共感しすぎると広がらない
ということで、今回は共感しすぎるとアイデアや考えが拡がらなくなっていくことについて考えて行きたいと思います〜。
完全に一致しているように見えると広がらない
社会に属する上で必須になるコミュニケーションの一つである共感ですが、共感しすぎる事で「だよね〜」で終わってしまうということが言いたい私です。皆さん経験あるかと思いますが時には新しい刺激や意見のギャップがある事で考えが広がる事があります。
一度まったく同じアイデアで広がらない経験を思い出してください。
本当にまったく同じという事は稀だとは思いますが、結構あるあると思った人も多いのではないでしょうか。共感しかできない、それ以上自分が語れないことに対しても同じことが起きるように思います。
ベン図でもそうですが、自らの想定と全く重なり合うものが同じ場合知ろうとする、知り得る余白がないですよね。イメージこんな感じかと思います。新たに知れる範囲が、共感しすぎると少ないってことですね。会話の目的にもよりますが適度に異なることが新しいものを獲得するには必要であると思います。獲得するという目的がなくても、新たな発見があるときもこの適度に重なっていないってことが必要な気がします。
また、ここでの共感は決していけないものではなく、ギャップを創造性を生む為の最低限の共通言語であると思います。全く違うのであればシナジーは起きないのではないでしょうか。なので、適度に共通して語れる共通言語を獲得することも大切であります。
共通を見つけるために
そのままです。前述したように適度に知らない範囲の幅がなければならないのですが、全く相手と重ならないとそれはそれでいけません。
共感は最低限会話を整理させるために必要なものです。適度に共通言語を見つけるためにどうすればいいですが、共通のものが現れるまで抽象化していくことが位置案近いような気がします。
どのように私が普段しているかですが、ひたすら違和感を「なぜそれをやっているの」、「いつからそれをやってるの」、「どういう風にやってるの」と問いを重ねていくことぜ深くなっていきますが、語れないレベルまでくると徐々に言葉は抽象的になってきます。そこで重なる場所を探し、違う言葉でもリンクできそうな場所をひたすら探します。その後はひたすら今までの違うについて聞き続けます。そうすることで違った表現方法や違さから自らを省みることができます。
違うと違うで楽しい
根源的にクローンでさえ、歩んできた時間やタイミングがほんの少し異なっていれば思考は変わってくるはずです。その違いを排他的に捉えるのではなく前向きに捉えることで日常会話から真剣な会議なども見え方変わってくるのではないでしょうか。捉え方によって違うとしか言えないかもしれません。
それこそ、毎日の帰り道も空の明るさや街頭の数、すれ違う人によって街や部屋の中も毎日、毎瞬間ずつ違った顔を見せてくれるはずです。”違う”を肯定的に捉えることで毎日が今よりも色づくかもしれません。
今回はここまで。良い違いを楽しんでください!