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小野小町の中心人物、小野吉子
我が家の先祖にあたる小野吉子は小野小町の時代紹介によくある「仁明朝」の小野小町になり五代目の小野小町にあたります、小野篁の娘として氏女となった吉子は仁明天皇妃となり子を成し、その子が小野を名乗り興した家が小町小野家になります。
小野吉子は残念なことに派手な伝説は残していませんが、「薬師如来との贈答歌のやり取りをした」人物が小野吉子であり、真実としては「病は治らず七日後に亡くなった」事を突き止めています。
亡くなった年が81歳で、その逸話を聞いた恵心僧都が彫った像が今でも法輪寺で祀られていますが、今の住職になるまで埃を被った状態だったそうです、今の住職は小野小町から怒られた為に基壇を設け毎日、抹茶(小野小町からのリクエスト)をお供えするようになったそうです。(お寺を訪ねた時に聞いた実話です。笑。)
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この恵心僧都の彫った像を鎌倉時代に写した像が随心院の卒塔婆小町座像として有名になっているのです、本家本元は全く知られていない事が真実になります、その小野吉子がなぜ、小野小町の代表格のように扱われているのかをご紹介をしたいと思います。
私の研究から小野小町とは14人いたことが分かってはいますが、14人もいたのに小野小町とは仁明朝と云われるには理由があるのだと考えます、小野小町の初代は奈良時代の末期で平安時代の人ではありません、夫は小野石根で遣唐副使としての帰りの船で亡くなっています。
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小野石根は楊貴妃の死を唐時代の中国皇帝へ告げる役割を担っていたと考えられます(研究成果により)、才女たる小野小町も楊貴妃とは面識をもっていた事が推測されています、そんな小野小町は向津具半島にあった八木家へ楊貴妃の死を伝え、そのまま山口県にとどまり小野石根を待っていた事が分かっています。
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最後の小野小町は鎌倉時代の末期、南北朝時代に我が家のご先祖、小周防の大弐房へと嫁ぎ、小町小野家が天皇を守れず詫びて家名を捨て、成人男性が全員討ち死にした事を朝廷へと赴き報告した後に実家の福井県越前市に戻ろうとする道半ばで盲腸で亡くなっています。
14代目の小野小町は京丹後の五十河の里で亡くなっています。
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小野小町には一つの特徴があります、「一定の要件を満たした小野氏の女性が采女、または氏女として後宮へ上がっている」という事です、そして氏女の小野小町は小野石子を除き天皇妃または親王妃となり、采女の小野小町は一人を除き、小野氏(特に氏長者の小野家)へと嫁いでいる傾向があります。
この時代は他の氏族との結びつきを考えて娘を嫁がせる時代にあって、この様子は「異常」だとも言えますが、その理由が小野小町とは「霊能者で神と交信する能力を有する者、巫女としての能力を発揮した者」が天皇へとメッセージを届けるために後宮へと上がっていたと私は推測しています。
小野小町に霊験譚が多いのはその為で、本人にとっては普段の出来事だったとしても、それを目の当たりにした者にとっては恐れ多い事を目撃した為に、神罰が下されない程度に流布されたものが伝わったのではないかと推測しています。
ではどうして小野家の女性にそんな女性が生まれるのか、それも突き止める事が出来ました、「小野」という姓は「瀬織津姫(後の天照大神)」が月王家の女王として天下春命を夫に迎え興した一族になるからです。
天御中主神の頃より皇位が定められ、太陽男王家(後の天皇家)と月皇后家(後の小野家)として王家が二つ設けられました、瀬織津姫の祖母の「龍姫さま」は姓を「小」とし、母の大月姫(竜王姫、大宜都比売神)が月皇后家の女王となって姓を「野」とした為に、瀬織津姫が姓を複姓の「小野」にした事も龍王の研究から分かってまいりました。
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この月王家を神武天皇の時代から名前を地神大王家と変えて継承した家が「小野家」だったのです、地神大王家の役割として小野家には代々、巫女が生まれていたのだと推測されます、その中で奈良時代末期、最初の小野小町が後宮での仮称を「小町」とした事に端を欲するのが小野小町になるのです。(男王家が天皇家である為、男子による継承となっています。)
歴代の小野小町の中で、最も女王のように振る舞った女性が我が家のご先祖にあたる小野吉子(おののよしこ)だったようです、小野吉子は父の小野篁が亡くなると、そのまま小野氏長者となり一族を率いた様子が残されています。
天皇家や朝廷も律令下となっていて小野氏は大王家では無くなっていましたが、元々は地神大王家であり、霊能力も高く、女王として振る舞う小野吉子を敬い、そして恐れていたのではないかと思っています。
そんな小野吉子が自分の子供を連れて今の岡山県に移り住んだのは、岡山県が龍王の國であった為ではないかと、最新の研究から分かる事になったのです、当時の小野小町や小野篁がどこまでの事を知っていたのかは最早不明の事ですが、我が家の口伝には「小野篁と小野吉子は神懸っていた」と伝えます。
都を平安京に移し、政情不安定な社会にあって小野篁や小野吉子が果たした役割は、貴族達の記憶に鮮烈に残されたが為に、小野小町とは「仁明朝」という記憶になったものと推測されます、それは小野篁のあだ名「矢大臣」という単語に集約されています、矢大臣とは「左大臣」という意味を持ち、小野篁は参議ではありましたがそこまで権力があった訳ではありません、しかし実質的には左大臣と同じ状態だった事からつけられたあだ名ではないかと推測できるのです。
小野篁の時代には大納言として権勢を振るっていた藤原良房がいましたので、上位の貴族の頭越しに物事を決めていた可能性があるのです、勿論、小野吉子が仁明妃として二人がかりで藤原氏の専横を押さえていた事は、書物には書かれていなくても、有名な事実だったのだと思います。
ましてや二人に逆らうと神罰も下ったのだと推測できます、この一時代、天皇家と小野家は再び一つと成って短い間ながらも政治を取り仕切っていたのかもしれません。
小野小町には華やかなイメージしかありませんが、政治に参画するのが小野家の女性の仕事だったのです、だから小野小町は小野一族の宝物であるため、他家へと嫁がせる事はしないで、小野氏の中で力のある家の者へと嫁いでいた様子が残されています。
我が家の氏神には小野篁、小野小町、小野好古、小野道風が祀られていました、歴代の小野小町の娘が我が家へと嫁いだのではないかと思っています、それだけ一般には知られていない何かを小野吉子はしていたのだと推測出来るのです。(小野一族からも神のように信仰されていた何かです。)
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岡山県倉敷市、この倉敷という地名も小野吉子が備中目代として城郭を構え「倉子城(くらしき)」と名付けた事に由来しているようです。(これは倉子城の水夫(かこ)をしていた人達の村が「くらしき」と呼ばれていた為に、後に蔵敷村などと呼ばれるようになった為のようです。現在は「倉敷地」に由来するとしていますが、この倉敷地に由来する倉敷は別に岡山県美作市にあり別の事例を由来としています。)
江戸時代中期までは岡山県とは小野小町の住んだ町として有名だったのです、その事を物語るのが倉子城へと行く道中にある「小町橋」という石橋です、これは山中の谷に掛けられている橋ですが、あまりに多くの人が訪れるので木の橋では壊れるため架けられたもののようです、今は道路となり欄干の一部が見えるだけの状態になっていました。
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興味のある方はぜひ一度、岡山県へ訪れてみてはいかがでしょうか、ただし、行政が真実を拒否しているので整備されていない状況を嘆く事になると思いますが、それは子孫として申し訳なく思います。<(_ _)>
龍海