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小町ヶ姉と茨城県の小野小町

 茨城県稲敷市小野には小野小町の伝承がありませんが、同じ土浦市小野には小野小町の伝承が残されています、その内容とは「言い伝えによると、京都から奥州(東北地方)に旅する途中、清滝観音から北向観音(石岡市小野越(旧八郷町))へ向かいお参りしたあと病に倒れ、この地の村長、小野源兵衛氏宅で親切な介抱を受けたが、元慶7(883)年7月7日69歳でなくなったといわれている。」とあります。

土浦市小野の小町の館
小野小町の墓

 奥州で生まれた小野小町は3人ほど居ると考えていますが、亡くなったのが883年で69歳ならば生まれた年は815年となり、小野岑守が陸奥守となって福島県田村市小野に息子の小野篁を伴って訪れた年にあたります。

 福島県田村郡小野には小野小町の生誕伝承がありますので、この地で生まれた娘が茨城県土浦市小野で亡くなった小野小町として間違い無いと考えます、小野篁には820年に生まれた娘で五代目の小野小町の小野吉子がいます。

福島県田村郡小野

 そして小野岑守には809年に生まれた四代目の小野小町で小野篁の妹の小野重子がいます、815年とはこの二人の間にあたり、両者の間があまり離れていないので、小野小町として後宮にいたとは考えにくい女性でもあります。

 また小野岑守は子供が出来にくかった事が晩年に生まれた小野篁が跡取りとなっている事からも伺われるため、815年に福島県田村郡小野で生まれたとされる小野小町とは小野篁の長女で小野吉子の姉にあたる女性だと考えられます。

 田村市小野では小野館の下女が産んだと伝えられていますが、おそらくはこの下女から生まれた娘が土浦市小野で亡くなった小野小町だと考えられ、仁明天皇妃となっている小野吉子の母は外従五位下の小野猿麻呂の娘だと考えられ、父が小野篁とはいえ下女の娘に生まれた者が天皇妃になる事など不可能だと言わざるを得ない時代でもあった事が証拠となっています。

 では何故、稲敷市小野なのか、小野篁の娘ならば現地に手がかりが残されていました、現地には「慈雲山 逢善寺」というのがあり、実際に訪れてみてビックリしたのはその造りです、どれだけお金を掛けたのか!?

 私も色々と神社や寺を見てはいますが、大きさに似合わない豪勢な造りは一見の価値があると思います。

 その逢善寺に伝わる由緒書きによると、「天長三年(826)の開基で、小野篁の上洛の砌(みぎり)、淳和天皇の奏聞に達し」とあります。

 『當山由緒』には小野篁が建立にも携わった事が書かれています。

 平安時代初期の稲敷市小野には小野氏が土着していたと考えられます、足利学校も小野篁の創建と伝えられていることと併せて考えると、ちょうどこの頃には関東周辺に来ていたのだと考えられます。(具体的な官報は残っていません。)

 小野篁は小野岑守の息子であり、その博学ぶりは子供の頃から鳴り響いていましたので、稲敷市の小野氏も屋敷にまねいて接待したのだと思います、それは天長三年の前でしょうからちょうど、小野篁の長女が12才になる前の事になり、婚姻を結ぶ適齢期でもあります。(当時の結婚は早く、実際の夫婦関係になるのはもう少し後ですが、女子ならば12才頃に相手が決まるのが普通の時代でした。)

 稲敷市小野にいたのは小野真野の後裔と思われ、小野真野は少納言にもなった小野氏のなかでも実力者であったと思います、826年ならば小野真野がまだ生きていた時代なので、直接小野真野から娘をくれと言われて断れなかったのだと推測します。

 そして真野は自分の領地にお寺を勧請する為、小野篁に上奏させ許可を貰ってお寺を建立したと考えられます。

 つまり結婚したのは小野真野の息子か孫と小野篁の娘で815年に陸奥で生まれた娘であると考えられ、和歌の作者として「小町ヶ姉」という名前がありますので、小野篁の長女は「小町ヶ姉」と考えるのが最も適切な考察になります。

 また小町ヶ姉の嫁ぎ先として伝承のある「常陸(ひたち)、※茨城の旧国名」の要件と嫁ぎ先の稲敷市小野、そして土浦市小野で亡くなった小野小町とに関連性が生まれ、土浦市小野で亡くなったのは小野小町ではなく、小野小町の姉、我が家の先祖、小野吉子の姉だということになるのです。

 小野小町とは小野一族に生まれ霊能力が高かった女性が後宮へ上がり、「小野小町」と名乗ったと考えていますが、共通項は美人で博識、和歌の達者であり、小町ヶ姉は後宮へと上がってはいないながら、小野小町に比肩する女性であった事が分かります。

 生まれた福島県田村郡小野でも、亡くなった茨城県土浦市小野でも小野小町と伝えられていますが、嫁ぎ先と考えられる稲敷市小野では小野小町の伝承がありません、なので一応は「小町ヶ姉」で小野小町を名乗ってはいないとしますが、小野小町に比肩する女性であった事だけは間違い無いと考えます。(これは稲敷市小野の屋敷が京都にあった可能性があり、嫁いだ先は常陸でも生活拠点は京都だった可能性を含んでいます。)

 そもそも「小町ヶ姉」と名乗った事も、妹の小野吉子が自慢であった為と考えられ、小野吉子が小野小町として類いまれなる女性で、その一番の理解者が小町ヶ姉だったのだと思えるからです、だからこそ妹を自慢し、その自慢の妹の姉として、「小町ヶ姉」と名乗り和歌を詠んでいたからだと思います。
 
 土浦市小野に伝わる小野小町の伝承とは、京都に暮らしていた小町ヶ姉が嫁ぎ先の稲敷市小野へと帰り、その後に生まれ故郷の福島県田村郡小野へと帰る途中、懇意にしていた土浦市小野の家にも泊まり、その時に病気になって亡くなったと考えています。

小町ヶ姉の予想される行程

 あひ知れりける人のやうやく離(か)れがたになりけるあひだに、焼けたる茅(ち)の葉に文をさしてつかはせりける
 時すぎてかれゆく小野のあさぢには今は思ひぞたえずもえける

                    小町ヶ姉

 意味:盛りの時が過ぎて、枯れてゆく小野の浅茅は、今は火が絶えず燃えている。(恋の盛りの時が過ぎて、あなたから疎まれるようになった私には、今恋の火がしきりに燃えているのです。)

 和歌の出典:https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/komati_a.html

 龍海


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