誰かと比較することに意味がないと教えられた日
人は誰も、何かを、誰かと比較してしまいます。
誰かと比較することで、向上心が生まれて、努力することもあれば、
比較することで、足りない自分を意識してしまい、自尊感情が低くなり、よけいに生きづらくなってしまうこともあります。
なにごともバランスが大事だとは分かっていても、簡単に制御できるものであれば誰も苦労しませんよね。
比較ばかりしているとメンタル的によくないことは、理屈ではわかっていても、比較せずに生きることはとても難しいものだと思います。
たまたま私は、仕事をとおして、そもそも比較すること自体とても困難なものであることを知りました。
それを知ったおかげで、生きることが少し楽になりました。
お金も成功も欲しい
私は聖人ではないので、この歳になってもまだ、
「あの人のようにお金持ちになりたい」とか、
「もっといい家に住みたい」とか、
うらやむ気持ちはゼロにはなりません。
私は、今はnoteに夢中なのですが、facebookもやっています……というか、やっていました。
最近、私の「友達」になっている人でfacebook離れしている人が、だんだん多くなってきました。
交流を楽しむためにはじめたSNSなのに、ぜんぜん楽しめない。
毎日毎日、たくさんの「いいね」を押す日々。
次から次へとタイムラインに流れ去っていく投稿が、心にぜんぜん響かない。
それどころか、楽しそうに笑っているパーティーの画像や、きれいな皿に盛られた豪華な料理の画像を目にするたびに、なぜか心がしぼんでいく気がする。
自分以外の人間ばかりが、楽しい出来事にありついているような気持ちになる。
そんなふうに話す「友達」もいました。
しかし、幸せアピールをする友人も、わざわざ悲しいことやつらいことを投稿しないだけで、実はいろんな問題や悩みを抱えていたりします。
本当は厳密な比較などできないのに、私たちは無意識に比較してしまう日々を送っています。
人のことはうわべしかわからない
消防士時代には「自損行為」でけっこうな件数出動しました。
※自損行為とは、救急種別で
故意に自分自身に傷害等を加えた事故をいう
未遂であったり、既遂であったりします。
要請のあった豪邸に到着し、救急搬送したことがあります。
シャンデリアの灯りの下で、意識を失っている男性の表情は、生々しい苦しみをあらわしていました。
単独事故で崖下に落ちて変形した外車から、運転者を救出したことがありました。
救急隊員が必死になって救出して搬送したのに、結果的にはお亡くなりになられました。
その後、真偽のほどは定かではありませんが、経営されていた会社が倒産の危機で、保険金目当てで自殺したのではないかという噂が流れました。
小さな町なので、噂がとてもリアルな話になっていました。
どちらの方も、裕福な生活をされていたので、多くの人から羨まれていたことはまちがいありません。
生身の人間が苦しみもだえる表情を見ながら搬送すると、
「自分と別の誰かとを比較する行為自体になんの意味もないなぁ」としか思えなくなります。
あんなに豪華な邸宅で裕福に生活していても、家族にも話せないような苦しみをかかえていたわけです。
華やかな生活を送っているように見えていても、毎日をゆううつな気持ちで過ごしていたんだと思います。
人間が生きていると、運気のいいときや悪いときがあります。
どの時点で比較するかで、評価はずいぶん違ってきます。
成功のために必死にやってきた努力や、イヤなことを克服してきたことなど、知ることもできないのに、多くの人が勝手に比較し、羨望し、嫉妬しています。
人生のポイントカードはない
誰もに共通のポイントカードは存在しません。
経済力でのポイント
健康でのポイント
人気でのポイント
人徳でのポイント
人脈でのポイント
ビジュアルでのポイント
それぞれの項目のポイント化は簡単ではありませんが、総合ポイントとなると、さらに難しくなります。
そんなことをポイント化できるのは神様しかいません。
そんな困難なことを私たちは、勝手に無意識にやって、勝手に苦しんでいるんですね。
それでもやってしまうのが他人との比較。
「比較しないようにしよう。他人を羨まないようにしよう」
と、念じていると、逆に意識してしまいます。
比較することをゼロにはできませんが、
「この比較もどうせハズレているんだ」
と気づくことで、ちょっと気持ちが楽になりませんか?
もしサポートしていただけたら、さらなる精進のためのエネルギーとさせていただきたいと思います!!