小野小町の位牌をご紹介します
これは鳥取県西伯郡南部町にある「金龍山 雲光寺」に納められている「小野小町の位牌」です。
この位牌は「雲首形(うずがた)位牌」と呼ばれる形式のものと思われ、位牌としては最古の形式のものと思われます、しかし最古の位牌は鎌倉時代とされていますので、実は小野小町の生きた平安時代初期には「位牌」というものが無かった事が分かっています、つまりこの位牌は後世に縁のある者が「小野小町」を偲んで作らせたものということが言えます。
全面の戒名にある「雲光初開発」とあるのは、納められているお寺である「雲光寺」にも関係しており、同寺は1390年頃の開基と伝わっていますが、それより前に四代小野小町の建てた「雲光」と呼ばれる御堂に由来していると思われるからです。
つまり初開基が小野小町で、その地に御堂の後を受けて寺院が建立されたと考えられるのです、またこの戒名には「院殿」、「大禅定尼」の号がついており、最上位の位を表しています。(院殿などは大名につけられる号)
裏には「承和五年(838)四月二十九日卒」と亡くなった日が書かれています、これは五代目小野小町が昌泰三年(900)、六代目小野小町は延喜十八年(918)頃に亡くなっていると思われるので、この人物が四代小野小町の亡くなった年だと考えられる訳です。
この838年という年は小野篁が遣唐使船の乗船拒否をした年ですから四代小野小町の死が関係していることは間違いないと思います。
また「小野篁公息女 小野小町姫」とあるのは、この情報を伝えたのが五代目の小野小町で小野篁の娘の「小野吉子」の末裔だからです。
実はほとんど同じ内容ではありますが、別の位牌を持っている家があり、その位牌の内容を元にして雲光寺の位牌が作られたと分かっているのです。
その家は元々、岡山県の津山市に家がありましたが、室町時代に鳥取県の伯耆町小町へとやってきたと伝承されており、小野小町が先祖にあるとも聞いていたようです。
美作の小野は小野小町の領地があった場所で、我が家の先祖が小周防から移り住んだと推測している場所になります、なぜなら江戸初期には「湯郷(ゆのごう)」へと移り住んでいた事が分かっている為で、小周防→美作小野→湯郷と時系列に情報が並んでいる事にあります。
またこの位牌を伝える家は瀬戸内海で小町小野家と共闘する関係にあり、婚姻関係を結んでいた事が強く考えられる家で、源平合戦の時に平家方の武将であった為、小町小野家が源氏方にとりなして津山へと逃がしていた様子が分かっている家なのです。
また、この位牌は室町時代に作られたものと考えられますが、その時には既に小町小野家でも四代の情報と五代目の情報が混同されていて、小野小町とは一人であるかの様に思われていた事も知る事が出来るのです。
しかしながら鳥取県西伯郡南部町に四代目の小野小町の墓を作っていたので、その小野小町の位牌として、記憶としてに残す目的で位牌を作ったとも考えられます。(下のお墓は小野篁の妹で嵯峨上皇の后、四代目の小野小町である小野重子の墓になります。)
有名な所だけが小野小町の関連地ではないことをこの位牌やお墓が教えてくれています。
龍海