アバターチェンジ!
この春から始まった戦隊シリーズ『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』が面白い。これを見ないと一週間が始められない。自身の志にも関連が深くて、せっかくなので何が面白いのかを言語化してみました。
人類にとって普遍性あるテーマ設定
この話には、ふつうの人間の他に、脳人、獣人という3種類の“人”が出てくる。まだその全貌は明らかになっていないが、おそらくこういうことだと思う。
脳人(のうと):人の理性が行きすぎた姿。AIやロボットを彷彿とさせる。ふつうの人間を下に見ている。
獣人(じゅうと):人の感性や感情、欲望が行きすぎた姿。動物がモチーフとなっている。ふつうの人間が欲望をさらけ出すとこうなる、という感じ。
ふつうの人間は、理性と感性の間で揺れ動く。正解はわかっているのに、その通りにできない。理性的に正しいことだけで全てを語りたくはないし、それが全てだと思いたくもない。そうは思えない。
理性であらゆることを秩序化、システム化していく。この流れは止まらない。それは生物として自然なことだ。その先端を行く“脳人”にとって、ふつうの人間は劣った存在である。人間のどこか欠けた部分、合理的になりきれない部分、曖昧な部分を受け入れられない。
一方、理性を捨てて、感性や感情、欲望のままに暴走するのが“獣人”である。まだストーリーではあまり登場していないが、おそらく感性、感情などを“拗らせた”、あるいは、“純度を高めた”ものなんじゃないかと思われる。
そんな中で、主人公の桃井太郎(ドンモモタロウ)は、人間ではありながら万能タイプ。何をやらせても上手い。上手すぎる。おまけに、人の感情が理解できない。いや、理解はしているかもしれないが、だからといって、己の正しさを曲げることできず葛藤してしまう。つまり、脳人に一番近い人間が桃井太郎なのだ。だけど同時に「それだけじゃないだろう」とも思っている。まだ桃井自身、それをうまく言葉にできないが、言動からそのように読み取れる。
この感性と理性の振り子は、一般に思われる以上に、人間にとって普遍性のあるテーマだと思う。その二項対立が、3種類の人間を描くことで、鮮明に浮かび上がってくる。
それだけでも面白いのですが、そんな普遍的で繰り返され続けているテーマを、作品として表現する手法にも魅了されちゃうんです。
そんなのアリなんだ!のオンパレード
まずもって、暴太郎戦隊ドンブラザーズなんてネーミング、思いつきますか?桃太郎なんていう国民的モチーフを持ち出しながら、アバターというメタバースを彷彿とさせる言葉を、こんなに大胆に繋げつつ、「どんぶらこ」と「首領(ドン)」「兄弟(ブラザー)」をかけて、変身した姿は全員サングラス風、武器は「ガン」ブラスターって、この時点で開いた口も塞がらないし、もう完全にお手上げです。
サクサクとぶつ切りで言葉を散らすような急展開。どうでもいいことは徹底的に省略してて無駄がない。
主人公たち5人は、女子高生、サラリーマン、配達員というベタ役割と、俳人、逃亡犯(濡れ衣っぽい)、というキワ役割。逃亡犯が変身って、どーやったら思いつくのそれ。
戦隊モノお約束の「なぜ変身できるのか」も、始まってから今まで、謎が解けないまま。5人揃って戦うけれど、なかなか「仲間」になりきれないどころか、変身前の姿をお互いに知らない(徐々に解消中)。ロボットの登場遅すぎ、文脈なさすぎ、説明少なすぎ。奥田民生のマシマロ的な崩し方。そうこうしてるうちに、メンバー変更や離脱を繰り返す。
もうね、CMみたいな驚きでお腹いっぱいです。
そのくせ、毎回の敵=抑圧された欲望のせいでバケモノに変身した人間が、元の姿に戻った後の数秒の演技が細やかでイイ。。毎回塗り重ねられる過去ヒーローのモチーフもちょっとした楽しみになる。
くだらないことやってないでもっと真面目に遊ぼうぜ
それで、じゃあ、なんなのか?
今の社会にとって、いや、いつの時代も、フィクションこそが真実を語るための唯一の方法なのかもしれない。でもそれを、真面目に語ってしまうのでは、伝わるものも伝わらない。
コンテンツの中身は普遍的で、ただその表現が変化していくに過ぎない、でもそれがコンテンツの良し悪しを決める。
真面目なものを、いかに人の直感を刺激しながら届けるか、笑いやユーモア、芸術の価値はそこにあると思います。僕ももっと遊ぶことにしまーす!
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