。しかし、そこからのパンチを打ち落とすディフェンス技術を身にまとって井岡は前進する。「井岡のパンチが届かない距離」が「田中がそれ以上入れない距離」に変わる。
試合後に田中は語った「ここまで差があるなんて」
それは当たっていて、ちょっと外れている。前半の嵐のような猛攻で一発でも当たれば、試合は変わっていた。本当にそこまで差があったのかはわからない。しかしわずかな差を自分のものにした者が、そうでないものとの間に残酷な差を見せつけるのがボクシングだ。
左フックでダウン。思わず声がでた。僕には見えてなかった。そしてもう一度。同じ左フック。もう答えは出ていた。田中を見切るだけの時間を田中は与えてしまった。
きっと、田中には参謀が必要だったのではないか。
おそらく二人は再戦をしない。つまり、田中はあの圧倒的な敗戦のイメージを抱えたまま歩むということだ。それを払拭する機会は井岡に勝つしかない。でもその機会はきっと訪れない。
でも、だからこそ、一敗地にまみれた田中の将来に興味が湧いてくるのも事実。「無敗の天才ボクサーだった」男のこれからが。
格闘技、もしかしたら全てのスポーツの中で、ボクシングほどその競技人生で経験できる試合数の少ない競技はない。そのことがボクシングの競技性、その儚さや無情さを生み出している。
自分の強さや正しさを証明する機会。
自分のすべてをぶつけられるライバルと戦う機会。
それは、人生で一度か二度くらいかもしれない。
強くても、名勝負やライバルと出会えずに終わるボクサーも多い。
ボクサーが生きるのは、戦いの前と戦いの後の時間。その「何も証明できない時間」に耐えて積み重ねていかなければならない。
それは僕たちの人生にもどこか似ていて、だからこそその戦いに魅せられてしまう。
息を殺して見つめてしまう。