分人をもつ
毎日誰かが亡くなっていますし、ちょっと身近な誰かが亡くなる知らせもあったりします。
聞けば悲しくなりますが、数時間後には正直その死に思いを馳せることはなくなります。
これが親族であり、家族であった場合はまったく異なるでしょう。
この違いはなんでしょうか?
という問いに対して、佐渡島庸平さんが「ぼくらの仮説が世界をつくる」でこう書いています。
ー「死」自体が悲しいわけではない。それでは、「悲しい死」と「悲しくない死」、何が違うのでしょうか?自分の中の「分人」というものが「相手によって引き出されるもの」だとしたら、その人が死んでしまったら、その「分人」はもう引き出されることがありません。その「分人」を喪失してしまったという状態というのが「悲しみ」なのではないか。
自分というものは、それ自体で確固たるものがあるというより、分人の集合体のようなものなのかもしれません。
逆を言えば、いかに多くの分人があるかが、人としての幸せを決めていくといってもいいです。
投資とは、分人をもつ行為だと思っています。
人生たかが長くても100年。自分でやれることは限られています。
イーロン・マスクまでにはなれないし、テスラに投資してもテスラからしてみれば砂粒みたいな額かもしれません。
それでも、投資することによって、イーロン・マスクの行動は、自分の分人になります。
テスラの車を持つことによって貢献する形もありますが、企業活動に寄り添うこととは違います。時価総額が落ちても、所有している車が乗りづらくなるわけではありません。
良くも悪くも感情を与えてくれる分人がいかに自分の回りにあるのかは、豊かさの一つの指標であると思いますし、投資は、企業と個人の間で分人を成り立たせる仕組みなのです。
分人となる企業に巡り会えることは幸せなことです。
自分の会社が誰かの分人になっていたら偉業だと思います。
だから分人を見つける旅は楽しいのです。