アメリカのフォー
僕がアメリカに駐在していた二〇〇〇年当時、アメリカにラーメンはなかった。
だから、代用食として僕たちはフォーを常食していたのだが、これがうまい。
そう、フォーはうまいのだ。
フォーは必ず香草が添えられて供される。店によって違うのだが、多くはもやし、バジル。ドクダミやパクチーが入っていることもある。
もやしはそのまま、葉っぱ類は茎から葉っぱだけをちぎって入れる。
他に添えられているのはライム、それに青唐辛子の輪切り。
これらを上からドカンと乗せて、火が通るように混ぜて食べる。
フォーはフォー・ガーという鶏ガラ出汁のフォー(鶏ガラ文化なのか、日本ではこちらを供する店が多い)と、牛肉出汁のフォー・ボー(アメリカではこっちが普通)がある。
僕の好みは牛肉出汁のフォー・ボーだ。
具もいろいろと選べる。僕が好きなのはフォー・タイという生の薄切り肉が乗った、要するにしゃぶしゃぶのようなフォーだが、スジ肉が入ったものや、内臓肉(主に胃だ。日本でいうセンマイが入っていることが多い)のフォー、肉団子や魚のすり身の団子のフォーもある。
ちなみにフォーの食べ方には厳格なルールがある。
店に入ると必ず小皿が山積みになっているのだが、とりあえずそこに唐辛子とガーリックのピューレ(スリラチャソースという。雞のマークの瓶なのでよく目立つ。カルディとかでも売っていると思う)を入れ、そこに同じ量
くらいのホイシンソース(海鮮醤という名前で李錦記が売ってる)という茶色い液体を混ぜる。
フォーが来たらとりあえずスープ少々と麺、もやしをレンゲに乗せ、具は作っておいたソースに浸してその上に乗せる。
そしてレンゲから上品にいただくのだ。
そうすればずるずる音はしないし、スープと麺、具の旨味を同時に味わうことができる。
無論、唐辛子の赤いソースを直接どんぶりに入れてしまってもいいのだが、それはあまり上品とはされないらしい。
ところで今の会社のヘッドクォーターは奇しくも僕が駐在していた場所のすぐそばだ。土地勘があるので自由にうろちょろできる。周囲の様子は少し変わっていたが、日本と違って道は変わらない。十五年くらい前にできたショッピングモールもまだその頃の様子でそのまま存在している。
その日、僕の晩御飯はフォーだった。同じ会社のミシェルが付き合うというので、近所のフォー屋さんで待ち合わせる。
彼女は先についていて、すでに生春巻きを片付けていた。
「どこにいたの?」
「外で君を待ってた。見つからなかったから」
「私、中にいたのに」
席についてフォーを頼む。
いつものようにフォー・タイ。サイズはレギュラー。この上にラージもあったがラージはやめた。
ミシェルはある程度満足していたようで、スモールを選ぶ。
フォー・タイは期待通り、肉がピンク色に染まっていて美味しそうだった。
ライムを搾り、葉っぱをちぎる。
その時、何かが動いた気がしたのだが、気にせず僕は葉っぱを散らした。
最後にもやし。
これで完璧。
フォーはベトナム料理の中でも日本人には親和性の高い料理だと思う。何しろ麺類だし、香りもいい。スープの出汁はラーメン風だ。
再び、僕は麺の中で何かが動いたような気配を感じた。
でも、動くものがあるわけがない。
気にせず食べ進める。
フォーの上に乗っている生肉は火が通り過ぎると硬くて美味しくない。とっとと食べないと。
作っておいたソースに浸しながら、具をつまみ、麺を食べる。
かすかなビーフの香りと香草の匂い、そしてソースの辛味と旨み。
最高だ。
ところが、半分以上食べてしまってから、僕はうごめく謎の物体の正体にぶち当たった。
カメムシだ。カメムシが溺死している。
気の毒に。熱いスープに煮えて、あえなく昇天したらしい。
僕は比較的そういうことは気にしない方なので、レンゲでカメムシの死体を救出すると、ナプキンの上に乗せた。
「何? それ?」
ミシェルが尋ねる。
「招かれざる客だね。なんか、入ってた」
気にせず食べ進める。
「いいの? 入ってて」
「死にはしない」
「そう、まあそうね」
ミシェルもアメリカ人だ。それ以上追求することもせず、彼女は自分のフォーを片付けることに専念した。
さて、会計となった時、僕はウェイトレスにそれとなく闖入者がいたことを告げた。
「こいつが、煮えてたよ」
ナプキンの上のカメムシを示す。
「あら、大変」
彼女はすぐにカウンターに戻ると、店長と思しき若いベトナム人に何事かまくしたて始めた。
すぐに店長がやってくる。
「お客様、どうしました?」
「いや、こいつが入ってた」
と、箸でカメムシを示す。
「それは、大変失礼しました。いつも香草はよく洗うように言っているのですが、それについていたのだと思います」
恐縮しきり。
何事かウェイトレスに告げている。
やがて届けられたレシートは一〇%が減額されていた。
すぐに店長がやってきた。よほど気になるらしい。いい奴だ。
「彼女は、どうしました?」
黙ってレシートを差し出す。特に不満はない。フォーはうまかった。
だが、店長は不服だったようだ。
「お客様の分は無料に致します。計算し直しますので、もう少し、お待ち下さい」
結局、僕の会計はタダになった。
僕はただ単に「やった、得した」と思っただけだ。
アメリカでこの程度でビビっていたら食事できない。
さて、フォーの作り方だが、これはもっぱらスープに尽きる。
牛スジと玉ねぎ、これがフォーのスープの秘密だ。
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