水曜日のカンパネラ・詩羽ソロ「うたうように、ほがらかに」に寄せて
水曜日のカンパネラの詩羽のソロが出るという。
ちょっと不思議なことのように最初は思えた。
コンセプチュアルなユニットである水曜日のカンパネラ。プロデューサーがいるとはいえ、ステージには詩羽しか立たない。詩羽という存在そのものが、水曜日のカンパネラのために作り上げられたもののように受け取っていたから。
例えば、バンドやアイドルグループのメンバーがソロを出すとするならば、それは集団の中で出せずにいた個性や「本当の自分」を表現する為のものだろう。
それならば、水曜日のカンパネラのソロ、とは?
それが少しイメージできないほどに、水曜日のカンパネラと詩羽という存在は不可分なもののように思えていた。
水カン的なメイクを落として、下を向くアートワーク。それは詩羽の「素顔」のようにも見える。
閉じた瞳から、涙のようにアルバムタイトルが流れる。
「うたうように、ほがらかに」
ポジティブな言葉が、涙のように。
冒頭のシングルナンバー「MY BODY IS CUTE」
ポジティブなメロディーと、あっこゴリラ的なガールパワー的な歌詞。
カラフルなバンドサウンドに乗せたアルバムで表現されるのは「そうであるべき」自分と、ありのままの自分との距離。
あるいは、ありのままの自分と「そうありたい」自分自身との距離。
どちらも完全に一致することはなく、いつだってちょっと窮屈。でも、どうすればいいんだろう。
思えば、コムアイから引き継いだ「2代目」としての詩羽が登場した時、
コムアイ以外の水曜日のカンパネラなんてありえるのかな、と僕らは考えた。
でも。そんな疑問を一瞬でかき消すほどの存在感で詩羽は現われた。
歌唱力やダンスなどの表現力や身体能力もあるけれど
それよりも何よりも、水曜日のカンパネラのあのトリッキーな世界観やイメージを「存在として体現する」キャラ感。
ステージの上の彼女は、何かインドかどこかの音楽の化身のように見えた。
「水曜日のカンパネラ」というコンセプトの完璧なビジュアル化。
それを可能にしているのは、プロフェッショナルとしての意識と鍛錬があるのだろうし、それほど彼女は「詩羽」であろうと努力をして、そうあるのであることを感じさせた。それは、少し痛々しさを感じさせるほど「頑張って」いるような気がして。
そして、アルバムの後半。
そのメッセージは解像度をあげていく。
椎名林檎的な絡みつくようなヴォーカルで歌う「teenager」
続く「あとがき」
こだわるのは両義的なあり方だ、
「嫌いなところは隠していい」し
「好きになるために見せてもいい」
「やさしい心」と「尖った気持ち」
相反するものを、ひとりの人間の中で共存させるあり方。
なぜ詩羽はソロ活動を必要としたのか
きっと僕は見誤っていた。
「水曜日のカンパネラ」が演じている自分で
ソロの自分は、そこからこぼれ落ちる自分。
そんな二分法には意味が無くて、どちらも大切な自分。
むしろ「ありのままでもいいし」「頑張って変わろうとしてもいい」
それを同時に言うために、彼女はソロを必要としたのではないか。
私は確実に2人いる。それはネガティブに聞こえてしまいそうな言葉。
それをポジティブなものとして歌うために。
いやネガ/ポジだって二分法だ。
それを分けることすらも、越えようとしている。きっと。
水曜日のカンパネラの詩羽と、ソロでの詩羽。
ファンタジー的な詩羽と、よりリアルな方向での詩羽。
どっちが本当の彼女なのか。
そんな問いが無意味であるような場所こそが、彼女のソロ活動の目指す場所であるように思う。
そんなことを書いていて、そう言えば詩羽のインタビューとかあるのかなと思う。すると、めっちゃいいインタビューがあった。
僕がつらつら考えていたこと、そのままの内容。読んでみると、僕の思い違いもあれば、それなりに当たっている部分もあった気もする。正直に言うと、あまりに的外れだからインタビューを読んで修正した部分も笑。
詳しい中身はぜひリンクを読んでいただければと思うけど、その中で一番驚いたことがあった。そこだけは引用させてもらいます。
彼女の瞳から流れ落ちていたタイトル。それは、詩羽という名前に込められた思いだった。それだけで、すべてがわかったような気がした。
とっても素敵なアルバムです。
(昔書いた、水曜日のカンパネラも出たフェスのライブレポはこちら!)
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