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今日のありがとう26(森博嗣「やりがいのある仕事という幻想」
『やりがいのある仕事という幻想』という本よ、「やりがいのある仕事」そのものが存在するのかどうかについて疑問を投げかけ、仕事の本質について考えさせてくれてありがとう。
森博嗣の本は、小説もおもしろいと感じる一方で、私はエッセイの方が好きなタイプである。
自分の頭で考えることを大事にし、これまで生きてきた人生が、本の内容に滲み出ていて非常におもしろいと感じる。
もともと国立大学の教官をやりながら、小説家としても活躍した時点で滲み出ているのではあるが。
森博嗣自身は大の小説好きというわけでもなく、自分のやりたいことのために土地とお金が必要になったため、小説家という職業を上手く利用したというのも独特で魅力的に写る。
さて、肝心の本の中身について、読み終えた際に印象深かった点は次の通りだ。
①周囲の言葉に惑わされない
②スペシャリストとジェネラリスト
③案外自分のことを自分でわかっていない
④人生に本当の意味での楽しみを持っている人は、誰かと楽しみについて語らなくても何も問題はない。
順に見ていきたいと思う。
①の周囲の言葉に惑わされないについて。(本書のp.91)
人は、本当のことを言わないものだと指摘されている。
2つの事例が紹介されており、1つは仕事に対する発言と実際の行動が異なること、もう1つは離婚が取り上げられている。
企業に勤め出して楽しいと発言していた人が1、2年で辞め、逆に愚痴をこぼしていた人が続いていたりする。
同様に、結婚相手のことを自慢している人に限って離婚し、逆に愚痴をこぼしていた人が続いていたりする。
私の周りを見ても、この分析は当たっていると感じた。他の人の発言は、あまりに真剣に受け止めてしまうと火傷しかねないので、気をつけようと襟を正す気持ちになった。
②のスペシャリストとジェネラリストについて。
ニッチを追求していくスペシャリストと、全体を把握して他部署への移動が可能なジェネラリスト。著者は、ますますスペシャリストが求められる時代になると予測している。
多様化が進み、個人の価値観が尊重される時代だからこそ、スペシャリストのニーズがそれなりにあるのだろう。
どちらかというと、最近の私はジェネラリストを目指している。どうしても、スペシャリストへの道を歩んでいると、視野が狭くなる気がしてくるからだ。
この本を読み、物は考えようで、複数の方面に対するスペシャリストになろうと模索するのが、今の私に適しているのかも、と思うようになった。
③の、案外自分のことを自分でわかっていない、について。
著者は、多くの学生たちと交流してきた中で、適性とその人の自分に対する認識が正反対のケースを数多く見てきたと言う。
自分のことを俯瞰し、客観的に捉えることは、それだけ難しいということか。
それならば、仕事でも趣味でも食わず嫌いせず、そして思い込みをできる限り排除して、チャレンジし続けることが、自分で適性を把握できる方法な気がした。
何事も挑戦あるのみだ。
④の、人生に本当の意味での楽しみを持っている人は、誰かと楽しみについて語らなくても何も問題はない、について。
正直、共感しかない。
普段から、気になって仕方がなかった。
なぜ、みんなは自分の楽しみについて、そこまで語りたがるのだろうかと。
なぜ、自分の楽しみを共有しようとしてくるのだろうかと。
特に会社の40代、50代は語り出したら止まらないので要注意だ。(そうではない40代、50代の方々、本当にすみません。)
私は人生で楽しんでいることを、聞かれたら答えるものの、自分からペチャクチャ語ることはない。
語りたがる人は、心の底から楽しめているわけではなく、承認欲求を満たそうとでもしているのだろうか。
だとすれば、それは他の人の人生を生きている感じになってしまっているのではなかろうか。
本当に心の底から楽しいと感じることを持っている場合は、誰かに語らずとも自己完結できるはずだ。
私は今後も、信念を持って自分の生き方を大事にしていきたい、そんなことを考えた本であった。
森博嗣の「やりがいのある仕事という幻想」よ、本当にありがとう。