楽しい批判のしかた
私がなぜ鑑賞を推しているのか、対話型鑑賞をしたいのかについて少し深掘りして考えてみようと思います。
その時に避けて通れないのが批判的思考。
どうしても批判と聞くとネガティブなイメージがあるかと思います。
実際に批判という言葉を検索してみると、
誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
(コトバンクから)
とありました。
実際に全員が尽力した場において、「でも」「だけど」「しかし」など前記したものを批判的に論じると微妙な雰囲気になることがあるかと思います。
私の身の回りでもこういうことが多くあります。批判コメントあると悪気がないのに微妙な空気になっちゃう時ありますよね。
ですが、今回述べたい批判というのは創造的な批判です。クリエイティブなクリティカルなわけです。
「誤りや欠点をを指摘する」というのは一見責め立てられるように思いますが、捉え直してみると「誤りや欠点を修正するチャンスな訳です」
これが本来の批判の持つポジティブさかと思います。
批判ってポジティブなんですよ!本当に。
誰もが褒めてくれた時、それ以上をきっかけは無くなってしまいます。だからこそ批判が必要なのです。
じゃあどうしたら楽しく批判を捉えられるかということですが、これはそう解釈できるように練習をする必要があると思います。
その練習の一つが鑑賞かと思います。
もしここに赤い拳サイズの球体があったとします。
それを誰かがリンゴと言います。でも、私にとってはトマトに見えます。
そしてそれを伝えると、また一方から赤いボールだという意見がでます。
ここで重要なのは各々が別のものに見えているということです。トマトでも甘いトマトか酸っぱいトマトか人によって感じ考えてることのズレがあるはずです。
それを、あーでもない、こーでもないと話しているといつのまにか自分かもしくは、全員がしっくり来る解釈に出会える時があると思います。
これが批判のもつ創造性かとおもいます。
あらゆる視点から私のもつ考えを再考することでその中から新しい発見を行うことができるのです。
だからこの文章を読んで同意する人もいれば、それは批判的思考とは違うというひとがいるかもしれませんが、異なるということを言われなければこの文章はここ以上に進化しません。
批判は根からポジティブなのです。
では、なぜ批判がネガティブとかんじてしまうのかについてですが、これは、対象と自己を同一視してしまっているからではないでしょうか。
「これはダメだね」
と言われた時、言った側はそのなんかしらの対象がその人の価値観から言うと違うと言うことであって、対象を作り出した人を否定しているわけではないのです。
でも、ダメって言われたし、どこか自分が否定される感じがします。
そんな時お互いが幸せになれる魔法の言葉があります。
それが「私は」です。
これを頭につけてあげるだけで「私はダメだと思う」となるかとおもいます。
あくまでも、ダメなのはその人の価値観や考えからであって、私自身ではありません。
なので、批判的なコメントをする際は、ついつい省きがちな主語をちゃんとつけてあげることでお互い楽しくその対象に向き合うことができるのではないでしょうか。
これがわたしの考える「楽しい批判のしかた」です。
なのでこの文章も、わたしがそう考えているだけで別の角度からみるとなんか違うかもしれません。
それでもそれを伝えてあげることで、互いに一つ上のレベルへとあがることができるのです。