結局「生きる」ってなんなんだってばよ
「生きる」ってなんだろう?
そんなあまりにも身近すぎてあんまり考えてこないような題材で、こんな千差万別な問いについて正直言って答えは出しようがない。
もちろん、一党独裁で一神教な国家観ならまだできますよ。だけどあいにく戦後GHQに統治され、アメリカ的マインドを埋め込まれた現代日本においてそんなマインドを持ち合わせていない。その上、ゆとり教育ど真ん中である僕にとっては「生きる」という哲学の意味はもはやSMAPの『世界に一つだけの花』なのである。
一人一人違う種を持ち、それぞれの花を咲かせる。
まぁ美しい詩ではあると思う。だけどこの裏の意味を考えるとそのそれぞれの花は甘い香りの持つ極彩色の美しい花もあれば咲いた瞬間に悪臭を放つしわがれた老婆のような花もあるわけである。
イケてるヤツもいれば陰キャだっている。僕ですか?僕は咲く前に枯れ果てて散ってしまいました。そんな花だってある。
そんなわけで『世界に一つだけの花』を人間に置き換えて代入するととても残酷な詩に見えてくる。だからゆとり教育とはサバイバルなわけである。
話は逸れたけど、今、世間ではコロナ騒動という渦中で「自粛セヨ」という論調を軸に経済と医療現場という二つの立場ばかりがクローズアップされている。自粛で経済が倒れては日本がもたないという意見とこのままでは医療現場、ないしは国全体が病気だらけになってしまうという意見。主にこの二つの立場だろう。
まぁどちらの意見も間違いはないと思う。だけど僕個人が思うに結局のところこの両者の意見って正義同士のぶつかり合いであってただの二元論のぶつかり合いでしかないわけ。もう少しわかりやすく言うと正義と正義という意見の対立は結局のところは磁石のN極とN極を合わせてもひっつかずにお互いを弾いてしまうということなんですよ。
経済も医療も大変なのはわかるし、行政も大変なのはわかる。じゃあここに一番抜けているのは要素とは何か?
それは「生きる」という哲学である。
僕らって生まれてから否、その少しの精子と卵子の時から死というカウントダウンがなされているわけで、今何気なくネットとかして過ごしているこの一刻一秒でも確実に着実に死へ向かっているのである。
そう考えると「自粛セヨ」という何もせずに年老いていって時間だけが過ぎ去っていく言葉。これって結構、残酷だなぁって思います。
もう少し「生きる」ということに関して考えるとして、例えば完全に自粛が法的に義務付けられ、アルコールの提供も旅行もライブも娯楽も禁止になったとして、この世界線に余命一ヶ月の爺さんがいたとする。その爺さんが行きつけのバーで泣きながら懇願して酒にありついて、迫り来る寿命から逃げるように旅に出たその後自粛違反で逮捕されたとして、この爺さんを批難できるだろうか?
僕はできないし、この爺さんに対して批難する人にめちゃくちゃ嫌悪感を持つ。だって一ヶ月後に死ぬのになんで終わりのない未来に期待を強いられないかんのですか?その未来が来る前に死ぬっちゅうねんてな話です。
そう考えるとこれが今現在、僕個人の「生きる」という哲学なのだろうと思います。今、一刻一刻と死に近付いているし、体も老いてきている。だから未来に期待なんてできるわけないということ。結局のところ、自粛しても時が戻るわけじゃない。まぁ夏への扉みたいにコールドスリープでダニーみたいに肉体の時間は止めて世界は未来へ進めてくれるなら話は別ですけどね。
以上。だからこれから先は文系の力も必要ですよなんて話。